消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(315) オバマ現象の解剖(60) レフトビハンド(2)

2010-04-19 21:02:10 | 野崎日記(新しい世界秩序)


  一 聖書に従う歴史認識


 米国では、「レフトビハインド現象」(Left Behind Phenomenon)と取り沙汰されている現象がある。メガ・チャーチの司祭、ティム・ラヘイ(Tim Lahaye)と有名スポーツ選手の伝記でベストセラーを連発したジェリー・ジェンキンズ(Jerry Jenkins)の共著になる『レフトビハインド』(Left Behind)が空前のベストセラーになり、以後、宗教関係の書物のヒットが相次ぎ、聖書に書かれている通りに歴史は進行するという観念を米国人に植え付けることに、これら宗教本が大きく寄与した。相次ぐ宗教関係のベストセラー(1)、ベストセラーの作り方(2)、キリスト再臨に向けてのキリスト教徒の義務(3)、結果的にそうした集合的力がブッシュ大統領と共和党を支える基盤となっているという現象が「レフトビハインド現象」といわれているものである(4)。

 ベストセラー『レフトビハインド』の第一巻と第二巻の粗筋を説明しておきたい。現在の米国民のかなりの部分を捕らえている観念が、ここには象徴的に示されているからである。話は荒唐無稽のものである。大した内容ではないのだから、一笑して放置しておけばよいものを、ここでわざわざ取り上げるのは、これが、ベストセラーになり、著者が米国大統領、子ブッシュの名代となってキリスト教による外交を展開するだけでなく、聖書が現実の歴史的事件を預言するという観念を米国民に植え付けたことを重視したいからである。

 小説は、経済破綻に苦しむロシアが、繁栄するイスラエルを攻めたが、神の怒りに触れて殲滅されてしまったという書き出しで始まる。以下の叙述は、本章の注(3)を参照しながら読んで頂きたい。

 イスラエルが繁栄するようになったのは、ハイム・ローゼンツバイクというユダヤ人植物学者が開発したミラクル肥料のお陰である。わざわざ灌漑しなくても、ミラクル肥料に水を加えるだけで、砂漠を肥沃な土壌に変えることができるようになったという設定である。この肥料のお陰で、イスラエルの大地には穀物が稔り、穀物輸出によって、イスラエルは、世界有数の富裕国になった。イスラエルは、周囲の石油輸出国よりも豊かになった。世界の国々がミラクル肥料の製法を知りたがったが、イスラエル政府はこの重要機密を外部に公開しなかった。開発者のローゼンツバイクは、外国勢による誘拐を防ぐために、イスラエル政府の厳重な警備体制下に置かれていた。

 ロシアがこの肥料を略取するために、イスラエルに夜襲をかけた。ロシアは核弾頭を装備したミグ戦闘爆撃機や大陸間弾道ミサイルを大量にイスラエルに送り込んだ。奇襲はロシア版パールハーバーと呼ばれた。誰もがイスラエルは瞬時に破壊され尽くすだろうと覚悟した。

 しかし、奇跡が起こった。戦闘機やミサイルのことごとくが空中で爆破されて、建物の上でなく、空き地に、墜落して炎上した。これは、イスラエル軍のミサイルで打ち落とされたものでなく、神の御業によるものであった。地上が燃え盛り出したとき、大きな霰が、降ってきた。それで地上の炎熱地獄が解消され、つぎに雷鳴とともに激しい雨が降ってきた。それによって、火災は完全に収まった。ロシアの戦闘機とミサイルは一機残らず壊滅した。ロシア人の死体とともに、エチオピア人、リビア人の死体も混ざっていた。これはロシアが中東諸国と同盟を結んでいたことの、なによりの証拠であった。しかし、イスラエル国民はかすり傷一つ負わなかった。

 戦闘機の残骸の中に残された燃料は、イスラエルの六年間分の燃料に匹敵するものであった。死体はハゲタカの餌食になった。疫病の蔓延を防ぐために、死体は急いで大きな墓に埋められた。これは、聖書の言葉を基に作り出された荒唐無稽な小説である。

 ここに、「レフトビハンド現象」が集約されている。米国人の心理を脅かす国際的なテロリズムが存在する現実を前にして、米国人には強烈な仮想敵国への憎しみの感情がある。中近東諸国に追いつめられている(と見なす)イスラエルへの連帯感がある。荒唐無稽なこの種の小説のシナリオが「あり得る」という感情を米国人の多くが持つ。そうした感情に訴えたのがこの小説である。現在の眼前で展開されている恐怖は、すでに、聖書、とくに「黙示録」で預言されていたものである。預言通り、歴史は進行している。米国人よ、そして、米国を中心とするクリスチャンよ、いまこそ、悪と闘う正義の戦争に立ち上がろうと、この小説は米国人に呼びかけている。

 ロシアの攻撃が神によって封じ込まれた後、一瞬のうちに、敬虔なクリスチャンたちがこの世から消え去った。いわゆる「携挙」(The Lift)である。取り残された者たち(レフトビハインド)は、そのために、世界中で大混乱に陥った。

 「反キリスト」のルーマニア人、ニコライ・カルパチアが、一夜にしてルーマニアの大統領になり、その後、日をおかずして国連事務総長に、世界の国連大使の満場一致で推挙された。彼は、国連の公用語をすべて話し、世界統一政府を作るために、各国がそれぞれの保有武器の九割を廃棄し、一割を国連に供出し、国連の本部もイラクのバグダッド近郊のバビロンに移し、その地をニュー・バビロンと呼ぶという大構想を掲げて、国連事務総長の地位を得たのである。

 小説は、「黙示録」の文言を忠実になぞりながら、ストーリーを展開し、さりげなく、父ブッシュ(George Herbert Walker Bush)を褒め、通貨統合、環境保護、世界政府を唱える勢力を「反キリスト」として断罪していく。恐怖を煽り、米国に反対する世界の「反キリスト」をクリスチャンの米国人は打倒しなければならないと、保守的心理を強めている米国人に、正義の戦争へ参加するように、煽るのである。ちなみに、恐怖、災害、新自由主義のイデオロギーとの相乗作用を批判的に描いたのが、ナオミ・クライン(Nomi Klein)である(Klein[2007])。

 世界最大の金融業者の主導者の力を背景に、瞬く間に国連事務総長の地位も手に入れた白馬の騎士、カルパチアは、イスラエルと七年間の平和協定を締結し、イタリアに世界統一宗教を設立させた。バビロンは、金融王からの膨大な融資で都市開発がおこなわれ、ニュー・バビロンとなった。国連事務総長就任演説で、カルパチアは世界共通言語、そして世界統一政府の建設を宣言した。

 そして、カルパチアは、国連事務総長としての披露の席で、恩人の金融王を、多くの人が見ている前で射殺した。さらに、臨席者たちの記憶を改造して、世界の金融王者が自殺したと思い込ませることに成功した。居合わせた人のうち、小説の主人公になる、世界的ジャーナリストのキャメロンだけは、神に祈っていたので、そうした催眠術にはかからなかった。このことが、キャメロンをしてカルパチアとの闘争を決心させた。

 国連事務総長になり、イスラエルの神殿建設を支援し、ミラクル肥料の開発者の斡旋もあって、イスラエルのミラクル肥料を自由に利用できる権利を得たカルパチアにとって、金融王は邪魔になったのである。しかも、金融王の遺産相続者は、カルパチアだけであった。こうして、彼は、世界の金融も支配することに成功する。彼は、現代の救世主として世界中の人々から称賛を受けるようになる。携挙があって、わずか一か月後である。まさに、聖書の預言通りであった。

 カルパチアこそは、「反キリスト」だと喝破したのが、ニュー・ホープ・ビレッジ教会のブルース・バーンズ牧師であった。携挙を自ら操縦する飛行機の中で目の当たりに見、妻と息子を携挙された機長のレイフォードと、その娘、クローイ、そして、ジャーナリストのキャロルが「反キリストへの戦い=大艱難に抗する戦士」(トリビュレーション・フォース)として立ち上がることを約束する。キャロルは、イスラエルを攻撃したロシアの戦闘機が一瞬のうちに炎上した事件の目撃者でもある。

 イスラエルと七年期限の平和条約に調印した最大の悪魔=反キリストのカルパチアは、国連を「グローバル・コミュニティ」(世界共同体)に変え、世界の武器の一〇%を独占し、世界の金融機関とメディアを掌握し、事実上の世界政府の主権者になっていた。

 イスラエルのミラクル肥料の管理権をイスラエル政府から得たカルパチアは、イスラエルとの和平を条件として、その魔法の肥料を各国に与えた。さらに彼は世界統一宗教の樹立に成功し、自らをメシアとして世界の宗教に君臨するようになった。その上で、イスラエルに、イスラムが占拠する岩のドーム寺院を撤去して、イスラエルの神殿建設に協力するとまでいい切った。米国大統領ですら、カルパチアを世界政府の指導者として宣言させられてしまった。

 しかし、米国大統領は、すぐさまカルパチアの偽物性に気づき、カルパチアが滞在していたワシンントンのホテルをミサイルで爆破した。難を逃れたカルパチアは、報復として米国の主要都市を攻撃し、米国と同盟していた英国とエジプトにもミサイルをニュー・バビロンから撃ち込んだ。ここに、第三次世界大戦が始まった。二番目の赤い馬に乗った戦争がやってきたのである。イラクに設立されたニュー・バビロン(世界政府の首都、しかもイラクにある)が米国民にとっての主要な敵になる。

 「嘆きの壁」で聖書の預言通り、イエスこそが真のメシアであると説く二人の証言者が、メシアはまだ生まれていないというユダヤ教を非難し、すでにイエス・キリストがメシアとして降臨されていた事実を認めよと説く場面が、小説には出てくる。つまり、カルパチアはメシアではないと人々に訴えていたのである。証言者たちは、ヘブライ語で話しているのに、ヘブライ人以外には、自国の言語で聞こえるような話し方をしていた。米国人には英語で聞こえるように、スペイン人にはスペイン語で聞こえるように説教した。

 これら証言者たちに、自動操縦をもったひとりの若者が襲いかかる。そこでは、イスラム教徒への剥き出しの憎悪が記される。

 「金のネックレス、もじゃもじゃの黒い髪と髭。凶悪なその両目をかっと見開くと、男は空に向かって二、三度、発砲した」。

 男は、まっすぐに証言者たちに向かって進み、自らをアッラーの使者だとわめいた。発砲しているのに、二人の証言者には弾丸が当たらず、二人はどしっとして動揺しなかった。接近したとき、男は透明の壁に跳ね返されたように、体が後ろに飛ばされ、男の頭が潰された。証言者の一人が口から火の柱を吹いた。男は瞬時に黒こげの骸骨になってしまった。銃は熔け、金のネックレスも滴になった。

 イスラムへの憎悪は、ユダヤの伝説の中にもあると小説は紹介する。ユダヤ民族には、この世の終わりのとき、エリヤがユダヤの民を、東の門から神殿に導き、ユダヤの民に勝利を与えるという伝説がある。しかし、司祭であるエリヤは、墓地を通れば汚れて神通力を失う。それを知ったイスラム教徒たちが、エリヤの進路に墓地を作ったといういい伝えがそれである。

 カルパチアは、ユダヤ教の最高権威者のシオンというラビに、イエスではなく、カルパチアがメシアであると証言させたく、金と権力を駆使して自らの膝下に完全に掌握したメディアの前で語らせた。

 しかし、ラビのシオンは、カルパチアがたんなる政治的指導者であって、メシアではないと証言してしまった。そのさい、小説では、シオンに、イスラエルの地が、なににも増して尊い聖地であることを、熱っぽく語らせている。つまり、米国人の福音派に対して、イスラエルは、他の国と同じ扱いをされるのではなく、特別の国、特別の地であることを掻き口説いているのである。

 シオンによれば、アダムの罪深い種を受け継ぐ男子の種によってではなく、処女からしか、メシアは生まれない。メシアを生む処女は、しかし、イスラエルの父祖の血を受け継ぐものでなくてはならない。預言者ミカが説いたように、ユダヤ人の中でもベツレヘムのエフラテ族からしかメシアは生まれない、等々のことを、シオンは強調した。
 イエスが七年後に再臨されるが、それまでは苦しみの日々が続くとの言葉でシオンはテレビでの演説を終えた。それは、カルパチアへの明確な反抗声明であった。

 カルパチアを偽物だと見破っていたブルース・バーンズが「トリビュレーション・フォース」(艱難期に反キリストと戦う部隊)を組織した。件のシオンもその戦列に加わる。嘆きの壁の二人の証言者もシオンと行動を供にすることになった。彼らの説教を聴きにくる群衆が日を追って激増した。

 このようなシナリオで構成されるこの小説は、メガ・チャーチの自己宣伝の書となっている。つまり、世界政府、世界宗教を樹立するという輩はキリストの敵である。彼らとの闘いで宗教の側から立ち上がっているのが、メガ・チャーチである。正しいことを話すから、教会はこのように多くの信者を抱える巨大なものに成長した。巨大に成長したことこそが、メガ・チャーチの正しさの証左である。そして、メガ・チャーチはユダヤ教を敵に回すのではなく、その良心分子を見方に惹き付けることに心がけている。なぜなら、イスラエルはメシアを生んだ聖地だからである。イスラエルを攻撃する国の人々は反キリストである。彼らは、正義を叩き潰そうとする悪魔たちであるということになる。宗教国家の米国民の心を掴むメガ・チャーチの仕掛けが、この小説には施されている。

  メガ・チャーチを押し立てて、反キリストから聖地イスラエルを守ろう。イラクに拠点を置く悪魔を葬り去ろう。「トリビュレーション」時代を米国民は率先して戦おう。こうした荒唐無稽な話に米国人の多くが陶酔するようになってしまった。