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2010.02.16 阪神大震災の日、香港に居た私(その2)

(その2)
旅行嫌いの私ですが、どうしても香港にだけは、行きたかったのです。
それも、中国に返還される前の香港に、行きたかったのです。
香港は中国に返還されることが決まっていて、その頃もう返還の6年程前になっていました。

私は、終戦前に中国の上海で生まれました。
敗戦で、幼い頃、日本に引き上げて来ましたので、記憶はおぼろげですが、そのおぼろげな
記憶に繋がる物が、何か見つかるかもしれないと思い、その昔の何か(主に味覚の方面)を
求めて香港に行って見たかったのです。

私は、共産圏に入る前の香港を見たかったのです。
何故なら、その頃、中国を旅した人達から、「もう二度と中国には行かない。」「お金を貰った
としても、中国にだけはもう行きたくない。」とか「物を買う時も売る方がけんか腰よ。なんで、
こんな嫌な思いをしないといけないのと思った。」等、中国旅行の悪評を散々聞いていました。
そんなことから、中国に返還されたら、香港の街の雰囲気や風物が別物になるのではないかと
危惧を感じていました。
とにかく、もし昔の中国の面影が残っているとしたら、今の香港しかないのではと思いました。

昔の中国と言っても、私が幼い頃過ごしたところは、日本人だけが住む、いわゆる日本疎開で、
沢山の住宅が大きな壁で囲われた場所で、中国人社会から隔離されていましたし、その入り口
には、雇われて、中国人の門番がいました。

ある日、子供達で遊んで居た時、奥の方のぴったり閉じられていた、大きな裏門の向こうから、
賑やかなピーヒャラという笛の音や、大きなドラや太鼓の音が聞こえて来たので、おそるおそる
裏門の方へ近づき、下の隙間から覗くと、晴れやかな衣装を纏った一団が行進していました。
多分結婚式かお祭りだったと思います。中国人社会を垣間見た、数少ない経験の1つです。

小学校は、日本人小学校で、疎開の門の眞向かいにあり、その小学校の門には、いつも数人の
背の高いインド人の門兵が立っていました。

中国の街に出るのは、家族みんなで、父に中華料理を食べに連れて行ってもらう時や、母の買い
物に付いて行って、甘い物屋(それも日本人経営)に入る時ぐらいで(でも、何度か大きな中国
の市場で、沢山の鶏や野菜類を見た記憶はあります。)、淡い記憶しかありませんし、ましてや、
香港の様な喧噪の街とは無縁の生活でした。

でも、何故か中国は懐かしい。
特に、その時の極上の中華料理の味や、ほかほかの豚饅頭(1度だけ、道ばたでおじいさんが
蒸かしていた、あつあつのものを買って貰いました。最高でした。)の美味しさは、私の味覚の
思い出の原点になっていて、ぜひ、今のうちに香港を訪ねて、はるか昔の中国の面影を求めたい
と願っていたのです。
上海から遠く離れているけど、行ったこともない香港だけど、行って見たいと私は熱望しました。

                         (その3に続きます。)
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