http://sanbika.net/Tell_it_to_Jesus.html
多く祈る者が多く学ぶということはエレミヤ書33章3節でも語られています。カ-ル・バルトは神学の授業中、しばしば讃美し、また祈ったと言われます。哲学には必ずしも祈りは必要でないかもしれませんが、神学、霊である神を学ぶために祈りは不可欠です。
被造物を超えた創造主とその超越的4次元に関わるには、依存と人格的対話が必要とされます。この交わりこそ神のいのちの通路であり根源であります。
神との交わりは、神の赦しという土台に裏付けられています。罪なき御子が私たちに代わって十字架で断罪されたという絶対的なあがないのもとに成り立っています。
メルケル首相が安倍総理に過去に向き合うよう進言されました。彼女は、いかなる罪もあの偉大な赦しのもとにおかれていることを知ってほしかったのではないでしょうか。赦されているゆえに私たちは過去に向き合えるのです。もし罪が赦されたという事実を知らなければ、人は存在の根拠を失い、和解への希望も失せてしまいます。
主の赦しを受け入れるところで、創造主なる聖霊が内住され、私たちはとがめから解放されます。そうして内側から神を喜び、神と話し、神に聞く人生が始まります。父と御子と御霊の永遠の交わりへ招きいれられるのです。
思考も、主の血と御霊で清められるときにすこやかにされ、神的いのちと結びあわされた超自然の働きが可能になります。感性や意思は人間的なエロスやフィレオ-のレベルから、聖霊の愛アガペ-に引き上げられます。
理性は人間の脳科学の産物としてだけでなく、霊性、すなわち創造霊との交わりを通して、活性化され本来の機能を発揮するのです。
優れた芸術家や科学者はその霊性とインスピレ-ションを重視しました。ソロモンのように被造物であることをわきまえて創造主からのいのちと知恵を求めたのです。
その意味で個人、社会、国家の命運は創造主からの祝福にかかっていると言えます。霊と心と体と環境に、主の贖いの血潮の清めをいただき、聖霊の注ぎをいただくならば、人はいかなる惨状と絶望からも立ち直ることが出来ますし、永遠を生きることができます。
神は私たちに己をお与えになり、霊の中にお住みになり、私たちの重荷を担うことを願っておられます。
ですから生活の重荷と心の心配事を、ことごとく主に申し上げ、主にゆだねましょう。主がどのような奇跡をもって答えてくださるかを期待しながら。
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