凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

死に時

2014-07-14 22:09:25 | 人生
 実は、もう永らく死に時を探している気がする。同じような年代の友人達は、まだ元気に仕事や活動をしている。が、私はもう用済みのようだ。もともと、ダメな人間だったのだろう。だから、少しの間、仕事をさせてもらったが、寿命は短かったようだ。素がそんなものなのだろう。

 幼少期のダメージというのは終生祟るという気がする。「自分はどうせ、だめなんだ」という親から来た呪詛は、抜けない。幼い、やわらかい脳に刻み込まれるのだ。
 自分をかたちづくる自信も劣等感も根拠はない。ただ、刻み込まれる。そして、「予言の自己成就」を果たす。そう、親から来た呪詛は、その後の人生の予言だ。そして、自分でその呪詛の内容を完遂する。一時的に浮上したように見えても、それを克服し切るのは難しいのではないか。

 私はまだ自分を諦めないでおこうとは思っている。平凡で愚かで、子どもの何たるかを考えることもしなかった、自己満足的な親たちに、ただ無自覚に翻弄された。ネガティブなメッセージを与え続けた親は、平凡でものを考えない人たちだった。そんな人達に、私の人生をめちゃくちゃにされてたまるかと、一時期はがんばってみたが、もう、力尽きた気がする。それでも、まだ自分を諦めないでおこうと思っている。自分で幸せを獲得してみようと思っている。

 しかし、幸せも価値観だ。今日、明日、飢えないで済むことを幸せと思って、日々を穏やかに家の中で暮らすのもアリだ。が、仕事ができることを幸せだと思って生きてきた私にとって、仕事がなくなるのは、人生の終わりのような感じがする。
 来年は、もう仕事ができない可能性がある。そうすれば、無職で貧しい独り者のおばあさんだ。それでも、微笑みながら、満たされながら、生きていけるだろうか。

 不安だ。そして、思う。その時が来たら、自死しよう、と。中学生の頃、あれほど死のうと思っていた、その時が、50年遅れで来るのかもしれない。50年、先延ばしになった、だけかもしれない。

 そして、また思う。子どもたちは、普通に悲しむだろう。自死は辛いだろう、と。私のようなタイプではないから、それほど苦しまないかもしれない。あるいは、私とは違って見えても、実は繊細で苦しむのかもしれない。どちらにしても、苦しめたくはない。悲しませたくはない。唯一の子ども孝行は、私が機嫌良くいることだろう。
 私に対して、酷薄だった母は、今、機嫌良く無責任に老いていて、この人生でほとんどただ一つの「良い母」ぶりだ。母が、鬱っぽくて嘆き節ばかりの人だったら、たまらなかっただろうが、それはない。たぶん、そういうのが嫌われるのを知っていて、機嫌良くしているのだろう。
 孫に対して、それとなく私を悪者にして、すました顔をしている。露骨な悪口を言わずに、それとなく、「お母さんに怒られた」というように、孫の同情を買う。母は、徹底して弱者に回る。息子などは単純だから、簡単に籠絡される。こういう時、娘の方が賢い。祖母を見抜く目を持っている。そういう生きる知恵をフルに使いながら、母は自分を守りつつ生きている。自分だけを守りながら生きている。自分の利益だけを考えながら生きている。機嫌良く、しぶとく、弱々しい風情で。86歳の母は、したたかだ。

 そして、63歳の私が、自死を考える。が、子どものことを考えるとそれも選べないなぁと思う。なんとか、元気を出そうとは思っている。が、力尽きてきたのは事実だ。

 


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