2019年刊行の本『手塚マンガでエコロジー入門』(マンガ+エッセイ 手塚治虫)を読みました。
まず、野上暁さんによる「解題」の一部を転載させていただくと、
敗戦後の荒廃から立ち直った日本は、高度経済成長下での環境汚染が各種の公害を引き起こし、公害反対運動が各地で起こります。そして、経済成長よりも環境が大切だという意識が1970年前後から急速に拡がります。地球環境に関する危機意識は日本だけではなく、国際連合は1972年に人間と環境に関する初めての国際会議をストックホルムで開き、環境問題を地球規模で考えることの必要性を確認するのです。しかし日本では、1972年に誕生した田中角栄内閣の列島改造計画により、各地での自然破壊や環境破壊がさらに進行していきました。この本に収められた作品は、「鉄腕アトム ミドロが沼の巻」をのぞき、すべて1970年代の後半に発表されたものばかりです。
ぼくは1967年の四月に小学館に入社し「小学一年生」編集部に配属されて、10月から手塚先生の担当になります。当時、先生は練馬区富士見台にあった自宅兼仕事場で執筆していましたが、通りを隔ててすぐ前のアニメスタジオと行ったり来たりしながら、いつ寝ているのかわからないような忙しさで、マンガとアニメ制作の両方を精力的にこなしていました。
63年に日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」を大ヒットさせ、65年には初めてのカラーによるテレビアニメ「ジャングル大帝」を放映し、66年には虫プロ商事を立ち上げます。67年にアニメ「展覧会の絵」で芸術祭奨励賞、毎日映画コンクール大藤信郎賞、ブルーリボン教育文化映画賞、アジア映画祭特別部門賞を受賞。この年、虫プロ商事から月刊誌「COM」を創刊。68年には手塚プロダクションを設立。69年には、劇場用アニメの「千夜一夜物語」も公開。70年の大阪万博ではフジパン・ロボット館のプロデューサーも務め、先生は30代の後半で最も充実していた時期でもありました。
しかし、「COM」は思うように売れず、虫プロ商事も赤字がかさみ、アニメ制作会社の虫プロダクションも500人を超えるスタッフを抱えて経営的なピンチに襲われます。そして、73年8月に虫プロ商事が、11月には虫プロダクションが倒産するという、たいへんな危機に陥るのです。その過程での人間不信もあったのでしょう。広大な宇宙のなかでの、ちっぽけな人間。その人間が、自分だけの利益を求めて他人を踏み台にする。それは経済優先で自然を破壊していく大量生産大量消費の経済システムの在り方への疑念にもつながります。
昆虫少年で医学博士でもあった手塚治虫は、失われていく自然や環境破壊に対しては、早い時期から危惧感を抱いていました。「鉄腕アトム」の初期の作品「赤いネコの巻」(1953年)は、まだ自然環境などにほとんど関心のなかった時代に描かれた、環境破壊をテーマにした先駆的作品でもありました。核の危険性についても、「太平洋Xポイント」(1953年)や「大洪水時代」(1955年)など、早い時期から作品化しています。その手塚治虫が、70年代後半から意欲的にエコロジカルな作品を発表するのは、このような時代的背景があったのです。
この本では、手塚が生前に発表したエコロジーに関わるたくさんの作品の中から八点を紹介し、それぞれの作品末には、次世代に伝えようと亡くなる直前まで書き続けた未完のエッセイ集『二十一世紀の君たちへ ガラスの地球を救え』(1989年 光文社)から採録した文章を掲載しています。私たちが暮らしている地球という星は、ガラスのように壊れやすく、戦争や環境破壊で危なくなっている地球を救うのは、未来の子どもたちだと、子どもたちに向けて書き始めたのですが、最後まで書けずに亡くなってしまいました。
「自然がぼくにマンガを描かせた」では、マンガ家・手塚治虫の誕生の背景にある豊かな自然の記憶と、自然に根ざした生命の尊厳を常にテーマにしてきたと語り、「生命のないところに未来はない」と述べています。「地球は今、息も絶え絶えの星になってしまいました。いったい、いつの間にこんな事態に陥ってしまったのでしょうか。人類はどこかで針路を誤ったのでしょう」という最後の言葉は痛烈です。つまりこれからのエッセイのそれぞれは、手塚治虫が子どもたちに伝えたかった遺言ともいえる貴重なメッセージなのです。手塚マンガはエコロジーについてさまざまな角度から考える最適な教材でもありますが、ここに掲載されたエッセイと一緒に読むと、手塚治虫が生涯をかけて読者に伝えようとしたメッセージの重みがしっかりと伝わってきます。
(明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
→FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135)
まず、野上暁さんによる「解題」の一部を転載させていただくと、
敗戦後の荒廃から立ち直った日本は、高度経済成長下での環境汚染が各種の公害を引き起こし、公害反対運動が各地で起こります。そして、経済成長よりも環境が大切だという意識が1970年前後から急速に拡がります。地球環境に関する危機意識は日本だけではなく、国際連合は1972年に人間と環境に関する初めての国際会議をストックホルムで開き、環境問題を地球規模で考えることの必要性を確認するのです。しかし日本では、1972年に誕生した田中角栄内閣の列島改造計画により、各地での自然破壊や環境破壊がさらに進行していきました。この本に収められた作品は、「鉄腕アトム ミドロが沼の巻」をのぞき、すべて1970年代の後半に発表されたものばかりです。
ぼくは1967年の四月に小学館に入社し「小学一年生」編集部に配属されて、10月から手塚先生の担当になります。当時、先生は練馬区富士見台にあった自宅兼仕事場で執筆していましたが、通りを隔ててすぐ前のアニメスタジオと行ったり来たりしながら、いつ寝ているのかわからないような忙しさで、マンガとアニメ制作の両方を精力的にこなしていました。
63年に日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」を大ヒットさせ、65年には初めてのカラーによるテレビアニメ「ジャングル大帝」を放映し、66年には虫プロ商事を立ち上げます。67年にアニメ「展覧会の絵」で芸術祭奨励賞、毎日映画コンクール大藤信郎賞、ブルーリボン教育文化映画賞、アジア映画祭特別部門賞を受賞。この年、虫プロ商事から月刊誌「COM」を創刊。68年には手塚プロダクションを設立。69年には、劇場用アニメの「千夜一夜物語」も公開。70年の大阪万博ではフジパン・ロボット館のプロデューサーも務め、先生は30代の後半で最も充実していた時期でもありました。
しかし、「COM」は思うように売れず、虫プロ商事も赤字がかさみ、アニメ制作会社の虫プロダクションも500人を超えるスタッフを抱えて経営的なピンチに襲われます。そして、73年8月に虫プロ商事が、11月には虫プロダクションが倒産するという、たいへんな危機に陥るのです。その過程での人間不信もあったのでしょう。広大な宇宙のなかでの、ちっぽけな人間。その人間が、自分だけの利益を求めて他人を踏み台にする。それは経済優先で自然を破壊していく大量生産大量消費の経済システムの在り方への疑念にもつながります。
昆虫少年で医学博士でもあった手塚治虫は、失われていく自然や環境破壊に対しては、早い時期から危惧感を抱いていました。「鉄腕アトム」の初期の作品「赤いネコの巻」(1953年)は、まだ自然環境などにほとんど関心のなかった時代に描かれた、環境破壊をテーマにした先駆的作品でもありました。核の危険性についても、「太平洋Xポイント」(1953年)や「大洪水時代」(1955年)など、早い時期から作品化しています。その手塚治虫が、70年代後半から意欲的にエコロジカルな作品を発表するのは、このような時代的背景があったのです。
この本では、手塚が生前に発表したエコロジーに関わるたくさんの作品の中から八点を紹介し、それぞれの作品末には、次世代に伝えようと亡くなる直前まで書き続けた未完のエッセイ集『二十一世紀の君たちへ ガラスの地球を救え』(1989年 光文社)から採録した文章を掲載しています。私たちが暮らしている地球という星は、ガラスのように壊れやすく、戦争や環境破壊で危なくなっている地球を救うのは、未来の子どもたちだと、子どもたちに向けて書き始めたのですが、最後まで書けずに亡くなってしまいました。
「自然がぼくにマンガを描かせた」では、マンガ家・手塚治虫の誕生の背景にある豊かな自然の記憶と、自然に根ざした生命の尊厳を常にテーマにしてきたと語り、「生命のないところに未来はない」と述べています。「地球は今、息も絶え絶えの星になってしまいました。いったい、いつの間にこんな事態に陥ってしまったのでしょうか。人類はどこかで針路を誤ったのでしょう」という最後の言葉は痛烈です。つまりこれからのエッセイのそれぞれは、手塚治虫が子どもたちに伝えたかった遺言ともいえる貴重なメッセージなのです。手塚マンガはエコロジーについてさまざまな角度から考える最適な教材でもありますが、ここに掲載されたエッセイと一緒に読むと、手塚治虫が生涯をかけて読者に伝えようとしたメッセージの重みがしっかりと伝わってきます。
(明日へ続きます……)
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