懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

懐かしい物  竹籠を腰に下げた人

2015年04月20日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県高梁市

国道313号線を走っていた。
広い平野はなく石垣を並べ段々畑や棚田で耕作地を確保している。
お婆さんが腰に竹籠を下げて農作業をしていたので撮らせてもらう。
家庭用の菜園程度の広さである。
歳をとっても動けるうちは作業をするのが健康的であるし生き甲斐にもなる。
家庭菜園でも努力をしはないと上手く作れない。工夫も観察力もひつようだ。
携帯やパソコンをつかえる人ならば何か行動すればブログやフェイスブックに投稿し他人に見てもらえる。

何に使えるか判らないが時代のついた竹籠を腰に下げて作業が消えそうな風景だったので撮影する。たぶんお婆さんが亡くなったら消える風景だったとおもう。
雑草をこまめに抜いているのであろう。ほとんど草が見えない。
畑をする人は草を生やすのは恥じという。草は小さいうちに抜く種を付けると始末が出来なくなるという。





ボクシング

2015年04月19日 | 日記
四月十六日からゴールデンウィークまでボクシングの好カードが続く。
ボクシングの試合を見るのが一番の楽しみである。
しかし、一昨年、内山と金子の試合を見た後に興奮したあまり心筋梗塞を起こし心不全になり一カ月の入院となった。先生からも家内からもスポーツの実況は見ないように言われた。
今は結果を見て録画で見る事にしている。
スポーツを結果を見て録画で見る程つまらないものはないが。

四月五月のボクシングでは山中慎介と内山に期待している。
中山慎介は四月十六日に行われ圧勝でV8を達成
ボクシングはパンチ力の強さを強調されるが相手に打たれない防御力がないと名チャンピオンにはなれない。山中も内山もほとんど相手のパンチをもらわない。全盛期のマイクタイソンもそうであった。どんな選手もパンチをもらえば攻撃力が低下するしリズムがくずれる。
戦艦武蔵や大和の話題の時に日本の海軍は攻撃力ばかり強化したが防御と人命保護が著しく劣っていたと解説していた。

山中の試合を見ていると自分のペースや間合いで試合をしている。
柔道にしても投手とバッターにしても一対一で戦うものは自分の間合いやペースに持ち込む者が勝つ。これを見に付けるのが一番難しい。

山中も内山もアマチュア時代はオリンピックにも出らなかったが30歳前から実力を付けてチャンピオンになって試合ごとに進化している。
こんなに人が成長する要因には何があったのか解説があれば見たい。
二人はともに人間的にもすばらしい。大人である。
謙虚で亀田一家のように大口をたたかない。

辰吉ジュニアーが前座で出たがあれはボクシングでなく喧嘩だ。防御がガラ空き
アマチュアの経験がないので基本ができていないように思った。

岡山の茅葺民家  勝山町の民家

2015年04月19日 | 茅葺き民家
岡山県勝山町(現在は真庭市)

勝山町の山間の集落をひとつひとつ訪れた。
初めて訪れるところはどんな風景に出合うのだろうか、期待が膨らむが何もないことも多い。
三回なにも収穫がなくても四回目で茅葺き民家や古い昭和の風景に出合えばぐっと心が豊かになる。
こんな山間のこじんまりした集落は皆で支え合わないと暮らせない。
人は皆が同じくらいの収入で暮らしをしていれば苦しみにも耐えられる。
しかし情報が溢れ都会の生活と田舎の生活を比較すると惨めになる。都会の人と同じ暮らしをするには収入が必要だ。
田舎暮らしは空気、水が美味しいだけでは引きとめられない。
山間の集落の人口流出に歯止めがかからない。
今、山間地に桜や花やモミジを沢山植え人が減っても人が訪れてくれる田舎作りをしている。
過疎地の遺産を掘り起こし過疎地を歩こうとか過疎地に泊まろうなどの企画をして都会の人に来てもらう事が必要か。

過疎化を食い止めようといろいろ皆で必死に努力しているところと諦めてしまい何もしないところに二分化している。

茅葺き民家 青森県稲垣村の民家 モノクロ

2015年04月18日 | 茅葺き民家
津軽平野の中ある稲垣村、今はつがる市になったのでしょうか
山や丘もなくただ広い津軽平野、高い建物や山がないので平面的な写真になる。
ひとつあるのは岩木川の土手から撮るくらいか
茅葺き民家が点々と残る。
ランドマークがないのと同じような地形が続くので撮影したかどうかわからなくなる。
地図に走ったところは蛍光ペンで塗ればよかったと後悔している。

大きな茅葺き民家も多いが庶民の家は小じんまりしたのが沢山あった。
我々の住むところのように塀で囲む事はしない。
北国ならでは石油タンクが外に設置されている。
家の中までホースがつながっているのであろう。
ポリタンクで買うのでは間に合わない。

集落家々を回り一軒一軒撮影していく地元の人にとっては迷惑な趣味である。






日本茅葺紀行 NO,209 大阪府能勢町の民家

2015年04月17日 | 日本茅葺紀行
大阪府で茅葺き民家が残る旧能勢町は棚田もありいい撮影ポイントがある。
しかし、高速道路から時間が掛かる。
三田から猪名川町を経由して行っていた。中国道の池田インターから行ったら生活道路の片側1車線で車は進まずイライラしました。
三田経由の方が渋滞がなく景色を見ながら気分的にも楽だ。
こんな小屋があった。もう取り壊されたがこんなのが味があり面白い。
学校帰りの女の子が3人帰っていたので撮影させてもらう。
小学校はみんな私服で通うのだ。
最近は子供を撮影するのも厳しくなった。人自体が安易に撮れない。
へんなオジサンという目でみられるのが怖い。十分変なオジサンだが

蒸気機関車 アッ 変則三重連だ

2015年04月16日 | 蒸気機関車
撮影場所 室蘭本線栗丘

室蘭本線はほとんどが直線的に線路が走っている。
かっては原野だった土地に線路を敷設したので直線区間が多いのだろう。
それでもアップダウンはある。鉄道で50メートルの高低差は厳しい
栗丘付近には小さな山越えがある。
貨物列車が長いので補機が付く。上り線と下り線が百メートル位い離れたところで撮っていたていた。最後部にD51形蒸気機関車が二台ついてきた。変則三重連があったのか知らなかった。
全体を撮れる場所で撮るべきだったかと思ったが直線ては先頭車と補機を入れるのは難しい。
夏場に初めて北海道で蒸気機関車を撮影した。

変則三重連を撮影するのは最初で最後となった。
北海道の原野にはタラの芽の木が沢山あった。
ここならば好きなだけタラの芽が食べられるのにと思った。

先頭車



補機

岡山の茅葺民家  大原町の民家 モノクロ

2015年04月15日 | 茅葺き民家
撮影場所 岡山県大原町

東粟倉村に向かうのに国道429号を走る。
国道429号線は倉敷がら兵庫県の宍粟市を走り国道29号線まで岡山県を斜めに走る。
しかし四百番台だけに国道といいながら地方道レベルの道もあるし見失う事もあった。
勝田町から大原町も見失うような国道だった。
茅葺き民家探訪の旅は見失うような道を走る旅でもある。
行く目的地のない気ままなドライブでもある。
家内といえどもこんな旅ばかり続けると機嫌が悪くなる。
こんなドライブは一人で行くに限る。
そんな国道としての威厳のない道を走っていたら茅葺き民家があった。
煙草や切手だけ売っている。昔は販売の権利を取るのが許可制で難しかった。
民家もまばらでどれほどの売上があるかわからない。
撮影の挨拶に行ったらおばちゃんが話す事が山ほどあったのか私の側をはなれない。
どんな話しをしたかは忘れた。話しを聞いていると一時間にもなるので早く話しを切り上げる糸口を模索していたのであろう相手の話しをきいていない。




茅葺き民家 三重県阿山町の民家 モノクロ

2015年04月14日 | 茅葺き民家
三重県阿山町(現在は伊賀市)
少し走れば滋賀県の信楽だ。
背に田があれ太陽が一日当たるところに民家があった。
平らな土地で日当たりはよくいい条件の土地だ。
暖かそうな家だ。民家の屋根の茅の乾燥具合やコケの生え具合を見ると日照時間や風通しの良し悪しが想像できる。
南に山の斜面のある家は寒さも厳しいし日照も少なく茅葺きの持ちも違う。
昔の家は日照時間やがけ崩れのリスクも言っておれなかった。
三男、四男にもなると斜面を平らにして家を建てざるを得なかった。
広島市の土砂災害で今後の建築許可は厳しくなるかもしれない。
茅葺き民家を求めて各地に行くと民家のあるところは条件のいいところばかりではなくむしろ厳しいところが多い。




日本茅葺紀行 NO,208  新潟県松之山の民家

2015年04月13日 | 日本茅葺紀行
上越市から松之山町を目指し安塚町、大島村むを抜けて松之山まで走る。
新潟県に撮影にくるのは初めてだった。
新潟になると3日くらいの行程でないと行き帰りに時間を取られる撮影時間が確保できない。
安塚や大島村にも茅葺き民家はかろうじて残っていた。
豪雪地帯なので家が高く外壁は板張りである。
ほとんどが中門造りである。
温暖な地域では見掛けない民家である。

度々訪れる事は出来ないので5年後、8年後に訪れると随分減っていた。
茅葺き民家は思い立つ時に行ってないと悔いを残す。1年1年が勝負である。
私の場合は家内の都合もあるので撮影に行くのは随分減った。
田麦立の民家と天水越で見た倉庫、4年前に再訪した時は民家はトタンを掛けたり撤去されていた。





懐かしい物  ブルトレあかつき

2015年04月11日 | 懐かしい物
大阪駅を発車するブルトレあかつき
あかつきは長崎と京都を走行していたと書いてある。
まだEF58形の電気機関車が牽引していた。
EF58がEF65に交代したのが1979年3月と書いてある。

昭和50年代に大阪で鉄道切符の大会があり鉄道友の会メンバーと一泊して参加した。
早朝に大阪駅にきてブルトレを撮ったようにおもう。
その頃は記念切符は人気があった。硬券が盆回し(箱に切符を入れて参加者全員に回す、値段と氏名を書いて箱にいれる。一番高い値段の人が落札)に出てくること少なかったように思う。
岡山の鉄道友の会に入っていたら国鉄に勤めている人がいて段ボールに一杯焼却処分する硬券を持ってきてくれた。メンバーは6名しかいない、硬券を集めている人がいなくて3人が
取れるだけ鷲掴みにしカバンに入れた。パンチの入った切符の挟みのを集めたり地図の入っている切符をあつめる人はいた。国鉄に勤めていたNさんからいろいろ貰ってよくしてもらった。

私の蒸気機関車の写真展に鉄道友の会の人がいたのでNさんの事を聞いた。
高齢になったが元気に地域の老人クラブでハイキングを主催している。鉄道趣味はきっぱりやめたと言っていた。切符など鉄道の資料は膨大に持っていたとおものに

余談だが横浜の中学校校長が12660人を買春して写真を15万撮っていた件は学校長がこんな行為をしたことも驚きだが数がギネスものである。
これから妻、子供、兄弟も社会的制裁を受けるとおもう。
12660人、15万枚の数は凄い、自分は趣味でこれだけ撮影しているか
自分の趣味で機関車は何台撮影したか、鉄道写真は何枚撮ったか
茅葺き民家は何軒撮りましか、何枚撮影しましたかといわれているよな数に驚きだ。
それも符番して整理していたと書いてある。