消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(333) 韓国併合100年(11) 心なき人々(11)

2010-10-18 19:04:22 | 野崎日記(新しい世界秩序)
  伊藤は、列強と韓国人による日本への反発に対してかなり神経質になっていた。一九〇八年一二月二六日、東洋拓殖会社が漢城に設立された。すでに、韓国人農民から土地を略取する日本人の冷血ぶりは英国のジャーナリスト、プトナム・ウィール(Putnam Weale)によって報じられていたし(North China Herald, 15 December, 1905)、一九〇九年一月七日付の『大韓每日新報』(Taehan Maeil Sinbo)などは、四〇万人を超す日本人農民を韓国に移入するのではないかといった警戒心を示していた(両新聞ともに、Lone]1991], p. 150より引用)。

 外交感覚に優れていた伊藤は、東洋拓殖会社の設立に批判的な意見を持っていたし、大量の日本人移民には反対していた。列強と韓国人の反発を買ってしまえば、将来に必ず禍根を残すと警告していたのである(小松[一九二七]、第二巻、四四四ページ。及び、新渡戸[一九三一]、三〇七~一〇ページ)。

 伊藤を怯えさせていた大きな要因は、韓国人の反日ゲリラ闘争であった。一九〇七年八月一日、韓国国軍は解散させられた。これが、義兵闘争を刺激した。義兵に対する日本の軍隊の行為は目を背けるほどの残虐さであったと当時の英国の通信員、F・A・マッケンジー(McKenzie)が、一九〇七年九月二一日付で『デイリー・メール』(Daily Mail) に打電したが、この電文は、日英同盟によって、公表されなかった(F.O. [1907], 371/383, No. 34377には収録されている。Lone[1991], p. 151)。これは、先述の駐韓英国領事・コックバーンの指示であったと思われる。コックバーンは、マッケンジーの電文が大袈裟で事実を正確に伝えていないと批判し、日本軍は誰も拘束しなかったと日本のために本国に弁明したのである(F.O.[1907], 371/383. Lone[1991], p. 152)。しかし、在東京の通信員、マクドナルド(MacDonald)は、日本政府の公式資料として、一九〇七年七月~一九〇八年一〇月の日本人死傷者が四五二人、韓国人死者一万四三五四人という数値を本国に打電している(F. O.[1908], 410-53. Lone[1991], p. 152)。

 オーストラリア防衛力アカデミー・歴史部門(Dept. of History Defence Force Academy)のスチュアート・ローン(Stewart Lone)は、朝鮮半島を侵略してきた歴史を持ちながら、その歴史が生み出した韓国人の対日憎悪を解消する努力を日本人はまったく払わず、ただ、韓国の近代化に向かって韓国人を教育するという一人よがりの弊に陥っていたと当時の日本の為政者たちを厳しく批判している。以下、要約する。

 韓国の歴史には日本の侵略が散りばめられている。中世には倭寇と呼ばれる海賊が跋扈していた。一六世紀には秀吉の侵略があった。近年では一八七六年の江華条約(Kanghwa Treaty)につながる砲艦外交があった。韓国人は重視する。仏教も漢字も日本人は韓国から学んだことを。韓国人は日本人の芸術を軽蔑している。その多くが日本に連行された韓国人芸術家が伝えたものだからである。韓国人の心の奥底には日本人へのこのような憎悪がある。しかるに、日本人は、韓国人を教育するという「幼稚な道具」(primitive tools)で、韓国人を慰撫しようとしている。十分な時間をかけて慎重に韓国人の憎悪を解明しなければならないのに、日本人の視点は「あまりにも定まっていない」(too uncertain)(Lone[1991], pp. 152-53)。

 一九〇八年当時の伊藤の姿勢は、韓国人を激高させないことを旨とする融和的なものであった。表面的なものであったとしても親日姿勢を示す李完用を重用しながらも、李よりも対日強硬路線の宋秉を内閣に入れるという二面作戦を伊藤が採ったのも、一進会の先鋭化を防ぎ、激化する韓国の反日闘争を鎮静化させようとしていたからである。当然、伊藤は、日本の対韓強硬派から激しく攻撃されていた。ところが、伊藤が頼みとする李と宋との間は険悪であった。伊藤は、両者ともに内閣から出て行かないように腐心していたのである(Lone[1991], p. 153. 一九〇八年一二月六日付、桂太郎宛伊藤博文書簡、桂[一九五一]、一八―三八)。

 韓国の対日融和派も民衆の怒りを買っていた。一進会はその代表であった。とくに、一進会の指導者である宋への民衆の反感は強かった。当時の軍事参事官であった長谷川好道(よしみち)は、一九〇八年一月二七日付、陸軍大臣・寺内正毅宛書簡で、そのことを危惧していた(Lone, ibid. 寺内[一九六四]、三八―三〇)。

  一九〇八年、追い詰められた伊藤は、武力行使に踏み切ってしまった。一進会との絶縁を決意したのである(黒龍会[一九六六]、第一巻、三六九~七八ページ)。義兵鎮圧のために、伊藤は、本国に歩兵二個師団の増派を要請した。そして、義兵鎮圧後も軍隊を韓国から撤退させなかったのである(桂宛一九〇八年一二月六日伊藤書簡、桂[一九五一]、一八―三八)。

 これまでの融和派から武断強硬路線に転換したことから、韓国の穏健派は、伊藤に裏切られたという感情を持つようになった。かつては伊藤の宣伝紙であったはずの『京城日報』(6)ですら、激しく伊藤を攻撃するようになって、一九〇八年に何度も発禁処分を統監府から受けている(Lone[1991], p. 154)。

 他方、融和姿勢を示していた時の伊藤への対韓強硬派の日本人は、統監府非公式顧問の内田良平、韓国金融副大臣の木内重四郎、右翼の杉山茂丸(しげまる)の面々であった(7)。

 併合は、山県有朋ら陸軍系人脈が推し進めたものであるというのが菅浩二の見方である。

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