モーツァルトさん、こんにちは。
一つ前の手紙で、短歌について少し書きました。
五句31音のうちのどこか(たとえば助詞など)を動かすと、他のコトバもも自動的に変わっていく、みたいな話でした。
それに関連して、演奏も似たようなことがあると思ったのです。
たとえば、あるソナタの第1楽章を弾くとき、冒頭の音から最後の音までの容量が、弾く前にもう決まっている(見えている)。
それは或る意味で、短歌の五七五七七(五句31音)という枠とおんなじ。
冒頭から弾き出して、たとえば、或る箇所を、ちょっといつもより時間をかけて弾いたとしたら、その分を、どこかでうまいバランスを取る。
テンポで取り戻すとは限らず、ディナーミクや、歌い方や、その他、いろんな要素を総合して、第1楽章全体の枠の中でなんとかカタをつける、みたいな。
コトバにするとまどろっこしいけど、そういうことってありますよね。
音って、とても物理的なもの、って私は感じるのですが、「物理的」というイミの使い方、まちがってるかしら? 数値化はできないけど、でも、エネルギーのやり取り×音色、とか、なんだか知らないけど、そういう感覚があるのですが。
う~ん、これ以上言っても、ややこしくなるばっかりですね。
今日は、雨が降っています。
音楽室は一定の湿度に保っているはずなんですが、楽器は敏感で、タッチがすごく変化しました。
どんな状態でも対応できるよう、練習さらにしなくっちゃ。
モーツァルトさん、時々は返事ちょうだいね。♪
一つ前の手紙で、短歌について少し書きました。
五句31音のうちのどこか(たとえば助詞など)を動かすと、他のコトバもも自動的に変わっていく、みたいな話でした。
それに関連して、演奏も似たようなことがあると思ったのです。
たとえば、あるソナタの第1楽章を弾くとき、冒頭の音から最後の音までの容量が、弾く前にもう決まっている(見えている)。
それは或る意味で、短歌の五七五七七(五句31音)という枠とおんなじ。
冒頭から弾き出して、たとえば、或る箇所を、ちょっといつもより時間をかけて弾いたとしたら、その分を、どこかでうまいバランスを取る。
テンポで取り戻すとは限らず、ディナーミクや、歌い方や、その他、いろんな要素を総合して、第1楽章全体の枠の中でなんとかカタをつける、みたいな。
コトバにするとまどろっこしいけど、そういうことってありますよね。
音って、とても物理的なもの、って私は感じるのですが、「物理的」というイミの使い方、まちがってるかしら? 数値化はできないけど、でも、エネルギーのやり取り×音色、とか、なんだか知らないけど、そういう感覚があるのですが。
う~ん、これ以上言っても、ややこしくなるばっかりですね。
今日は、雨が降っています。
音楽室は一定の湿度に保っているはずなんですが、楽器は敏感で、タッチがすごく変化しました。
どんな状態でも対応できるよう、練習さらにしなくっちゃ。
モーツァルトさん、時々は返事ちょうだいね。♪