消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(218) 新しい金融秩序への期待(163) 日本のゆくえ(2)

2009-09-12 06:52:00 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 日本人の心とアメリカナイズ

先ほどの西島先生の「日本人の心」というお話ですが、わが意を得たりの思いでした。日本人がいいなと思うのは、破風です。例えば神社仏閣の屋根一つを見ても、むくり・起りで、何か反ったり曲がったり、凹凸を上手に駆使し、それもコンパスで描けないような非常にいびつな凹凸で一つの美を表しました。

 そして、破風だけではしまりがなさすぎるので、その奥にはシンメトリチックな、少なくとも大陸風の対称的な建物を造っていくという、その組み合わせで日本建築はできています。

 日本人は、乱を基本としています。バラバラになっている世界を当たり前の状態だというように見ていく癖が、私たちにはあったはずです。さらに、精神的なものから申しますと、功なり名を遂げて一世を風靡した人たちよりも、むしろその人たちによって潰されていった弱者に対する眼まな差ざしというものが、私たちにはあったのです。判官贔屓というのは正にそうなのであって、歌舞伎を見ても何を見ても、結局は弱者に向ける温かい眼まな差ざしがありました。


 この美点が、戦後の日本を救いました。私たちの生き方、考え方というものが経済政策に反映されました。これが戦後の日本の成長を支えました。それがいつの間にか、日本は遅れている、日本はだめだと言われるようになってしまいました。アメリカは素晴らしい、アメリカンドリームはすごいというように、全てがアメリカ、アメリカ、アメリカとなりました。

 アメリカの特定の大学を出た者しか日本のアカデミズムでは評価されなくなるなど、悲しいことが起こっています。この二〇年、右向け右でアメリカの方向ばかりを向いていたその付けが、いま来ているのです。

 戦後直後の日本とは

 そこで、戦後直後の話をいたします。今日はこれが一番言いたかったのであります。敗戦のとき、日本には何もなかった。私も広島に疎開し、その疎開先に原爆が落ちるという、大変な状況だったのですが、その広島で幼少時代を過ごし、そして神戸に帰ってきた時の、あの焼け野原はいまでも忘れません。何もありませんでした。三〇時間、貨車で帰ってきて、三ノ宮駅で降りたら見渡すかぎり焼け野原。これには本当にびっくりいたしました。何年経っても、戦後のあの風景が脳裏にこびりついています。

 当時の日本は、最貧国だったのです。貧しさの程度を視覚的に申しますと、平均身長の落ち込みがあります。私は昭和一八年生まれで、この時には、元気な男はみんな戦場に行っており、とにかく敗戦濃厚であり、戦後直後は食べ物がないという状態でした。明治維新から日本人の平均身長はずっと上がってきたのに、私の年齢層だけが平均身長が下がっているのです。いかに栄養不足であったかということです。因みに同じ遺伝子を持つ一〇歳年下の私の弟は、私よりも一五センチも背が高いのです。こと程左様に、戦争というのはもの凄く大変だったのです。

 それが驚くなかれ、わずか一一年後の一九五六年(昭和三一年)の『経済白書』では「も
はや戦後ではない」という、あの有名な言葉が躍ったのであります。わずか一一年です。

「もはや戦後ではない」とは、工業国家として、昭和一一年の水準、つまり、五大工業国の一つであった生産力水準に復帰したことを指します。これは奇跡です。わずか一一年間でここまで来れたのです。

 私は、途上国問題が専門なのです。世界はこれまで、途上国に対して膨大なお金を費やしてきました。それでも途上国は、豊かになってくれません。しかし、日本は何もなかった最貧国の段階からわずか一一年で五大工業国に復帰したのです。

 私たちはそのことを思い起こすべきだと思います。あの時の何がよかったのだろうかと。

 大陸から沢山の人々が引き揚げてきて、失業者が溢れました。ですから、電電公社、国鉄、郵便局等々、あらゆるものを活用してきました。


 政府は、失対事業をやりました。とにかく失業者を救済することをやってきました。どんなに辛い時でも企業は従業員の首を安易には切りませんでした。激しい労働運動もありました。経営者たちは、労働組合と命がけの対決をしてきました。そして、労働組合と経営者との間に、意思の疎通と共感が芽生えます。そこを潜り抜けて、辛い目をしてきた人たちが社長さんになってくれていました。

  いまのように、経理しか知らない人たちが社長になる時代とは全く違いました。そして、どうしても不景気で人員削減をしなければいけない時には、真っ先に経営陣自らが退陣していました。あるいは退陣しないまでも、自分たちの報酬を低くしていきました。あの時の経営者といまの経営者の、この違いは何だと思います。自分たちは全く給料を下げずに、とにかく従業員の首を無慈悲にも切っています。こういうことが当たり前になっています。私たちはもう一度、戦後直後の日本を思い起こしていかなければいけないんだと、これを強く言いたいのです。

 マーケットは間違う

 なぜ戦後直後の日本が凄かったのか。今西錦司さんのいう「棲み分け」があったからです。



 先ほど私は、冒頭に「日本人の心」とはと言い、破風、乱と言いましたが、これが西田哲学なのです。絶対的矛盾の自己統一なのです。

 つまり、AとBとはそもそも相容れない。常に対立する。常に対立しているけれども、互いが互いを潰し合わない。しかも共存してしまっている。それを西田哲学は「アジアの心」という言葉で訴えたのであります。これが若者の心をとらえ、『善の研究』が大ベストセラーになったのであります。

 つまり、正しいものは勝つ、正しくないものは負けるんだという、そういう思想ではなく、とにかく負けるものへの温かい眼まな差ざしを持ちながら、相対立するものがどう共存するかという思想が、少なくとも東アジアには強かったと私は思います。これをもう一度思い起こそうではないか、ということであります。

 戦後の日本の経済学者たちは、「マーケットは間違う」、市場は決して正しくないという基本的な理解をもっていました。

 不思議なことに、戦後の日本ではマルクス主義者たちが政府審議会には多かったのです。大内兵衛とか有沢広巳とか、錚錚たる人たちがいました。彼らの共通点は、「マーケットは間違う」という認識でした。ですから、いまとは基本的に違うのです。いまは、「マーケットは正しい」という空虚なスローガンが支配しています。

 例えば、新日鐵という会社があります。新日鐵がなければ日本のトヨタはあり得ません。

いくらトヨタが偉そうにしても、あの世界最高の鉄を作る新日鐵の存在がなければ成り立ちません。

 しかし、鉄は可哀想に、もの凄く沢山の人間を雇い、巨大な装置産業ですから、はいサヨウナラと中国には行けないのです。北九州にドシンと居座るしかないのです。しかも、一所懸命作った製品の購入者は、あの怖いトヨタであります。原価計算も全部、お客さんの方が知っていて、弾き出してきます。あなた方はこの価格でいいと思っているのかという内容で、半年がかりの値段交渉をやるのです。

 結局は力関係で、天下の新日鐵といえどもトヨタに押し切られてしまいます。トヨタが悪者ではないのですよ。安く買いたいというのは当然の当たり前の行動ですから。しかし、私たちのような素人相手の商売ではなく、プロしか相手にしていない新日鐵においては、そこそこの粗利益が八パーセント程度に抑えられてしまいます。ですから、素材産業と言うのですが、川で言いましたら上流の産業は、儲からないのです。特別なカルテルを結ぶとか、力を結集するしかないのであって、普通の売り買いでは儲からない宿命にあります。

 儲からない産業の最たるものが農業です。いくら農民が頑張っても、スーパーで価格が決められてしまうのですから、どれだけ努力しても報われないのです。結局は、儲かりません。

 一方、私たち素人相手の商売は、儲かります。男性のネクタイにしても、あちらもののブランドは高いのです。一方、私の愛している西陣のネクタイは高くない。これは日本のブランドだからなのです。横文字になると、とくにフランス、イタリア風になってしまうと、とてつもなく高くなる。これが合理的個人の選択だと思いますか。素人相手の商売はフォー・セール、如何にすれば素人を騙すことができるかということが基本なのです。

 同じ商品として、モノを作っていくのでも、基礎的な産業とふわふわしたファッション的な産業とは基本的に違います。それを、「いい物を安くすれば消費者は分かる」と言うのは間違いです。

 私は本屋によく行きますが、本は奥にあると売れないのです。棚に乗ってしまったらもうダメです。平積みと申しまして、テーブルの上に置いてくれなければいけません。本は、平積みの所に置かれれば、必ず売れていきます。結局、狭い売り場で、そこでいい売り場をとろうと思いましたら、それはもう力関係になってしまいます。いい品物をいくら作っていてもダメなのです。

 これは、一般の人々が皮膚感覚で感じていることなのです。ところが、なぜ「経済学」だけは「需要と供給で価格は決まる」なんて、現実にはない前提から理論を始めるのでしょうか。マーケットは歪いびつである、間違っている、そもそも人間は不合理で、その不合理な人間の選択に、正しい選択なんかまずあり得ないのだ、と何故言わないのでしょうか。


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