8日、山口、柳井市に「二人で一人の明治天皇」の著者松重氏を訪ね、大室天皇説についてお話いただきました。
要旨は「百済系天皇」が南朝、新羅系天皇が北朝で、明治維新とは前者グループによる権力奪取の革命であるいうことだったと思います。
加治氏の小説「幕末維新の暗号」や「失われたミカドの秘紋」とも一脈通じるものを感じさせられました。
フルベッキ写真について、私も慶応撮影説に近い見解をもっており、その面では共感するのですが、
いわゆる「ダビンチ・コード」に対する考えでは私と全く違います。
十字架につけられたのは、主イエスではなく、主はその後も生き延びて、日本にあるいはインドに渡ったと、私からいうと荒唐無稽なことが書かれていました。どうも本気でそう思われているふしがあります。
これは、いわゆるニューエイジの思想に由来し、「ダビンチ・コード」と共通するものです。
なぜ、そうお考えになるのかと自分なりに結論を下しました。
私は主が復活して生きておられることを信じますが、ニューエイジ宗教は、思想の伝承という形で復活をとらえます。
ここで、いのちの継続という問題になります。聖書では「被造物としてのいのち」と「創造主のいのち」
を区別しております。被造物はある程度の延命は可能ですが、造られたものとしての限界があります。程度の差はありますが、創造主の永遠性とは質的に違います。
復活のいのちとは永遠のいのちであり、神のいのちであります。
ラザロの体が生き返った時、それは誰もが観察することができました。被造物の体として五感で認識できたからです。しかし復活された主イエスを認めることができたのは、霊のいのちとその目が開かれた者だけでした。
これは現在でも同じであります。ローマ時代あるいはその後の思想宗教的政治的弾圧にもかかわらず、キリスト教は今や23億人に達し、なお拡大し続けているのは、復活の主ご自身が活動しておられるからです。
この事実を、被造物だけの視点から解釈しようとすると、ニューエイジになってしまいます。
エホバの証人の 方々にも、よくお話しするのですが、聖書の言語も参考にされて、永遠のいのちとは「ゾーエー」というギリシャ語で表現されるように、創造主の霊に触れられて、永遠のよみがえりに与かったいのちであることを知っていただきたいと切望します。
神は私たちに永遠のいのちを与えるために御子を世に送って下さいました。
そのいのちが私たちのうちに届けられるために、どうしても、御子は私たちの罪を負われて
十字架で血を流さなければならなかったのです。
同じ日、山口市のアガリ総合研究所の上里氏とお会いし、「仙太郎」の出版についてお話いただきました。
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