懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

古い町並み 倉敷市玉島

2013年05月05日 | 古い町並み
撮影場所 倉敷市玉島

玉島には本瓦葺き、ナマコ壁や板塀の民家が残っている。
明治、大正時代の日本の家屋は黒い瓦と白い漆喰の壁、黒ずんだ板のモノトーンの色彩であったと思う。ベンガラの赤を使うのが贅沢であったと思われる。
戦後進駐軍が日本家屋に住み板に色彩豊かに塗装をしたと聞く。
寺院にしても中国のようにケバケバシイ色彩では飾らない。
あんなケバケバシイ色彩の建物は怪しい人たちが住んでいる。何か洗脳されそうと思う。
しかし、現在の日本の町並みは色彩豊か。無秩序色が色が溢れている。
私はモノトーンの家屋が懐かしいし落ち着く。






古い町並み 瓦屋根

2013年04月25日 | 古い町並み
撮影場所  岡山県倉敷市下津井

日本瓦葺きの屋根が少なくなった。保存地域だけになってしまった。
先日の読売新聞に瓦の製造は最盛期の二割に落ち込んだという記事が載っていた。
これはセメント瓦も含めての事で日本瓦に至っては製造は限られているであろう。

瓦屋根がここまで落ち込んだのは阪神淡路大震災での被害であろう。
住宅メーカーはここぞとばかりに在来工法の欠点と瓦屋根の脆弱さを宣伝に利用した。
阪神淡路大震災は直下型地震で浅い部分で起きたので揺れの強さ加速度(単位ガル)も1000ガルにも達した。瓦葺に限らず鉄筋コンクリート施設も随分被害を受けた。
新築間もないマンションも住めなくなった家も多い。トタン屋根やスレートの民家も倒壊している。
加速度が1000ガルに耐える建造物は少ない。
原子力発電所は特に強固に作られているがそれでも600ガルに耐えるよう設計されている。コンビナートなどの工場でも250ガル程度である。
阪神淡路大震災の場合は瓦屋根に古い民家が多く倒壊するのが眼についた。
住宅メーカーの住宅も造成地が崩落して倒壊したのもあったがこんなのは全く口にしない。

昨年、古い町並み写真展をやった時に掲示の写真はどこで撮影したのかと聞いて来た人がいる。瓦屋根の写真を撮っているので瓦屋根のあるところを教えてほしいという。
83歳になるが健康そのものどんな高いところへでも登れるという。
歩くこともできない私は恥ずかしい限りである。
83歳になっても何かにチャレンジするのが健康で生きがいになっているのか
しかし、瓦屋根を撮影テーマにするには30年遅かったように思う。
私も瓦屋根をテーマに撮影したわけでもないので偉そうなことは言えないが
83歳の男性も瓦屋根ばかり何百ケ所も撮影していい作品を作るかもしれない。
何歳になっても何か夢中になれる対象物を探す事であろう。

古い町並み 民家は痛んだのが味がある。

2013年04月17日 | 古い町並み
撮影場所 倉敷市茶屋町(倉敷の東部、昔ながらの町並みが残っていた)
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「肉は腐りかけが旨く、民家は痛みかけたのが味がある」などと好き勝手な事をいっている。自分は住みもしないのに他人の家をこんなにいうのは無責任極まりない。

肉は腐りかけが旨いというが本当に腐りかけた物は食中毒をするだけだと思う。
ここでいう腐りかけたはした牛は死後硬直して肉が硬い、時間が経過してたんぱく質が分解しアミノ酸にかわる頃が柔らかくて旨みが出てくるという意味だろう。
冷蔵庫で10日くらい熟成させた時が旨いという意味であろうと思う。
若い頃、素潜りでサザエやアワビをよく獲りに行った。
獲って帰り生きているアワビの刺身を食べるがちっとも美味しくない。死んで硬直が解けて柔らかくなったものは旨みもでて美味しい。
魚の刺身は新鮮でないと柔らかくては美味しくないが肉屋や貝は柔らかく熟成したものが美味しい。

民家も痛みかけた物は耐え抜いて来た時間の長さを感じるとともにこの家もかっては美しく華やかな時があったと思うと郷愁を感じる。
家を建てた人、住んで維持管理した人、補修した人がいて今に残っている。








古い町並み  倉敷市連島西ノ浦 その2

2013年04月13日 | 古い町並み
撮影場所 倉敷市連島西ノ浦

倉敷市の南部の大平山の南麓に長く東西に続く町並み
昔ながらの本瓦葺きの民家が残る。
大きな屋敷を持つ民家残る。
昔ながらの八百屋や醤油工場のレンガ煙突、商店を投稿します。
狭い裏通りのため地元の人から通らず昭和の風景が残っている。









古い町並み  岡山市妹尾

2013年04月10日 | 古い町並み
撮影場所 岡山市妹尾(せのう)

岡山市妹尾に少し古い町並みが残っている。
駅周辺は道は狭く再開発が難しい。
今も道は狭く車で入ると行き止まりもありびくびくする。
郊外に出れば土地は広いので商業地や宅地は新しく開発された。
そんな狭い町の中に糀屋(こうじや)があった。
これを撮ったのは昭和49年、今もこれとほとんど変わらない姿で残っていると思う。10年ほど前にみた。
糀の看板は掛けたままだった。
昔は糀も味噌作りや甘酒作りに欠かせなかったが現在も需要はあるのであろうか
現在と昭和の違うところは荷物用の太いタイヤの自転車であろうか
これは昭和の風景である。

妹尾の地名は平安時代の末期の平家の武将、妹尾兼康に由来すると言われている。
1180年代に干拓地だったこの地に用水を引いたといわれている。
余談だが苗字の妹尾といえば先祖が岡山出身者が多い。妹尾は岡山の苗字ひとつでもある。「せのう」と読めない人は少ないようだ。
苗字は地域性があり古賀といえば福岡県南部の大川市や柳川市に多く石を投げれば古賀に当たると言われている。
作曲家の古賀政男や柔道の古賀も福岡県の出身である。

古い町並み 倉敷市天城

2013年03月03日 | 古い町並み
撮影場所 岡山県倉敷市天城

倉敷市天城には下津井電鉄が走っていた昭和に電車に乗り訪れ古い町並みを撮影している。
天城は自宅から車で10分も掛からない場所、しかし、なかなか訪れないものだ。
カメラを持ちぶらっと訪れた。
今でも少しは板塀やナマコ壁、古い蔵が見られる。
昔ながらの古い家並みは落ち着くものだ。
軒先に龍吐水(手押しの消火ポンプ)を吊るしてある民家があったので撮影。
撮影の帰りに藤戸まんじゆうを買って帰る。





古い町並み  岡山県玉野市八浜

2013年02月27日 | 古い町並み
撮影場所 岡山県玉野市八浜

玉野市八浜は味わいのある町である。板張りの家やナマコ壁、格子に本瓦、時代の変化がないまま生きている。
何度に分けて八浜を投稿します。
何の手を加えず昔のままの集落であえばうれしい。
町並みの評価で一番は手を加えていない建物が残されているか、古い町並みで人々の生活が残っているかであろう。

町並みは手を加えてリニューアルし観光客を呼ぶ町並みにするか潰され新しい現代の建物に建て替えるのいずれである。
維持が出来なくなったら壊すので自然であろう。
保存すべきだとかうるさいは第三者の他人である。金は出さずに口はだす。この財政難に行政が保存せよという。
壊されなくなる前に撮影するか、甘んじてリニューアルされた町並みを撮影しかない。
私はリニューアルされた町並みは撮影しない。あと何年生きられるか分からない。
後世に必要とされない映像を残してもゴミを残すだけである。
本人は苦労して撮影しても家族はそんなもの残されても荷物が溜まるだけ(家族は評価しないと思った方がよい)、一年くらいは置いてくれるが三周忌にはゴミとして処分されるだろうと思っている。
NHKスペシャルの「漂流老人」を見て人間死んだら何もかも思いでまでもゴミとして処分されるのだ。
身体の動かない私も同じ境遇になるのだろうと思い番組を見ていた。

デジカメ時代こそ写真も断捨離が必要かもしれない。









古い町並み 岡山県長船町福岡

2013年02月15日 | 古い町並み
撮影場所 岡山県長船町福岡(現在は瀬戸内市)

長船町福岡は吉井川の堤防から一キロ程東にある。国道や県道から離れたところに昔ながらの町並みが残る。
かって山陽道一番の宿場と福岡市と呼ばれる市場で栄えたといわれている。吉井川の水運にも恵まれて栄えた時期が長く続いた。現在は交通機関から外れ田舎の集落の暮らしとなった。今も本瓦葺民家や寺院がその面影を残している。
「一遍上人絵伝」にも福岡の町のにぎわいが描かれているそうである。

Wikipediaによると備前長船に代表される刀鍛冶が福岡にいたが宇喜多直家の岡山城下建設で職人が岡山に移住させられた。吉井川の氾濫もありしだいに衰退していった。
吉井川の中州に福岡城が築かれ後に近江の国から黒田高政が居住する。黒田家の子孫、黒田長政が筑前国に封じられる際の本拠地を黒田氏ゆかりの備前福岡の名をとって福岡城としたとある。それが後の福岡県の由来になったと書いてある。

人々の生きてきた土地にはどんなところにも戦いの歴史や土木建築の歴史、人々の生活の歴史が残されているものだ。現代の私どもは何も過去になかったように暮らしているが










古い町並み 岡山県寄島町大浦

2013年02月07日 | 古い町並み
撮影場所 岡山県寄島町大浦(現在は浅口市)

寄島町の旧道沿いには古い町並みが残る。
かって寄島町は土地が狭く海岸沿いに集落があった。昭和53年に沖の三郎島まで埋め立てられ広くなった。牡蠣の直売所のあたりは海で合わせて埋め立てられ拡幅された。

大浦地区は牡蠣の直売所より1km程西で大浦神社が有名だ。
競馬神事が行われる事で有名だそうだ。
大浦神社の境内は馬を走らせるためにアスファルトにはせず土のままだ。
鎌倉の鶴岡八幡宮は流鏑馬で有名だ。馬が走る境内の道には石畳やアスファルトのため土を30センチ程入れて馬が脚を痛めないようにしている。小型ダンプで土を入れ地ならしをしていた。行事が終わればその土を片付けるのであろう。

その大浦神社の前を東西に走る細い道沿いが旧道であろう、そこに古い日本民家か残っている。古い家もあるが昭和期の日本家屋が残っている。
この旧道の数十メートル先は海であったのだろう。








古い町並み  倉敷市連島西ノ浦 その1

2013年01月22日 | 古い町並み
撮影場所 倉敷市連島西ノ浦

私は水島の工場に勤めながら連島西ノ浦に古い町並みがあるのは知らなかった。
連島公民館でのカルチャー講座に通っていた。始業までに時間があったので附近を散歩していて古い町並みに気付いた。
しかし、その時は写真撮影に興味がなく、カメラを持って撮影に来たのは平成になってからである。三回程訪れたであろう。
昭和40年代の風景とは人々の服装も違っていたし散歩させる犬の種類も洋犬に変わっていた。
撮影したからと言って何に使う目的もななかった。平成の自分の目で撮影して見るのも面白いかと思った。それと昭和40年台との大きな違いはカメラのレンズがズームレンズになり狭い場所でも撮影できる事であった。昭和40年代は標準レンズだけで撮影してきたので撮影できるものが限られていた。

連島西ノ浦は連島の山際を理箆取神社を中心に東西1キロくらい町並みが続く、道は直線的でなく何度も曲がって続いている。かって綿花で栄え大きな屋敷の家が今も残っている。

千年も昔、岡山南部はほとんどが海で児島、連島も島であったようだ。洪積と新田開発で田地化された。
倉敷の阿智神社や葦高神社、箆取神社は船の航行を守る灯篭があり海の神様となっている。
連島一帯は三宅水軍の一族が住みついたといわれている。
瀬戸内海には村上水軍や塩飽水軍と遠い昔は海賊まがいの事をやり戦の時は水軍として活躍した一族がいる。
連島一帯は今も三宅姓が多く、石を投げれば三宅に当たると土地ではいわれている。
地元の小学校では三宅姓がひとクラスに五、六人はいるそうだ。
三宅の姓の元は屯倉に由来すると言われている。
屯倉(みやけ)は朝廷の直轄地を指し屯家、御家、三宅、三家に変化していったと言われている。