minga日記

minga、東京ミュージックシーンで活動する女サックス吹きの日記

NYものがたり2[Straight to the core]

2016年09月07日 | 
<ストレート・トゥ・ザ・コア>

その年の秋、私は音楽上のパートナーであった永田利樹 と結婚し、すぐその足で、NYへ向かった。ハネムーンに かこつけて3週間マンハッタンに行き、2枚目のアルバム を完成させる目的もあり、NYで沢山のミュージシャン達 に出会って、来年、多田さんの為にもライブがやれるよう にしなくちゃ、等々・・・期待と夢で一杯の旅行だった。

トランぺッターのレオ・スミスとのレコーディングを無 事に終え、マンハッタンの厳しい寒さの中でほっとすると 同時に残りの1週間をどうやって過ごそうかと考えていた。 楽器はあるが演奏する場所を知らない、どうしたらミュー ジシャン達と知り合えるのだろう、来年の夏にライブを行 う為になんとかチャンスをつくらないと・・・ただあせり ばかりが先行して、私達は羽を奪われた鳥のように情けな い気持ちになっていた。そんな時にブルックリンに住んで いたドラムの本田さんが「暇なら、ストリートでもやらな い?」と声をかけてくれたのだ。『ストリートミュージ シャン』というものを一度経験してみたかった私達はさっ そくマンハッタンの地下鉄へとくり出した。



春や夏なら本当にストリートで演奏する事は可能だが NYの11月はかなり寒く、当然地下鉄の中がオアシスになる。ホームレス(浮浪者)とストリートミュージシャンで 溢れかえる地下鉄の構内で、一番困難な事は『場所探し』 であった。パーミット(許可証)もなく、人の大勢集まる 場所で、おまわりさんに怒られない場所・・・こうなると 経験豊かな本田さんに頼るしかない。彼は颯爽とドラム セットをひきずりながら、私達をコロンバスサークルの A列車のホームへ案内してくれた。

初めて大勢のアメリカ人の前で自分達の音楽を聴かせるチャン スだ。どんな反応が返ってくるのだろうか。ヨーロッパのフェス ティバルで演奏した時のようにうまくいくだろうか。ジャズの 本場で演奏する事は、やはりとてつもなく勇気のいる事だった。 恥ずかしさと期待で複雑な思いのまま、恐る恐る吹き出したメロ ディは『Blue Monk』。日本にいる多田さんがニコニコ笑っている 姿が浮かんで勇気が湧いて来た。普段のように楽しんで演奏すれ ばいいんだ、と自分に言い聞かせながらソロを吹き終わって目を 開けると、われんばかりの拍手。いつのまにか黒山のひとだかり ができていた。次々に$1札を入れに来て、みんなが話しかけて くる。「いつも何処のライブハウスに出ているの?」「レコード ありますか?」「ネームカード(名刺)ちょうだい。」「A列車 で行こう、を演奏してくれない?」等々。中にはやっとの思いで 稼いだ小銭の入った紙コップを「Oh! Unbeliebable!(信じられな い)」と言って全部投げ込んでしまうホームレスの黒人、お金が ないから持っていた花を入れてくれるホームレスのおじいさん、 『許可証』をあげるから来月オーディションを受けなさい、とわ ざわざ教えてくれる警官etc....


昨日まで殆ど観光客に過ぎなかった私達がストリートをやっ た途端、マンハッタンのどろどろしたエネルギーの中心(コ ア)に入り込んでしまったのだ。この日から、音楽関係者、TV プロデューサー、弁護士、新聞記者、ホームレス、警官、と多 くの人たちに声をかけられ、名刺も飛ぶようになくなり、来年 のライブハウス出演も決まり、クリスマスの1週間前、興奮さめ やらぬままNYを後にした。

帰国して、タイトルを『Straight to the core(コアにまっしぐら)』として完成した2枚目のア ルバムはTBMから発売が決まった。そんな中、1通のクリスマ スカードを添えた分厚い手紙が私のもとに届いた。

『あなた方のいなくなったコロンバスサークルは火の消えた ような寂しさです。あなたたちの演奏が、クリスマスで華やぐ このNYの雑踏で聴こえていればどんなに素敵な事でしょう。次 に来る予定はありますか?必ずNYに戻って来て下さい。』とい う美しいメッセージが延々と綴られた、詩のような手紙を書く この人は一体どんな人だろう?いろいろと想像しながら私と< ジャッキー・ポール・クルエル>の交流(文通)がこの日から 始まった。


「ヨットがやっと完成しました。」多田さんから連絡が入っ たのは12月が慌ただしく過ぎようとしていた頃だった。NYでの 成果を報告すると、多田さんも大喜びで「よおし、来年はマン ハッタンでライブだね。必ずスポンサーを見つけて成功させましょう。」「ニューポートで多田さんの為にブルーモンク吹 いて見送ります!」約束を交わす私達にとって、翌年のアメリ カ行きは大きな意味を持っていた。遂に8月のライブの日程が 決まった事を告げると、『おめでとう、あなた方の音楽が聴け るのを楽しみにしています。』とジャッキーからの返事にNY への期待は益々膨らむばかりだった。 (つづく)

写真提供/Yukio Yanagi


Straight to the core (ちなみに1枚目はレコード盤「Free Fight」)

NYものがたり 1 [BlueMonkとオケラ号]

2016年09月07日 | 
関西、四国のツアーも無事に終わり、ようやく東京に戻りました。素晴らしい出会いに感謝しております。

しかし、東京もまだまだ蒸し暑い日が続きますね。台風や地震も心配ですが、来週からはまたまた北海道ツアーも始まります。北海道のみなさま、どうぞよろしくお願いいたします。

今回、大阪野崎観音でとても懐かしい人と出会うことができました。これも観音さまのお引き合わせ・・・。

平成元年に結婚式をし、そのままNYに新婚旅行に行った私たちが待っていたさまざまなハプニング・・・・。本当に昔の話ですが、特にヨットマン『多田雄幸さん』のことを未だに忘れることはできません。その恩人でもある多田さんの理解者であったYさんが25年ぶりに私たちの名前を見て、コンサートにいらしてくれたのです。あのときの貴重なビデオを持って・・・・。

なんと、多田さんの親友であった植村直巳さんも野崎観音を訪れていた。そして、亡くなったあとに多田さんと植村さんの奥様も野崎に・・・。ああ、なんというめぐり合わせでしょう。いろいろと昔のお話を聞かせていただくことができました。野崎観音にも感謝しております。


以前、「スターラップ新聞」というファンクラブ専門誌を発行しており、そこで5回に分けて掲載した私たちの「NYものがたり」をもう一度、ここに残しておこうと思いました。

どうぞ少しの間、おつきあいください。



「NYものがたり」

『お元気ですか?~(中略)~店をやめてからあちこちでお名前を拝見していて、「活躍してるんだな」 と思っていました。僕がアメリカに住んでいるとき、アメリカに演奏に来ていたという記憶が あります(記憶にはあまり自信がないんだけど)。僕もなんとか筆一本で生活していますが、楽器 ひとつというのも大変なんだろうなと推察します。ピーターキャット時代のことは、僕自身ときどき懐 かしく思い出します。ずいぶん昔のことになってしまったけど。~(後略)~ 村上春樹 』

大学2年の春、ジャズのライブがタダで聴けてLPも沢山聴ける素敵なアルバイトがあるよ、と先輩の紹介で勤め始めた『ピー ターキャット』は千駄ヶ谷の駅のすぐそば。木のぬくもりのある素敵な店だった。ジャズ喫茶の店主というのは、頑固で 一癖も二癖もあるような個性的な人物が多いのだが、この ピーターキャットのマスター、春樹さんは寡黙で穏和、世間知 らずで無責任のかたまりのような私に対しても、優しく忍耐 強く、様々な音楽(特にスタン・ゲッツが多かったけれど) を聴かせてくれ、チーズケーキやロールキャベツのおいしい 作り方まで伝授してくれた。にもかかわらず、その頃の私は 自分の事で精一杯。アルバイトも適当にやって、ずるずると 行かなくなってしまい・・・その時期に春樹さんは『群像』で賞をとり、着々と小説家への道を歩みつつあったが、逃げるよう にして店を止めてしまった私に対しても給料の残りを手紙を添えて書留で送ってくださるという律儀な人だった。

店をたたんで、小説家としてどんどん有名になっていく 春樹さんの様子を陰ながら応援しつつ『いつか謝って、お 礼を言いたい』と思っていた私はある本(村上朝日堂)に私の話が載っていたということがきっかけで、 20年振りに彼にメールを出したのだった。 返事なんて全く期待していなかったのだが、春樹さんか らメールがきた時は本当に嬉しかった。私の事を覚えて いてくれ、しかもNYで演奏していたのを知っていたな んて・・・エネルギー溢れるジャズの街マンハッタン で、必死に何かを求めて利樹と2人で闘ったあの頃、雑 踏の中で沢山の人たちと出会い、助けられ、感動した 数々の思い出が走馬灯のように蘇ってきた。 いつかはきちんと書きたいと思っていた、NYの熱い 日々、そして2人のタクシードライバーの話をこの場を借りて書き記そうと思うのでどうかおつきあい下さい。

<Blue Monkとオケラ号>

1986年夏、池袋『ぺーぱーむーん』という小さなジャズの店で 『多田雄幸』というヨットマンに出会った。当時彼は60歳独身。 「オケラ号」という手造りのヨットで「世界一周単独ヨットレー ス」に9年前出場し優勝してしまった、知る人ぞ知るあの多田雄 幸だ。(詳細は沢木耕太郎著『馬車は走る』、多田雄幸著『オケ ラ号優勝す』をお読み下さい。) 普段は個人タクシーの運転手をやりながら、暇さえあればジャ ズを聴き、好きな時に清水港にある自分のヨットに乗りに行き、 越後訛の独特な喋り方と暖かい人柄でどんどんまわりの人々を魅 きつけ、志ん生と共に小唄を習い、絵を描けば二科展で入賞、 サックスも自己流でパオーっと吹いてしまう、60歳とは思えない ほど元気なおじさん。でも決して無理はしない、自分のペースで 碓実に一歩一歩進んで行く人だった。 もともとジャズ好きで、『真夏の夜のジャズ』というニュー ポートジャズフェスティバルのドキュメント映画を観た時に、大 好きなセロニアス・モンク(p)が『Blue Monk』を弾くシーンと ヨットレースの風景がオーバーラップしたのがきっかけでヨット に惹かれ、初めて造ったヨットに付けた名前はもちろん『Blue Monk』.





「ジャズが大好きでアルトサックスを買ったのに、今までジャズを吹いた事がないんです。難しいですからね。」初めて私がぺーぱーむーんで多田さんと出会った時、ジャズマンに対する憧れ、尊敬を抱いてジャズやヨットとの出会いを熱く語ってくれたを覚えている。ヨットレースの途中、燃料補給で寄港する時も、迎える人たちの前でサックスを吹いてから陸にあがる、その時に吹く曲は『波浮の港』。そんな彼と私達が意気投合するのに時間はかからなかった。気が付くと「今度、ブルーモンクを練習してきますから、私のヨットの上で一緒に演奏しましょう!」「いいですねえ。」酒席で約束を交わし、一週間後には三保の松原を望むオケラ号の上でブルーモンクの共演が実現した。それ以来ヨット、海辺、ぺーぱーむーんで数えきれないくらい演奏し、私たちは楽しい企画をたてては次々に実行して行った。そんなある日、「さっちゃん、俺もう一度、あのヨットレースに挑戦する事にしたから、ニューポートでブルーモンク吹いて見送ってくれませんかねえ。」と言い出した。



『世界一周単独ヨットレース』というのは、4年に一度の 過酷なレース。世界一周するのに約10か月かかる。シングル ハンド(単独)なので万一ヨットから落ちたり、病気になっ ても誰にも助けてもらえない、30隻エントリーしてもその中 で無事に帰ってこれるヨットは半分以下、という命を賭けた 男の闘いだった。 「そのレースはいつ頃なの?」「来年(1990年)の 9月15日。今回は俺自身が設計をして造ります。スポンサー もつくから、8月にNYで合流して遊びましょう!」「いい ね、いいね。」気軽にあいづちをうちながら、私の頭の中に は『マンハッタンライブデビュー計画』がぐるぐると駆け巡っていた。  (つづく)