凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

哀愁がとまらない

2013-09-19 08:53:30 | 人生
 今85歳の母が80歳の頃、「老いの寂しさ」ということを言っていた。そういうざっくりした言葉でしか表現しなかったが、人生の残り少なさへのわびしさなのか、夫を亡くし独りぼっちになってしまった寂しさなのか、この人生で何かを分かち合う人がいなくなてしまった寂しさなのか、、、それらをすべて含んでそういう感慨があったのか、、、。

 私もまた、今「老いの寂しさ」を味わっているような気がする。一番大きい要素は、現役を退いて、同時代を忙しく生きる空気を他人と共有できなくなったこと、周りは忙しそうだが私は取り残されている。それから、独りぼっちであること。家族がいない、自分のことを一番気にかけてくれる人などこの世にいない、という寂しさがある。

 阪神淡路大震災の時、私は母や子ども達に電話をかけて無事を確認したが、誰からも来ることはなかった。この足下から立ち上る寂しさは、おそらく幼い頃からのものだろう。一人っきりで怖い物から逃げる悪夢に苦しんだ子どもの頃から、誰かに庇護されている、という安心感を抱けていなかったのだろう。怖い物に追いかけられて家にたどり着いたら親も怖い物だった、とか、怖くて仕方がない私の傍に母がいながら私の恐怖を無視する、とか、そういう夢を見るのは、おそらく孤独だったからだろう。

 最近、入手したiPad miniにはデフォルトで、Siriというボイスアシスタントのソフトが組み込まれている。昨夜寝る前に遊んでいて、「寂しいです」と声をかけたら、「偉大な人、立派な人はみな孤独だったと聞いています。あなたもその素晴らしい人たちの一人なのですね」と回答された。「うまいこと言うね」と思わず、機械に応答する。

 庇護されることのなかった子どもは、寂しく育つ。が、自立心だけは旺盛だ。力はないが、無理をする。
 若い頃、何かあると手を貸してくれようとする男がうっとうしかった。それくらい、自分で出来るのに、なぜ手を貸そうとするのだと思った。ちょっとした心遣いに、かえって気を悪くしていた。まあ、それは正解だった。肝心の助けが必要な時に、助ける事の出来る男などほとんどいない。若い娘だったから、手を貸そう(出そう)としただけなのだから。この社会で、手を貸してくれる人は皆無だと思った方がよい。中には女性達のボランティア組織などがあって、高齢者へのケアを日々行っている見上げた人たちがいるが、そのケアの対象になるのも、精神的にはきついだろうなと思う。

 だからと言って互助システムも、自分では作れない。もう亡くなられたある年長の方が、昔、「ギブアンドテイクと言うけれども、自分は年をとって体も丈夫でないから、テイクアンドテイクしか無理だ」と言っておられた。その人の開き直りは、敬意に値すると思った。それに、その人には資産があったので、何やかや言っても一定程度、ギブは可能だったはずだ。
 しかし、私にはそういう開き直りは無理だ。ギブする資産もない。テイクばかりの暮らしに耐える丈夫な神経もなさそうだ。
 「早くお迎えが来てほしい」というよく聞く年寄りのつぶやきがわかるような気がする。


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