3月3日は、耳の日でしたね。
その前日だったか、ニュースを見ていたら、ニュージーランドの地震の現場で
警察(?)の記者会見の様子。
その発表をしている人の横で、手話通訳をしているのが映った。
まぁ!
あの国では、そういうの、ふつうなんでしょうか。
また、他の国ではどうなんでしょう。
日本では、よほど大きなイベントや、福祉に理解ある主催者のものでは、手話が付いたりするけれど・・・、
という状況ですよね。
私のような初心者でも、手話があれば、かなり参考になって有り難いです。
きのうのNHKで『きらっといきる』を見ました。
こういった、ろうの方をテーマにしたものは時々ありますが、
難聴をテーマにしたドキュメントやドラマ・映画などは、あまりお目にかかれません。
「ろう」とか「盲」「車椅子」などの方が、分かり易いからなのでしょうかね。
(「全然聴こえないのに、こんなに前向きに挑戦している人もいるのに、なんですか、難聴くらい」
というような視線を感じることがよくあります。)
でも、、と心の中でつぶやいてしまうんです。
それはそうなんでしょうけど、難聴はそれなりに、支障があったり、心が揺れたりするんだけどね…、って。
しゃべるのは普通にしゃべれるので、理解されにくいんです。
そして、全く聴こえないわけじゃないので、状況によって聴こえたり、聴こえなかったり。
コミュニケーション障害。
ほとんど「歯抜け状態」で聞こえて、その「抜けた部分」が、一部だったり、所々だったり、ほとんどだったり。
その抜けた部分は、勘や推測で補ったり。
「難聴」といっても、百人百様、千人いたら千通り…です。
たとえば、私の場合だったら、
女性は、声が高めなので、ゆっくりなら聴き取れることが多いけれど、
男性の特に声が低い人は、ほとんど何も聴き取れない。
完全に静かな和室なら聴き取れても
(建物のつくりによって響きがちがうので)、
喫茶店や電車の中・道路など、ざわざわと雑音や人声がする所は困難。
マスクをしていると、おっかしくなっちゃうくらい、ひと言も聴き取れない。
すごく大きな声で言ってくれちゃったり、補聴器のすぐ近くで言われると、音が割れる感じで、とても聴き取りづらくなる。
etc...
そして、ふだん、気をつけてゆっくり話してくれる人も、話に夢中になってくると、どうしても早口に。
そうなると自分は、なんとなく「必死で聴き取る(汲み取る)モード」に入ってしまうんですね。。
(いつも、グッと集中して、五感フル回転ですが)
そうして、あと疲れて、、でもたいてい、話し出来て良かったナ、とは思うんですが。
日常的に接している人は、「あら、だっていつも聞こえてるじゃない」とか、
「彼女とは、チャンと会話が成り立ってるし、チョット耳とおい程度なんでしょ」
となってしまうようです。
要点など書いてもらったりしますが、書くのって時間がかかるので、
めんどうになる人もいるみたいだし、悪いナ、って思う。
また両手ふさがってたり、手が濡れてたり 作業中で汚れていたりすると、すぐには書けないし。
聴こえづらくて困ったりした経験が重なると、「おそらくまたそうなる」、という場には
特に必要なこと以外なら、足が向かなくなってしまう。
これは、自分の姿勢や性格かもしれないし、「甘い」と言われそうだけど、
現実、自分の活動範囲が狭まってきちゃった。。
イベントなどあっても、聞こえなくて ナニやってるのか分からないことが多く、
盛り上がっても自分は、ボーッとしてると、浮いた存在になっているのを感じたり、
そういうのに参加することで却って寂しくなったり。。
みんなで歌ってても歌えないし、手拍子も苦手、という感じ。
ああ、またこんな話になっちゃってスミマセン。。
でも、聞こえづらい人の、こんな状態や、心がゆれる様を、
だれか、番組や映画などにして表してもらえないでしょうかね。。
そうして、一緒に、
共に考えたり、育っていけたらいいナ。