消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(433) 韓国併合100年(72) 廃仏毀釈(6)

2012-08-04 22:04:11 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 

(1) 「不受不施」(ふじゅ・ふせ)の「不受」とは、謗法(ぼうほう。注・仏法をそしり、真理をないがしろにすること)の供養(くよう。注・仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること)を受けないということである。「不施」とは、謗法の人のために祈念・読経・唱題をしないということである。

 日蓮宗不受不施派とは、京都妙覚寺一九世仏性院・日奥(にちおう)を派祖とする日蓮宗の一つのことである。日奥は、一五六五年、京都に生まれ、二八歳の時、妙覚寺一九世を譲り承けた。一五九五年九月、豊臣秀吉が、先祖並びに亡父母追善のため、京都東山の妙法院に大仏を建立し、千僧供養(せんぞうくよう。注・一〇〇〇人の僧を招いて食を供して供養すること)を執行しようとして、諸宗に僧侶の出仕(しゅっし。注・緊急に参加すること)を招請した。しかし、未入信者・謗法者である秀吉の供養出仕に応ずることは、法華宗の行規である「不受不施」の宗義を破ることになるという理由で、日奥は秀吉の出仕命令を拒否し、妙覚寺を退出し、丹波小泉に蟄居(ちっきょ)した。その際、日奥は秀吉に『法華宗諌状』を提出した。一五九六年七月一二日、大地震が起こり、問題の大仏殿が崩壊した。

 一五九九年一一月、今度は、徳川家康が、大仏供養を受け入れた日蓮宗の他の宗派(注・出仕派・受派という)と日奥を論争させ、出仕させようとしたが、日奥は出仕を拒否し続けた。その結果、日奥は、対馬への流罪を言い渡された。一三年にわたる流罪生活の後、日奥は、一六一二年に京都に帰った。一六二九年、徳川秀忠が崇源院大夫人菩提のため、芝増上寺において、諸宗の僧侶に諷経(ふぎん。注・ 経文を声を出して読むこと)を命じた。これが発端となって、身延山(受派)と池上本門寺(不受派)との間に訴訟合戦が起こり、一六三〇年二月、、日奥は、幕府に逆らう不受不施派の首謀者と裁決され、再度、対馬に流されることになったが、その直前に日奥は、亡くなっている。これは、「死後の流罪」と言われている。

 一六六九年三月、徳川幕府は、不受不施寺院の寺請(注2で解説する)の停止を発令し、不受不施は明治に入っても禁制(注・法令によって禁止されること)であった。この禁制は、一八七六年に解除されたのであるが、じつに、この派は、二〇〇年にわたって禁制されていたのである(http://homepage3.nifty.com/y-maki/bd/bd09.htm)。 

(2) 仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請ける制度である。寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となることを義務付けられた。寺院では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという形が定まり、寺院は、一定の信徒と収入を保証される形となった。

 その目的において、寺請制度は、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙ったものであったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も寺院に担わせていた。こうして、仏教教団は、幕府の統治体制の一翼を担うこととなった(http://gankaiun.com/bukkyou/25.html)。

(3) 中山忠能は、明治天皇の生母・慶子(よしこ)の父。一八六四年七月、長州藩が武力上洛を支持、しかし、禁門の変で長州藩兵が敗北した直後、謹慎を命じられる。一八六七年一月の孝明天皇の死に伴う大赦によって処分解除。長老として岩倉具視らと共に王政復古の政変を画策、政変後、三職制が新設されて議定(ぎじょう)に就任した。三職制とは、一八六七年の王政復古の大号令に伴い、定められた政治の最高幹部制度で、総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職を指す。議定とは、議員のこと(http://www.memomsg.com/dictionary/D1367/485.html)。

(4) 飛鳥時代の仏教伝来以来、日本の古い神道は仏教と混ざり合った。これが、「神仏習合」である。神道には、根本聖典がないことが、神学を形成していく上で障害となっていた。江戸時代の国学者の平田篤胤(あつたね、一七七六年生まれ)は、法華宗や密教、キリスト教などの他宗教や神仙道を取り入れた「平田派国学」を作り上げた(菅田[一九九四]、一〇二~一〇四ページ)。この平田派国学の流れから明治維新の思想的一面が形成された。儒教や仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうというのがこの思想であり、明治維新の尊皇攘夷運動のイデオロギーに取り入れられた。彼らが、神仏分離、廃仏毀釈の運動を起こし、神道国教化を推進したのである。日本民族の固有の精神とは、明治時代に本田親徳(ちかあつ)や、本田の弟子・長沢雄楯(かつたて)らによって打ち出された思想である。人間の心は、根源神の分霊である「直霊」(なおひ)が、「荒魂」(あらたま)、「和魂」(にぎたま)、「奇魂」(くしたま)、「幸魂」(さきたま)の四つの魂を統御するという日本古来の「一霊四魂」説を整理したのが、彼らの思想である。

 彼らが唱道する復古神道は、天之御中主神(あめのみかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の造化三神を根源神としている。『古事記』では、天之御中主神が、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている。その名の通り天の真ん中にいる神である。その後、後の二神が現れ、すぐに姿を隠したとしている。この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」(ひとりがみ)という。

 高御産巣日神は、天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。本来は高木の神格化されたものを指したと考えられている。「産霊」(むすひ)は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である。

 神皇産霊神は、死と再生を司る神でもあった。『古事記』の大国主命(おおくにぬしのみこと)の物語に異母兄弟の八十神(やそがみ・多くの神)に謀殺されて、蘇る物語がある。八十神たちは稲羽(いなば)の八上比売(やがみひめ)に求婚したが、ことごとく断られてしまったのに、大国主命は助けた因幡の白兎の知恵を授かり、とうとう八上比売の心を射止めた。これに怒った八十神たちは、「山の赤い猪を追い落とすから、捕まえろ」と言って、猪に似た大石を真っ赤に焼いて落とした。待っていた大国主命は落ちてきた焼石に焼かれて死んでしまった。その母の刺国若姫(さしくみわかめひめ)は嘆いて、神産巣日之命に助けを乞うと、その二人の娘、蚶貝比売命(さきがいひめのみこと)、蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)という貝の精を遣わし、大国主命を作り活かしたとされる。このように、神皇産霊神は、いったんは死なせて、新たに生まれ変わらせる神でもあった(http://shrine.s25.xrea.com/sansingosin.html、および、   http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=515)。


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