消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(384) 日本を仕分けする(7) 鉄道(2)

2011-01-23 12:19:16 | 野崎日記(新しい世界秩序)
⑤相次ぐ銀行設立。 1887(明治20年、共立銀行。1893(明治26)年、大阪興業銀行。1894(明治27)年、日本貯金銀行。1896(明治29)年、明治銀行。共立銀行は倉庫内の貨物を抵当として貸付をする機関として、在阪の商人とともに設立したもの。1900(明治33)年浪速銀行と合併。同様に在阪の商人と設立したのが、日本貯金銀行。大阪興業銀行は、大阪安治川へ搬入される九州炭への荷為替金融を開く目的。1897(明治30)年、明治銀行、名古屋在住の実業家から出資を募って設立した資本金300万円の大銀行。1886(明治19)年以来、同地で営業してきた百三十国立銀行名古屋支店はその役割を終え、翌 1898 年、明治銀行に合併、閉店。第百三十国立銀行は、1898(明治31)年に20年の国立銀行満期を迎え、普通銀行へと転換し、百三十銀行となった。同行は、1898年に第百三十六国立銀行、大阪興業銀行、小西銀行を、1899年には京都の西陣銀行を、1902(明治 35)年には福知山銀行、八十七銀行を次々と合併し、同年資本金325万円の大銀行となった。

⑥鉄道。 鉄道業界の起業ブームが始まったのは、1881(明治13)年設立の日本鉄道会社が1割配当を実施した1883~84(明治16~17)年頃である。1884(明治17)年、日本で初めての純然たる私鉄、阪堺鉄道が計画され、1886(明治19)年に難波-大和川北岸間の開通を見た。阪堺鉄道の計画に当たって、松本は難波と住吉を結ぶ街道筋に立ち、交通量の調査をして採算の見通しをたてたという有名なエピソードがある。阪堺鉄道の発起人 19 人のうち 12 人は堺の有力資産家であった。資本金は 25 万円で、松本が社長に選ばれた。松本の持ち株は全 2500 株(1株100 円)中200 株で、筆頭株主の藤田伝三郎250 株に次ぐ。阪堺鉄道は開業2年後の1888(明治21)年春には堺吾妻橋まで路線を延長。さらに、1892(明治25)年春には難波-住吉間の複線化。同社の経営は順調で、株主配当は開業当初 7.3%であったものが、1898(明治31)年には 32.7%に達した。この成功を受けて、松本は和歌山方面への鉄道の伸長を企図した。競合問題が発生したが、松方正義の裁定により問題を解決し、1898(明治31)年南海鉄道が発足。松本が取締役社長。阪堺鉄道は解散して同社に営業を譲渡。松本は 1886(明治19)年の山陽鉄道敷設計画においても発起人として参画。山陽鉄道は当初神戸姫路間 35 マイルの敷設許可を受けていたが、1892(明治25)年 4月に三原までの 40マイルの開通を実現。このとき中上川彦次郎が社長を辞任したため、松本が後を襲った。折からの不況で同社は経営困難の中にあった。同年 8 月、松本は多数の役員の反対を押し切って、三原以西下関にいたる区間の開通工事に取りかかることを臨時株主総会に諮った。広島までの区間ではあったが、ようやく同意を取り付けた。株価が低迷している中での増資は難しかった。工事資金は 200 万円の社債発行をもってまかなった。

1894(明治 27)年6月に広島までの敷設工事が完成。突如起こった日清戦争のための軍事輸送に奇しくも間にあった。広島は第五師団の所在地である。ここの軍隊と軍需品の輸送に貢献することで、松本の持論である鉄道の存在意義をアピールすることもできた。さらに、1901(明治34)年 5月、下関までの延長線路敷設を完成、山陽鉄道の全線開通。

⑦命取りになった阪鶴鉄道。 松本重太郎は、阪堺、山陽以外に多数の鉄道の開設及び事業に関係。阪鶴鉄道の開設と経営は百三十銀行を揺るがした。阪鶴鉄道は、松本が大阪から神崎を経由して舞鶴にいたる路線を計画し、住友吉左衛門、藤田伝三郎、田中市兵衛、広瀬宰平、金澤仁兵衛らを説いて発足にこぎつけた。この計画によって、同地域に競合する京都鉄道(京都-舞鶴間)、摂丹鉄道(大阪-舞鶴間)の 2 路線計画との対立。難工事が予想され、開通には相当な資金投入が必要と予想されていたから、このような対立が資金調達の範囲を限定的なものにする危険も伴っていた。京都鉄道は、1895(明治28)年に免許を取得、1899(明治32)年京都-薗部間開通。しかし、過大な施設の建設や山間路線の難工事で投資額が増大し、資金的に行き詰り、結局薗部以西の免許を返上して、工事終了。もう一つの競合路線、摂丹鉄道開設は不許可。阪鶴は 1897(明治 30)年開業。同年 12 月には池田-宝塚間が開通。さらに、順次延長し、1899(明治 32)年 7 月までに神崎-福知山間全面開通。福知山から先は官鉄の福知山-舞鶴間を借り受けることにより、1901(明治34)年には阪神-舞鶴間の直通運転。開業当初の経営難により、阪鶴鉄道の株価は半額近くまで下落、「半額」鉄道と揶揄されるほどであった。資金繰りはきわめて厳しく、国有化される 1907(明治 40)年までに5回におよぶ社債の発行をもって、工事及び営業資金の調達を図らざるを得なかった。起債には、松本重太郎が開発した「新方式」が採られた。すなわち、阪鶴鉄道の発起関係者である松本重太郎、金澤仁兵衛、住友吉左衛門、藤田伝三郎らの関係する第百三十国立銀行、大阪共立銀行、住友銀行、北浜銀行(当時いわゆる「阪鶴派」)の4行のみによる社債の全額引受という方式で、社債発行の全リスクはこの 4行が負担する構造であった。経営難と資金難は阪鶴鉄道の評価を落としていた。1906(明治39)年鉄道国有法が成立し、国有化。清算において百三十銀行も債務弁済のための負担を余儀なくされた。最後に残った 323 万 7 千円の高利借入金は政府に引き継がれることになった。

⑧日本紡織。 1882(明治15)年大阪紡績設立。大阪織布を吸収合併、大紡績会社。1887(明治20)年堂島紡績所継承。1895(明治28)年日本紡織会社設立、堂島吸収。合併直後、堂島工場全焼、日本紡織は休業、相当な痛手。百三十銀行は銀行規律を無視した多額の当座貸越、。結局、日本紡織は解散し、1905 年内外綿に売却された。百三十銀行は、同社に対する債権残高 120 万円余を同年上半期に損失として処理した。1904(明治 37)年、百三十銀行破綻。日本紡織への貸し込みと不良債権化、阪鶴鉄道をはじめとする、その他の企業の不良債権化。百三十銀行は安田善次郎の手で整理。上記の不良債権以外にも、各支店においては松本同様の放漫な融資活動がおこなわれ、それらの支店においても本店同様かなりの損失を出していたことが判明した。

⑨大蔵省の検査報告。 百三十銀行破綻の真の原因は、①頭取松本が自分の金融機関として同行を利用したこと、②行員もまた忠実ではなかったこと、③一時の弥縫策によって失敗を拡大してしまったこと、④取引を急ぐあまり、その精査を欠き放漫取引を生んでしまった点にあると。

⑩松本重太郎の関与した会社一覧。 1.第百三十国立銀行。2.大阪興業銀行。3.明治銀行。4.大阪共立銀行。5.日本貯金銀行。6.日本教育保険。7.日本火災保険。8.日本海陸保険。9.明治生命保険。10.大阪紡績。11.日本紡織。12.毛斯綸紡織。13.京都製糸。14.内外綿。15.大阪毛糸。16.山陽鉄道。17.豊州鉄道。18.南海鉄道。19.阪堺鉄道。20.阪鶴鉄道。21.太湖汽船。22.内国海運。23.日本精糖。24.大阪麦酒。25.堺酒造。26.大阪盛業。27.大阪アルカリ。28.汽車製造。29.明治炭坑。

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