凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

我が人生は悔いだらけ

2014-08-09 22:04:42 | 人生
 後悔しない生き方をしたつもりだったが、こうして、来し方を振り返る年齢になって、無念なことが多い、とあらためて思う。

 どうしてこんなに、自分の人生と折り合いがつけられないのか。
 どうして、自分とこんなにも折り合えないのか。

 BLというのは、フェミニズムの恰好のネタの一つだが、そしてそれを解明しようとするフェミニストも多いが、なかなか解明に至らない。私はそれは、フェミニズムが追求しようとし、奪還しようとした目的に反することだからではないかと思ったりする。

 女であることを肯定しようと、フェミニストたちは女を社会の第一義の存在に押し上げることに全力を尽くしてきた。男と対等な存在として。
 それは、もちろん、法の前の平等な存在として女が男と共にあることの意義は、大きいだろうと思う。きっと、正しい方向性だ。

 しかし、法の前の平等という人為的な操作とは異なるところで、女は、どこまでも二次的存在なのではないかと思う。二次的存在として概念化され、客体的存在として深化してしまっているので、私たちの概念構成をそう簡単には作り替えられないのではないかと思うのだ。

 ホモ・ソーシャルというのは、実に言い得て妙だ。男達が構成したマスキュリニティの世界には、私はいない。私は、ホモ・ソーシャルな世界の中で、確かに、二次的存在であり続けてきた。男の対象であり、語られる客体だ。私は主体たり得ないのだ。

 BLは、どう考えても、主体たり得ない女たちが、主体を僭称するために取る手段としか思えない。対象であり、客体に過ぎない自分を捨てて、ホモ・ソーシャルの世界に潜り込み、その住人の誰かに自分を仮託する。現実の男達は女を対象として選ぶが、「対象」であることに心惹かれない女たちは、ホモ・ソーシャルな世界に恋愛や性を持ち込み、そこで息をつく。主体も客体も、ホモ・ソーシャルな世界で完結する。そこで初めて、女達は、客体的存在である自らを殺さないで済んでいるのだ。

 私の実感によるBLの読み解きはこういう感じだ。女の自己客体化は、救いがたいほど根が深いという気がする。そういう私の実感からすると、女性アイデンティティが揺るがない人というのは理解不能だ。

 そして、BLという遊びをしてみると、今度は、現実の自分の二次性に耐え難い無念さを抱いてしまうのだ。だから、悔いだらけだ。
 女としてしか生きられなかったことがものすごく辛いのだ。それは、二次的存在であり続けなければならなかった私の空しい、取り返しのつかない悔いある過去だ。
 
 

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