昨年の「絶望の裁判所」の姉妹書です。「絶望の裁判所」が制度批判のものであったのに対して、本書はその制度のもとで行われている裁判を批判するもの、ということです。
民事、刑事、行政のさまざまな裁判について、そのおかしい所、そのようなものになってしまう理由が示されています。
「コモンセンス、良識を欠いた非常識な判決」の「象徴的なケース」として、「認知症の老人がわずかな隙をついて、外に出、電車にはねられた事件で、JRの家族に対する損害請求を認めた名古屋地裁(2013.8.9上田晢裁判長)、名古屋高裁(2014.4.24長門栄吉裁判長)の判決」が挙げられています。
この判決については、私も新聞で読んで、ひどい判決だと思い、「法律判断としてはそういう風にならざるを得ないのか?」という疑問を持ったので、必ずしもそういうことではない、ということがわかって、少しはほっとしました(反面やりきれなさも残りますが・・)。
こういうことが起きてしまうのは「2000年代以降急速に裁判官の質が劣化したこと」によるのだとされ、さらにそれは「偏差値の高い変わり者」が閉鎖的な社会の中で最高裁判所事務総局のつくりあげたヒエラルキーのもとで「上に従う」よう仕込まれ続けたことに「根拠」があるものとされています。
このことを含めてさらにとても興味深く思ったのは、「裁判官の判断」に関する次の指摘です。
とのことです。
この本の中で、ある若手弁護士が「裁判官って、主張や証拠を入れてあげれば当然正しい判決を出してくれる機械みたいに考えていた」と言っていた、ということが紹介されていますが、私もそのように思っていたところがあります。そういうものではない、ということをきちんと認識したうえで、「よりよい裁判」が実現されるよう、裁判の内外で追求していくことが求められている、と思いました。
民事、刑事、行政のさまざまな裁判について、そのおかしい所、そのようなものになってしまう理由が示されています。
「コモンセンス、良識を欠いた非常識な判決」の「象徴的なケース」として、「認知症の老人がわずかな隙をついて、外に出、電車にはねられた事件で、JRの家族に対する損害請求を認めた名古屋地裁(2013.8.9上田晢裁判長)、名古屋高裁(2014.4.24長門栄吉裁判長)の判決」が挙げられています。
この判決については、私も新聞で読んで、ひどい判決だと思い、「法律判断としてはそういう風にならざるを得ないのか?」という疑問を持ったので、必ずしもそういうことではない、ということがわかって、少しはほっとしました(反面やりきれなさも残りますが・・)。
こういうことが起きてしまうのは「2000年代以降急速に裁判官の質が劣化したこと」によるのだとされ、さらにそれは「偏差値の高い変わり者」が閉鎖的な社会の中で最高裁判所事務総局のつくりあげたヒエラルキーのもとで「上に従う」よう仕込まれ続けたことに「根拠」があるものとされています。
このことを含めてさらにとても興味深く思ったのは、「裁判官の判断」に関する次の指摘です。
「裁判官の判断は、判決に記されているように、個々の証拠を検討して、あるいはいくつかの証拠を総合評価して断片的な事実を固めた上でそれらの事実を総合して再構成して、事実認定を行い、それを法律に当てはめて結論を出しているのだろうか?それとも、そのような積み上げ方式によってではなく、ある種の総合的直感に基づいて結論を出しているのだろうか?」
「裁判官は、主張と証拠を総合して得た直感によって結論を決めているのであり、判決に表現されている前記のような思考経過は、後付けの検証、説明にすぎない。」「要するに、人間の思考は、まず結論があって後からその検証、理屈付けが行われるのであり、裁判の場合もその例外ではない。」
「裁判官は、主張と証拠を総合して得た直感によって結論を決めているのであり、判決に表現されている前記のような思考経過は、後付けの検証、説明にすぎない。」「要するに、人間の思考は、まず結論があって後からその検証、理屈付けが行われるのであり、裁判の場合もその例外ではない。」
とのことです。
この本の中で、ある若手弁護士が「裁判官って、主張や証拠を入れてあげれば当然正しい判決を出してくれる機械みたいに考えていた」と言っていた、ということが紹介されていますが、私もそのように思っていたところがあります。そういうものではない、ということをきちんと認識したうえで、「よりよい裁判」が実現されるよう、裁判の内外で追求していくことが求められている、と思いました。