消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

サルトルの米国人論(b)

2006-09-21 01:14:35 | 時事
 「(アメリカ人は)個性をとりのぞき、普遍的非個性にまで自分を高めた人間なのである」。
 「(フランス人である)われわれにとっては、個人主義は、『社会にたいする、また特に国家にたいする個人の闘争』という昔ながらの古典的形態を保っている」。

 しかし、米国人は国家そのものを尊敬し切っている。

 「(アメリカでは)まず国家は永いことひとつの管理にすぎなかった。数年前から、国家は別の役割を演じようとしているが、それでもアメリカ人の国家感情は変わらない。それは彼等の国家であり、彼等の国民の表現である。彼等は国家にたいして深い尊敬と、所有者の愛情を抱いている」。

 ここで、「国家は別の役割」云々というのは、世界大戦に伴う軍事国家的統制国家のことを指していると思われるが、それにしてもすごい文章ではないだろうか。

 サルトルは続ける。ニューヨークの道路はきちんと碁盤の目にそろえられている。つまり、画一的である。ところがビルは、とてつもなく高く、てんでバラバラであり、ヨーロパの都市規格のいずれからも外れている。つまり、個人主義的である

 「アメリカの個人主義は画一主義とは対立しないで、反対にそれを前提とする」。

 米国人は成功しなければならない。

 「金銭はアメリカでは、成功をしめす必要な、しかし象徴的な記号にすぎないように思える。人は成功しなければならない。成功は道徳的美点と知性の証拠であり、また真正な保護をうけていることをしめすものだからである」。

 激しい生存競争という個人主義が、金を儲けることを成功とする画一主義の上で展開する。

 「人は成功しなければならない。成功してのち、群衆の前にひとかどの人間としてあらわれることができるからである」。

 金のない無名の人間を米国人は尊敬しない。
 米国では、必要なことは協会がやってくれる。1930年代、ワシントンには150余りの協会があった。

そのうちの一つ、「外交問題評議会」にいち早くサルトルは注目している。それは、他国の情勢に疎いまま、1917年に戦争に巻き込まれたことを反省したことから設立されたものであるとサルトルは解説した後、次のように言う。

 「(この評議会は)今日では2600人の加入者がおり、各州に300の支部をもっている。500以上の新聞がここの資料を受け取っている。政治家はここの出版物を参考にしている」。

 ところが、この評議会は大衆に対しては情報を出さず、社会的影響力の大きい層に情報を与えている。

 「この連盟(評議会)はしかも大衆に情報をだすことを考えていない。それよりも情報家(学者、教授、僧侶、ジャーナリスト)たちに情報を与える。毎週連盟(評議会)は国際問題の研究、ワシントンの事件の注釈をふくむ週報をだしている。2週間に1回、各新聞社に資料を送るが、新聞ではそれを再録したり、1部分を使用している」。  

 サルトルはフランスではそんなことは考えられないと驚く。右翼の新聞、『アクシオン・フランセーズ』に、左翼の新聞、『ユマニテ』にこの種の協会が定期的に資料を送ることなど考えられない。しかし、米国ではそれが行われ、ジャーナリズムがその資料を素直に採用しているのである。

 サルトルがもっとも衝撃を受けたのは、この評議会に集まる老婦人の言葉である。
 「こういうことで、私たちは個人を保護することになるのです。連盟に属していない人は孤立しています。連盟に入っていると、ちゃんとした個人になります」。

 サルトルは結論する。
 「市民たる者はまず自分を枠にはめ、自分をまもらなくてはならない。同種の他の市民たちと社会的契約を結ばなければならないということである。彼に個人的機能と個人としての価値をあたえてくれるのは、この縮小した集団である。協会の内部にあって、彼は指導権を持つこともできるし、個人的な政治を行い、可能ならば、集団の方向に影響をあてることもできるだろう」。

 至言である。私が、「メガチャーチ論」という長い論文を書き、米国の現代宗教のもつ意味に接近するのは、ひとえに、サルトルのこの感受性に惚れ込んだからである。

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