カールバルトの神学はナチズムとの闘争の中で形成されたものといえるでしょう。
彼はそれを単に政治闘争ととらえたのでなく、聖書の視点から信仰的霊的レベルから考察しています。
その意味で私たちも太平洋戦争を彼に倣って総括する必要があると思います。
バルトは教会教義学の創造論の中で、かなり詳細に天使論を展開しています。山本和は著書「政治と宗教・カール・バルトはどう闘ったか」(教文館)において、バルトの言う天使権とは日本の天皇制国家にも関わるものだと述べています。
創造霊としての神と被造霊としての天使の違いについて聖書は明確に語ります。
福音と諸宗教あるいは信仰と政治についての理解はそれぞれの領域についての関係をしることによって明らかになると思います。
そこで旧約聖書と新約聖書の共通点と違いをみることも必要です。間接的な時代と直接的な時代、あるいは至聖所の外の次元と至聖所の中のレベルと時代と考えてよいでしょう。
同じ太陽の光を受けていても、雲によってさえぎられて間接的にその恩恵に浴すのか、晴れて雲間から直接にその光を受ける関係と言ってよいでしょうか、神は永遠で変わりないのですが、御自身を直接的に開示されている場合とそうでない場合があります。雲とは至聖所と聖所を隔てた幕のことです。
開場はされてもカーテンが閉じられているので、舞台と客席が一体になるのは開演以降のことです。
そこで前座ともいうべき重要な役割を演じるのは、旧約聖書に現われる天使達です。
神は天使を介して語り行動されます。しかし天使には被造霊としての限界があり、精神的に肉体的祝福にとどまります。神御自身が私たちの霊に触れ住まわれ、永遠の生命と救いをもたらされるのは十字架の贖いとともに神殿の幕が裂かれた後です。
諸宗教や政治の分野はこの天使的次元に関わっていることが分かります。
バルトがナチズムの背後に見たのは堕落した相対霊が絶対主のごとくに、御座の前に立ちふさがったことではないでしょうか。ですからそれは単に政治闘争にとどまらなかったのです。
父と子と聖霊としての神は、神の内部、そのファミリーの内側から認識されます。
ユダヤ教に代表される単一神はあくまでその外部からの間接的認識によるものです。まだ天使の下の次元にいますので天使自身が神にみえるのです。そこではこの世的な祝福はあっても永遠は確保されていません。
潜在的に旧約の影響を受けた日本文化の課題がここにあるのではないでしょうか。
宗教的単一神信仰、ユニテリアン的信仰、ニューエイジ(ダビンチコード)、進化論的思想、あるいは政治至上主義(創造主を拝する日でさえも、政治討論と称して第二次元のレベルの事に埋没する)
真珠湾攻撃は敢えて主に日に行われました。その結果がいかなるものであったか知らなければなりません。
全世界で用いられている復活主の年号の他に主権のないはずの君主の年号を用いる。これらは天主権の逸脱ではないでしょうか。
天使権は創造者の主権に従うことによって、その重要な役割を回復します。時間は永遠の中で本来の働きをします。
そして民主主義が衆愚政治に陥らないために、民が主なのでなく、民の中に生き働きたもう聖霊なる創造主こそが主であることをわきまえる時ではないでしょうか。
これこそが衆愚制に脱した古代ギリシャの人間主義にもとづくものでなく、ジュネーブでカルヴァンによってはじめられた聖霊による近代民主主義です。
そして宗教との対話や政治問題に限らず、あらゆる分野において主権者であられるかたの主権を回復してゆくことが創造主と天使たちに喜ばれる祝福の道を開くことになるでしょう。
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