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2010.02.26 阪神大震災の日、香港に居た私(その7)

(その7)
母は、震災の10年前に亡くなっていたのですが、生前の母に、私がいつもしていたことがありました。
それは、地震など、何か怖いことが起こると、真夜中でもいつでも、私は母のところに駆け寄り、両腕の
中にしっかり抱いて、「大丈夫よ、大丈夫よ。」と言っていたことです。

人間年を取ると、耳も、目も、感覚も鈍って来るので,何が起こっているのか把握出来難くなり、それが
恐怖に繋がるのだと言う、私の持論がありました。

母が、白内障の手術をした時は大昔で、私は30代の始めだったと思います。
その当時の白内障の手術は、入院1カ月間砂枕で頭を固定されていて、退院後も1カ月自宅安静という、
大手術でした。(介護疲れの私は、通勤電車のつり革に掴まりながら熟睡して、膝が大きくガクンガクン
するので恥ずかしかったことを思い出します。洗濯機に脱水が付いてなかった時代の真夏の入院でした。)

そういう時、私は疑似体験と言うものをしようとするのが常でした。
そんな状況の場合、どんな不自由があるのか、どんな心理になるのか、知りたいと思うことからでした。

…と言うのは、年を取って、自分がそうなってから気付くのでは、あまりに悲しすぎると思うからです。
それは、気付かなかった自分への自責を伴うからです。
できたら、早めに似た様な体験をしてみて、全く同じではなくても(同じになれる筈はもちろん無くても)、
理解を持っておきたいと言う気持ちが、強くありました。

その時、私は近くの国道2号線に行き、瞼を半眼にし視力を暗くして、じっと国道の騒音を聴きました。
すると、今迄とは全く違った、底知れない響きのある騒音となり、訳の分からない怖さを感じました。
人が、横をすり抜けて行く気配にも、体当たりされないかと、怖さで身がすくみました。

視力が薄くなると言うことは、当然のことながら、それだけで、恐怖が増すのです。
視力が衰え、さらには耳が遠くなると、ますます理解力を失い、何が起こっているのか分からないので、
恐怖は倍加します。脳の機能が衰えたら、なおさらのことです。
何が起こっているのか分からないということほど、怖いものは無いと思います。
その上、年を取ると、身体が利かなくなるので、危険を避けることも難しいので、恐怖は益々加わります。

そういうことを、疑似体験は、少しでも教えてくれる様に思いました。
出来たら、そんな経験を先にしておいて、親の老後に備えたいと考えました。
むろん、どんなことをしても、本当のところは、自分がその年になってみないと分からないことは、承知
していましたが、せめて、努力だけはしたいと思いました。

そんな私にとって、地震などのとき、年老いた母の恐怖を軽減することは、大切な役目でした。
そうゆう気持ちが、地震が起こった時に、母を両腕の中に抱きしめるという習慣になったのだと思います。

そんな時、いつも、小柄な母の頭が、私の左の頬に当たっていました。
母が、私をじっと見上げている(感謝のまなざし?)こともありました。

その視線です。まさしく、その視線なのです。私の左の頬に突然張り付いたのは!
香港のテレビで神戸の惨状を見た瞬間、まさに、母のその視線が、私の左の頬に、「パン!」と貼り付いた
のです。

そうか、そうだったのか・・・?
母が、私を此処へやってくれたのだ。
地震を避ける為に、私を海外へ逃してくれたのだ。
そう言うことだったのか!
私は、そう思いました。

衝撃でした。
そして、その視線は、その後も数日間、私の左頬に張り付いたままだったのです。

                               (その8へ続く)
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