消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

民営化される戦争とグローバル企業(11) 広島講演より(9月24日)

2006-11-05 22:35:59 | 世界と日本の今

7、勝者と敗者へ分極化する社会

若い世代が戦争に参加

  民営化された戦争という『戦争請負企業』を書いたのP.W.シンガーが若い世代の戦争参加についてNHK出版から新しい本(『子ども兵の戦争』)を出しています。

 そこでは、現在の戦争は若い世代によって行なわれていると書かれています。どちらかと言うと子供は次代を担う世代として大事に温存されてきました。ところが21世紀に入って子供が正規軍として大量に使用されるようになっていると。シンガーによれば18歳未満の戦士が30万人は下らないだろうと言う。テロリストの40%を若者が占めています。50万人の子供が予備兵として待機させられています。戦闘の80%は、15歳以下の子供を参加させています。戦闘の18%では12歳以下の子供達が戦わされています。

  東南アジアと中央アジアの戦場では、戦争に参加している子供達の平均年齢は13歳です。ウガンダでは5歳の兵士すら見られた。子供兵士の30%は、少女です。

 少女兵士達の多くが性的虐待を受け、戦争が終結しても社会に復帰することに困難を覚えています。ゲリラの指導者達が、いたいけない幼い子供達を訓練しています。10歳以下の子供達が武器密輸業務に携わっています。自爆テロの多くは、監視システムを潜り抜けやすい子供達によって遂行されています。1997年にコロンビアでは自爆テロが若干9歳の少年によって行われた事例があります。 9・11テロ以降、米軍はアフガニスタンからフィリピンに至る戦地で少年兵の攻撃にさらされています。

 アフガニスタンで最初に米軍の「グリーン・ベレー」の兵士を殺害した反乱軍の兵士は14歳であった。米軍が拘束したタリバン兵士で最も年少であったのは、12歳の少年であった。2004年末に史上最大の震災と津波被害を受けたインドネシアのアチェでは、子供達が誘拐されてゲリラ組織に戦士になるべく売られています。泣きたくなるような状況が今起こっているのです。

  そして、米軍が設置しているキューバのガンタナモ湾捕虜収容所では、13歳から16歳までの子供の兵士が「イグアナ・キャンプ」と呼ばれている少年収容特別棟で英語や数学の教育を受けています。つまり、捕虜収容所に子供達がいるのです。16歳以上18歳未満の捕虜は同収容所の「X線キャンプ」棟に入れられています。 サダム・フセインが権力を保持していた時には、イラクでは「アシュバル・サダム」(サダムの獅子の子)と呼ばれる10歳から15歳までの少年軍が組織され、ゲリラ訓練が施されていました。米軍がイラク侵攻した後は、ナザリア、モスル、ファルージャで、これら少年兵士達と戦わねばばらなかったのです。

 
ブッシュ大統領が、「使命の完成」演説をした2003年5月にも、12歳の少年が米海兵隊員をAK47ライフルで射殺したし、15歳の少年が米軍トラックを爆破した。要するにシーア派、スンニ派を問わず、イラクでは少年兵士の参画を当然のこととして位置付けられているのです。

貧困層の少年が上流層を支える

 多感な少年期に殺戮に明け暮れた子供達が、戦闘が終わって優しい共同体の復権に向かえるでしょうか。戦闘に参加するしか生きる術がないというグローバル社会の「内」と「外」の関連をどれだけの人達が直視しているのであろうかと私は思うのです。

  つまり、老若男女が連携して、お互いに心のぬくもりを感じ合いながら、互いに励まし合いながら生き抜いていくという社会。この社会がいつの間にか私達の周りから急速に消えようとしているのではないだろうかと思います。象徴的な例はアメリカでは上院・下院の議員さん達の子弟でイラクに行っている人はいない。彼らの上流階級を支えているのが貧しい層のアフリカン・アメリカンでありメキシカンでありそういう貧しい層の血の上にアメリカのエリート達の存在が保障されています。  そういうことを考えた時に現代社会すべてに言えるのは、国家のためとか正義のためとかの戦争はどこかに吹っ飛んでしまっています。結局ある特定の企業集団の利益を保障するために、そういう貧しい少年達が動員されていくとんでもない社会に我々は突入しつつあるということです。

「ゲーティッド・コミュニティー」が増える

 それと繰り返し言いますようにアメリカでは出自や文化的な背景を別とする人達がアメリカ社会に同化しなければならない現実があります。一つのイニシエーション(儀式)といったものが戦争にあり、その人達を鍛え上げ再就職の面倒を見ていく組織がいろんな所にできていくのだろうと思います。少し視点を変えてみますが、アメリカ社会には「ゲーティッド・コミュニティー」と言う言葉があります。つまり、地域社会から塀で遮断され厳しい警備により安全性が保障された巨大な住宅構造物のことです。

 例えばニューオリンズの話が一番分かりやすいのではなかろうかと思います。ニューオリンズで大津波がやってきて一帯に被害があった。ハイ・ソサイアティーつまり上層グループは塀で囲まれた「ゲーティッド・コミュニティー」の中に住んでいる。その塀には常時ガードマンが警備していて、貧乏人達や荒くれ者達が中に進入することを防いでいるのです。

 ブラックウォーターという警備会社があるのですが、ニューオリンズの被害があった時に、ブラックウォーターの社員達がいち早くニューオリンズのゲーティッド・コミュニティに派遣されていた。これがブラックウォーターのホームページに誇らしげに載っているのです。 つまり塀で囲まれた中の人達は武力でもって安全が保障されている。その外の人達が住んでいるのは大げさに言えば殺戮と暴力と麻薬が渦巻く世界。そういった世界から遮断され塀に囲まれた高級な世界、これがアメリカの中にもあるのだということです。

 世界中にそういう世界があると思ったほうがいいのではないでしょうか。多国籍企業が営業する所は「ゲーティッド・コミュニティー」。多国籍企業から外れているところは空白で、あらゆる略奪が、人間の憎悪が渦巻いている社会なんだと。

 
極端ですが、分かりやすく言えばそういう社会が世界中にあり、日本のような平和な社会は世界では珍しいのだと考えなければいけないと思います。ますます社会が分断されて一部のお金持ち達が身の安全を守るために警備会社の暴力を利用するようになっていく。そういう世界が今進行していると私は思います。

都市コミュニティーが崩壊

 わが日本においても大都市ではコミュニティーの崩壊が進んでいます。そういう意味では広島というのはバランスの取れたいい町だなあとここへ来る道々思ったのですけれども。例えば私の住んでいる福井という所は、国道8号線という大動脈があって市内の真ん中に巨大ショッピングセンターがある。そこには映画館もあれば普通のショッピンッグセンターもある。もちろん食堂も、病院も、郵便局もある一大不夜城なのです。みんな車でそこへ行きます。しかし、玄関である福井駅の駅前はがらんとしている。商店街もなくなっている。シャッターが閉まっている。わが日本の多くの地方都市はほとんどそうなんだろうと思います。

 つまり一部高速道路のインターチェンジのところに巨大施設があって、それ以外のところはすべて空白である。人々は車で移動する。公共交通機関や徒歩では全く用を足せない。そういうような人の流れ方の実情を私達は理解しておく必要があると思います。

 要するに、そういうふうにして都市コミュニティーがなくなってきている。わが日本でもアメリカでも起こっている。そして、田舎にウォルマートの様な巨大な施設がポンと出てくる。そこに人々が集中し移動は車でする。そういう社会が世界全体に広がっていって、世界がどこもみんな同じ風景になってしまう。そういう構造ができていると考えたらいいと思います。

  アメリカでは刑務所まで民営化されています。あるいはSWAT(スワット)という特殊火器の携帯も許可されている警察業務も民営化されています。そして、こうした暴力を民営化された民間会社が現代の傭兵として戦争に駆り出されている。つまり現代のグローバリズムというのは「飛び地」である。すべての地域が繋がっているのではなくて「飛び地」、「飛び地」、「飛び地」として繋がっている。「飛び地」と「飛び地」の間には暗黒の闇が広がっているのだと現在のグローバルな社会構造を理解したらいいと思います。

勝者と敗者へ分極化

  これまで資本主義的近代化とは、資本家の数が少なくなり、失うものは鉄鎖のみのプロレタリアートが反体制勢力として大きくなることであると想定されて来ました。しかし、現在進展しているグローバリズムとは、ますます少数化するシステムの勝利者、ウィナーズです。ア・ウィナー・ゲッツ・オール、たった一人の勝利者がすべてをつかみ、後は皆敗者になっていくということではなかろうか。勝利者の内側と敗者の外側といった構造の中に現代社会はビルトインされてしまっていると理解していいと思います。

  グローバリズムとは、少数化するシステムの勝利者と圧倒的多数になる敗者とが分極化され、敗者が「内」から「外」に放り出されるシステムです。そして、「外」の貧しい若者が、「内」に入れてもらうべく戦争に参加するという「イニシエーション」が働きます。現代社会の危機は、「外」にいる絶望者が、「内」にテロを仕掛けることから生じるのです。

 我々が「文明化」(civilization)と言う時に、この「civilization」とは市民になることです。忌まわしい農奴、ヒューダリズム(封建主義)からポリス(都市国家)の中に入って都市の中の自由・平等・博愛というものを保障されていくことが市民になることです。

 「civilization」、市民になることを日本語では「文明化」としています。みんながその方向に向かっていくものだと理解していたのです。しかし都市のもつ自由・平等・博愛といった価値形成の過程がズタズタに引き裂かれていこうとしているのではないのか。だから反抗は外からなのです。それが外から来る時にいずれ中も変わっていく。そういった長いタイムスパンを私達は理解しなければいけないのではないかと思います。


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