(12) ドイツからの移民、ヘンリー・リーマン(Henry Lehman)が、一八四四年、アラバマ州(Alabama)モンゴメリー(Montgomery)市に小さな雑貨店(general store)を開く。六年後の一八五〇年、二人の兄弟、エマヌエル(Emanuel)、マイヤー(Mayer) が経営に加わり、商店の名前もリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)に変えた。
当時、米国の南部では、棉花が通貨として流通していた。レーマン商店も、農夫に商品を棉花対価に売っていた。そして、次第に棉花取引に彼らは傾斜していった。一八五八年、当時、商品取引の中心地であったニューヨークに事務所を構えた。南北戦争によって、彼らのビジネスが中断したが、終戦後、彼らは本拠をニューヨークに移した。そこで、「棉花取引所」(the Cotton Exchange)設立に寄与した。
南北戦争後は、一大鉄道建設ブームが到来した。後にリーマンのビジネス・パートナーになるクーン・レーブ(Kuhn Loeb)が鉄道債の引き受けをおこなっていた。
リーマンも鉄道債の取引に乗り出した。一九世紀後半には、マーチャント・バンクに衣替えしていた。一八八七年、ニューヨーク証券取引所に上場。クーン・レーブのジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)に促されて、リーマンもヨーロッパと日本での投資銀行業務に乗り出した。二〇世紀に入るや、シアーズ・ローバック(Sears, Roebuck & Company)、ウールワース(F.W. Woolworth Company)、メイ・デパート(May Department Stores Company)、ジンベル(Gimbel Brothers, Inc.)、マシィ(R.H. Macy & Company)などの新興企業の社債を積極的に引き受けるようになる。一九二〇年代には映画、小売り、航空、等々の分野を積極的に支援。RKO、パラマウント(Paramount)、二〇世紀フォックス(20th Century Fox)、等々の映画会社を育てた。
一九二九年投資会社、リーマン・コーポレーション(Lehman Corporation)を設立して、優良銘柄株(ブルー・チップ)を個人投資家に積極的に勧める業務に傾斜し、恐慌を乗り切った。一九三〇年代はラジオに傾斜。米国初のテレビ受像器制作会社のデュモン(DuMon)の株式公開、RCA(the Radio Corporation of America)を支援した。三〇年代は資源採掘会社を支援、顧客にはハリバートン(Halliburton)、ケール・マッギー(Kerr-McGee)がいた。第二次大戦後は、一大消費ブームと自動車ブームに乗る。一九五〇年代にはエレクトロニクス産業を育てる。コンピュータのデジタル・エクィップメント(Digital Equipment)を育て、コンパック(Compaq)に買収させる。さらに、フォード(Ford Motor Company)、TWA、アメリカン航空(American Airlines)、コンチネンタル航空(Continental Airlines)の株式を上場させる。ジェネラル・フーズ(General Foods)、フィリップ・モリス(Philip Morris)も有力な顧客であった。
顧客の海外進出に応じるべく、一九六〇年、パリに支店開設。一九六九年、ロバート(Robert)・リーマン死去後、経営にリーマン一族が関わらなくなった。一九七二年、ロンドン支店、七三年東京支店開設。
一九七七年CEO、のピート・ピーターソン(Pete Peterson)の下でクーン・レーブと合併し、リーマン・ブラザーズ・クーン・レーブ(Lehman Brothers Kuhn Loeb Inc.)となる。しかし、この会社は投資バンカー(Investment Banker)とトレーダー(Trader)との角逐が深刻になり、ピーターソンは、トレーダーのキャップのルイス・グラックマン(Lewis Gluckman)を一九八三年五月に共同CEOとして遇するが、結局はピーターソンが追い出され、グラックマンが実権を握る。このグラックマンがCEOの時の一九八四年に、三・六億ドルでアメリカン・エクスプレス(Ameican Express)に買収されてしまう。名称も、シェアソン・リーマン・アメリカン・エクスプレス」(Sheason Lehman American Express)になる。名門中の名門であるクーン・レーブ商会の名がここに消えた。そして一九八八年、この会社とE・F・ハットン(Hutton)が合併して シェアソン・リーマン・ハットン(Sheason Lehman Hutton Inc.)になる。そして、一九九三年、アメックスが手放し、再度、リーマン単独の名前に復帰する。
一九九四年、テルアビブ(Tel Aviv)支店開設。一九九五年、年間最優秀社債取り扱い機関として称揚される("Global Bond House of the Year" by International Finance Review)。
一九九九年、三菱東京銀行(Bank of Tokyo-Mitsubishi)と提携。この年、年間収益が一〇億ドルを超す。二〇〇〇年創業一五〇周年。二〇〇二年、KKRのために、ヨーロッパ史上で最大のM&Aを実現させる。二〇〇二年、リンカーン・キャピタル(Lincoln Capital Management)買収。二〇〇三年ノピベルガー・ベルマン(Neuberger Berman)、クロスロード・グループ(the Crossroads Group)買収。シンギュラー・ワイアレス(Cingular Wireless)によるAT&Tワイアレス(AT&T Wireless Services)買収、スプリント(Sprint)によるネクステル・コミュニケーション(Nextel Communications)買収に関与。二〇〇五年、同社史上最高の収益を達成。それとともに、スタンダード&プアーズ社(Standard & Poor's)が長期シニア社債をAからAプラスに引き上げた。資産も史上最高の一七五〇億ドルになった。
『ユーロマネー』(Euromoney)が、二〇〇五年の「最高の投資銀行」(Best Investment Bank)の 栄誉を同社に与えた(2005 Awards for Excellence)。二〇〇六年も最高益であった。株式取扱高でロンドンで第一位になった。二〇〇七年、『フォーチュン』誌によって、「賞賛される最高の証券会社」として誉められた(#1 "Most Admired Securities Firm" by Fortune)(本社ホームページ、および、http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/a7a67f1ee50a825c9d4eb2f4c3168047)。
数々の褒賞、空前の高収益、最優秀の投資銀行が、線香花火のごとく消え去った。公表される統計のいい加減さ、第三者評価の頼りなさをリーマン・ブラザーズの倒産劇は遺憾なく現している。
当時、米国の南部では、棉花が通貨として流通していた。レーマン商店も、農夫に商品を棉花対価に売っていた。そして、次第に棉花取引に彼らは傾斜していった。一八五八年、当時、商品取引の中心地であったニューヨークに事務所を構えた。南北戦争によって、彼らのビジネスが中断したが、終戦後、彼らは本拠をニューヨークに移した。そこで、「棉花取引所」(the Cotton Exchange)設立に寄与した。
南北戦争後は、一大鉄道建設ブームが到来した。後にリーマンのビジネス・パートナーになるクーン・レーブ(Kuhn Loeb)が鉄道債の引き受けをおこなっていた。
リーマンも鉄道債の取引に乗り出した。一九世紀後半には、マーチャント・バンクに衣替えしていた。一八八七年、ニューヨーク証券取引所に上場。クーン・レーブのジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)に促されて、リーマンもヨーロッパと日本での投資銀行業務に乗り出した。二〇世紀に入るや、シアーズ・ローバック(Sears, Roebuck & Company)、ウールワース(F.W. Woolworth Company)、メイ・デパート(May Department Stores Company)、ジンベル(Gimbel Brothers, Inc.)、マシィ(R.H. Macy & Company)などの新興企業の社債を積極的に引き受けるようになる。一九二〇年代には映画、小売り、航空、等々の分野を積極的に支援。RKO、パラマウント(Paramount)、二〇世紀フォックス(20th Century Fox)、等々の映画会社を育てた。
一九二九年投資会社、リーマン・コーポレーション(Lehman Corporation)を設立して、優良銘柄株(ブルー・チップ)を個人投資家に積極的に勧める業務に傾斜し、恐慌を乗り切った。一九三〇年代はラジオに傾斜。米国初のテレビ受像器制作会社のデュモン(DuMon)の株式公開、RCA(the Radio Corporation of America)を支援した。三〇年代は資源採掘会社を支援、顧客にはハリバートン(Halliburton)、ケール・マッギー(Kerr-McGee)がいた。第二次大戦後は、一大消費ブームと自動車ブームに乗る。一九五〇年代にはエレクトロニクス産業を育てる。コンピュータのデジタル・エクィップメント(Digital Equipment)を育て、コンパック(Compaq)に買収させる。さらに、フォード(Ford Motor Company)、TWA、アメリカン航空(American Airlines)、コンチネンタル航空(Continental Airlines)の株式を上場させる。ジェネラル・フーズ(General Foods)、フィリップ・モリス(Philip Morris)も有力な顧客であった。
顧客の海外進出に応じるべく、一九六〇年、パリに支店開設。一九六九年、ロバート(Robert)・リーマン死去後、経営にリーマン一族が関わらなくなった。一九七二年、ロンドン支店、七三年東京支店開設。
一九七七年CEO、のピート・ピーターソン(Pete Peterson)の下でクーン・レーブと合併し、リーマン・ブラザーズ・クーン・レーブ(Lehman Brothers Kuhn Loeb Inc.)となる。しかし、この会社は投資バンカー(Investment Banker)とトレーダー(Trader)との角逐が深刻になり、ピーターソンは、トレーダーのキャップのルイス・グラックマン(Lewis Gluckman)を一九八三年五月に共同CEOとして遇するが、結局はピーターソンが追い出され、グラックマンが実権を握る。このグラックマンがCEOの時の一九八四年に、三・六億ドルでアメリカン・エクスプレス(Ameican Express)に買収されてしまう。名称も、シェアソン・リーマン・アメリカン・エクスプレス」(Sheason Lehman American Express)になる。名門中の名門であるクーン・レーブ商会の名がここに消えた。そして一九八八年、この会社とE・F・ハットン(Hutton)が合併して シェアソン・リーマン・ハットン(Sheason Lehman Hutton Inc.)になる。そして、一九九三年、アメックスが手放し、再度、リーマン単独の名前に復帰する。
一九九四年、テルアビブ(Tel Aviv)支店開設。一九九五年、年間最優秀社債取り扱い機関として称揚される("Global Bond House of the Year" by International Finance Review)。
一九九九年、三菱東京銀行(Bank of Tokyo-Mitsubishi)と提携。この年、年間収益が一〇億ドルを超す。二〇〇〇年創業一五〇周年。二〇〇二年、KKRのために、ヨーロッパ史上で最大のM&Aを実現させる。二〇〇二年、リンカーン・キャピタル(Lincoln Capital Management)買収。二〇〇三年ノピベルガー・ベルマン(Neuberger Berman)、クロスロード・グループ(the Crossroads Group)買収。シンギュラー・ワイアレス(Cingular Wireless)によるAT&Tワイアレス(AT&T Wireless Services)買収、スプリント(Sprint)によるネクステル・コミュニケーション(Nextel Communications)買収に関与。二〇〇五年、同社史上最高の収益を達成。それとともに、スタンダード&プアーズ社(Standard & Poor's)が長期シニア社債をAからAプラスに引き上げた。資産も史上最高の一七五〇億ドルになった。
『ユーロマネー』(Euromoney)が、二〇〇五年の「最高の投資銀行」(Best Investment Bank)の 栄誉を同社に与えた(2005 Awards for Excellence)。二〇〇六年も最高益であった。株式取扱高でロンドンで第一位になった。二〇〇七年、『フォーチュン』誌によって、「賞賛される最高の証券会社」として誉められた(#1 "Most Admired Securities Firm" by Fortune)(本社ホームページ、および、http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/a7a67f1ee50a825c9d4eb2f4c3168047)。
数々の褒賞、空前の高収益、最優秀の投資銀行が、線香花火のごとく消え去った。公表される統計のいい加減さ、第三者評価の頼りなさをリーマン・ブラザーズの倒産劇は遺憾なく現している。