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川上未映子『夏物語』その10

2020-05-08 00:53:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

どう考えても、自分の世界観や気持ちを話しているだけの人にむかって、突っこみというか自分がどう考えているかを言う必要なんかまったくなかったし、そのことについてはやめておけばよかったと後悔はしたけれど、でも間違ったことを言ったつもりはなかったし、今になっても、あの女性の言ったことにわたしは憤りを隠せなかった。(中略)会場から出てエレベーターを待っていると、人の気配がした。逢沢潤だった。(中略)
「今日、はじめて参加したんですけど」
「さっき、最後にお話ししてくださった」(中略)
「AIDを、やろうと思ってるんです」とわたしは言った。(中略)
「うまくいくといいですね」
 そう言うと逢沢さんは歩きだし、ひとつめの角を曲がると消えていった。

 十二月の澄んだ空気のなかを、わたしは駅にむかって歩いた。時計を見ると三時半を少しまわったところだった。(中略)
 問題は、とわたしは思った。嘘をついて騙すことなどなんでもないか。仮に、わたしがヴィルコメンで「非匿名のドナー」を選べば、将来、子どもが希望すればコンタクトをとることだって基本的には可能なのだ。(中略)
 電車を乗り継いで三軒茶屋に着くと、駅前には一ヶ月まえくらいからとりつけられていた電飾が変わらず点滅しているだけで、こちらはあまりクリスマスという感じはしなかった。(中略)いきなり画面が電話の着信に変わった。大きな文字で「紺野りえ」と表示され、わたしはびっくりした拍子に思わず着信を受けてしまった。
「もしもし? 夏目さん? 紺野ですー」(中略)
「そうそう来月わたし行っちゃうからさ。じつは渡したいものがあったんだよね、大したものじゃないんだけど、夏目さんにね」
「渡したいもの? わたしに?」
「そうなの」紺野さんは言った。(中略)
「っていうか、ひょっとして夏目さん、ダメもとで訊くけど今日このあとって時間あったりする?」(中略)
「いけるよ、わたしはいまから家帰るだけやったから」
「ほんとに?」紺野さんは大きな声を出した。「うそじゃあご飯食べようよ」(中略)

(中略)
「なんで引っ越すことになったん」(中略)
「旦那の実家なんだよね」紺野さんは言った。「うつになっちゃってさ。仕事つづけられなくなって、それで帰ることになったの」(中略)
「━━渡したいものって言ってたの、これ」
 紺野さんの手には、銀色の鋏(はさみ)がにぎられていた。
「これ、もう覚えてないかもだけど、もう何年まえだっけ、一緒に働いてたときだからかなりまえだけど、これ見てね、夏目さん、すごく素敵だって言ってくれたんだよね」
「覚えてる」わたしは言った。(中略)「何回か夏目さんがいいねって言ってくれたの覚えてて。夏目さんに使ってほしいなって」(中略)

13 複雑な命令
 正月は、ふだんといっさい変わりなく過ぎていった。2017年。巻子と緑子とラインで新年の挨拶のやりとりをしたほかは、年賀状が四枚届いたきりだった。(中略)
 休みが終わって平日になると、仙川涼子から電話がかかってきた。小説の話かもしれないと思って肩に少し力が入ったけれど、仙川さんは小説の話はせず、明日用事があって三茶まで行くので夕食でもどうかと誘ってくれた。(中略)
 遊佐とも何度か電話でしゃべった。(中略)

(中略)
 仕事のあいまに、夜眠るまえに、わたしは逢沢潤の語ったインタビューをくりかえし読むようになっていた。(中略)自分の出自が不明な人はAIDに限らずたくさんいるけれど、その状況との違いはどこにあるのか━━いろいろなことが浮かんでは消えたけれど、どの質問が当事者への質問としてどれくらい妥当で、どの質問がすべきでない質問なのか、考えれば考えるほどわからなくなっていった。けれど、結局わたしはシンポジウムに行ってみることにした。

(中略)逢沢さんが話しかけてきた。
「来られたんですね、もう帰られるんですか」(中略)
「お医者さんなんですか」
「はい」逢沢さんは言った。「とはいっても、決まった勤務先はないんですけど」(中略)ひとりの女性が目についた。わたしたちは軽く会釈をしあった。
「こちらは夏目さん。このあいだ━━といっても去年になるのか、自由が丘の会にも来てくださって」(中略)「彼女は善(ぜん)さんといって━━彼女も僕と同じ当事者で、おなじ会で活動している仲間というか、メンバーです」(中略)
「メールは」とわたしは言った。「あの先月いただいたお名刺に、メールアドレスがあったんですけど、質問とかはそっちに」
「はい、そこで」そう言うと逢沢さんは歩いていった。(中略)

 二月は暖かな日がつづいた。(中略)
 逢沢さんとも何度かメールのやりとりをした。(中略)

(また明日へ続きます……)

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