また昨日の続きです。
「おばあちゃんは、なんて」(中略)
「(中略)祖母は何があってもこのことを他言するなと母に念押しして、(中略)父と母は言われるままに大学病院に一年ほど通って、妊娠した。そのあと地元の産院に切り替えて、祖母は母親のじっさいに膨らんだお腹を見せつけるように近所や親戚の家を連れまわした。そうです。そんなふうに数ヶ月を過ごして、母は僕を出産しました。(中略)」
「僕が驚いたのは」(中略)「治療を受けることになった経緯を淡々と説明したあとに、母親がこの話はもういいだろう、みたいに、すごく面倒臭そうな顔をしたんです。(中略)」
「それで……そのあと、お母さんはどうしたの」わたしは訊いてみた。「無事に東京にいられたのか」
「いえ」(中略)「けっきょく自分から栃木へ戻りました」
「それは」わたしは驚いて声を出した。
「どういうやりとりがあったのか、(中略)」やっぱりわたしは家に戻ってすべてを見届けると言いだして」
「はあ」
「『苦労は最後までして苦労だから』と言って。それでいまは栃木です」(中略)
14 勇気をだして
善百合子は1980年に東京で生まれ、自分がAIDで誕生したことを二十五歳のときに知った。(中略)
十二歳のときに両親が正式に離婚することになり、母親に引き取られたあと父親には一度も会うことはなかったが、二十五歳のときに長いあいだ癌を患っていた父親が危篤状態であることを知らされる。何も知らない父方の親戚が「お父さんとあなたのお母さんは他人だけれど、あなたは血のつながったたったひとりの娘なんだから、最期は会いにいってあげて」と連絡をよこした。善百合子は会いにいく気持ちは毛頭なかったが、そうした連絡があったことを母親には(中略)いちおう伝えることにした。すると母親は、何も気にすることはない、だってあの男はわたしたちのどちらにも関係がない人間なのだからと鼻で笑ってみせたのだった。わたしは子どもが欲しいと思ったことはなかったけれど、自分に種がないことを知った“あれ”が取り乱し、自分が種なしであることがぜったいに知られないように、誰にもわからないように“その証拠として”子どもを作れと言ったのだ。そして病院でもらった精子で妊娠した。だから父親は誰かはわからない。(中略)
三月が終わろうとしていた。あれからわたしと逢沢さんは頻繁にメールをやりとりするようになり、先週の土曜日には居酒屋で食事をして、ビールを飲んだ。(中略)
「子どもが欲しいというのは」逢沢さんが訊いた。「子どもを育てたいということ? それとも産みたいということなんだろうか。それとも、妊娠したいということなんだろうか」
「わたしはそれについては、できるだけ考えてみたつもりなんですけど」わたしは言った。「その全部が入った『会いたい』っていう気持ちかもしれません」
「会いたい」
逢沢さんは慎重にわたしの言葉をくりかえした。(中略)
逢沢さんとメールやラインでやりとりをしたり、ときどき会っていろんな話をすることは、わたしにとって大切なことになっていった。(中略)
わたしは逢沢さんのことを好きになっていたのだと思う。(中略)どうすることが逢沢さんのその不安を和らげることになるのかはわからなかったけれど、わたしは少しでも逢沢さんの力になりたいと思うようになっていた。(中略)
逢沢さんからのメールやラインは嬉しかったけれど、やりとりをしたあとはするまえより、いつも少しだけ淋しくなった。小説は完全に頓挫(とんざ)していた。(中略)
恩田という男からメールが届いていることに気がついたのは、そんな四月の終わり頃だった。
〈はじめまして。恩田と申します。このたびは精子提供についてお問い合わせをいただき、ありがとうございました。返信を差し上げましたが、その後、お返事がいただけなかったので、再度ご連絡を差しあげる次第です〉とその男は書いていた。(中略)
その男は━━恩田は年末に一度と、二月の終わりの二度、メールを送ってきていた。ふたつのメールの内容は重なるところが多かったけれど、そのままをコピーしたものではなく、人がきちんとそれなりの時間をかけて書いた文章という印象を与える文面だった。(中略)
わたしはそれを三度、念入りに読み返した。(中略)わたし宛に送られてきたメールであることは自明なのに、わたしはなぜかこのメールが“ほかの誰でもないこのわたしに送られてきた”ように感じてしまい、わたしはそのことに驚いていた。(中略)
そこから数日のあいだ、わたしは恩田という男に会ってみることを想像してみた。頭に浮かべてみるのは恩田の容貌や雰囲気といったものではなく、待ちあわせをしている場面や会話だったりしたけれど、それは必ず「わたしはわたしで」という言葉と一緒になってやってきた。(中略)
(また明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
→FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135)
「おばあちゃんは、なんて」(中略)
「(中略)祖母は何があってもこのことを他言するなと母に念押しして、(中略)父と母は言われるままに大学病院に一年ほど通って、妊娠した。そのあと地元の産院に切り替えて、祖母は母親のじっさいに膨らんだお腹を見せつけるように近所や親戚の家を連れまわした。そうです。そんなふうに数ヶ月を過ごして、母は僕を出産しました。(中略)」
「僕が驚いたのは」(中略)「治療を受けることになった経緯を淡々と説明したあとに、母親がこの話はもういいだろう、みたいに、すごく面倒臭そうな顔をしたんです。(中略)」
「それで……そのあと、お母さんはどうしたの」わたしは訊いてみた。「無事に東京にいられたのか」
「いえ」(中略)「けっきょく自分から栃木へ戻りました」
「それは」わたしは驚いて声を出した。
「どういうやりとりがあったのか、(中略)」やっぱりわたしは家に戻ってすべてを見届けると言いだして」
「はあ」
「『苦労は最後までして苦労だから』と言って。それでいまは栃木です」(中略)
14 勇気をだして
善百合子は1980年に東京で生まれ、自分がAIDで誕生したことを二十五歳のときに知った。(中略)
十二歳のときに両親が正式に離婚することになり、母親に引き取られたあと父親には一度も会うことはなかったが、二十五歳のときに長いあいだ癌を患っていた父親が危篤状態であることを知らされる。何も知らない父方の親戚が「お父さんとあなたのお母さんは他人だけれど、あなたは血のつながったたったひとりの娘なんだから、最期は会いにいってあげて」と連絡をよこした。善百合子は会いにいく気持ちは毛頭なかったが、そうした連絡があったことを母親には(中略)いちおう伝えることにした。すると母親は、何も気にすることはない、だってあの男はわたしたちのどちらにも関係がない人間なのだからと鼻で笑ってみせたのだった。わたしは子どもが欲しいと思ったことはなかったけれど、自分に種がないことを知った“あれ”が取り乱し、自分が種なしであることがぜったいに知られないように、誰にもわからないように“その証拠として”子どもを作れと言ったのだ。そして病院でもらった精子で妊娠した。だから父親は誰かはわからない。(中略)
三月が終わろうとしていた。あれからわたしと逢沢さんは頻繁にメールをやりとりするようになり、先週の土曜日には居酒屋で食事をして、ビールを飲んだ。(中略)
「子どもが欲しいというのは」逢沢さんが訊いた。「子どもを育てたいということ? それとも産みたいということなんだろうか。それとも、妊娠したいということなんだろうか」
「わたしはそれについては、できるだけ考えてみたつもりなんですけど」わたしは言った。「その全部が入った『会いたい』っていう気持ちかもしれません」
「会いたい」
逢沢さんは慎重にわたしの言葉をくりかえした。(中略)
逢沢さんとメールやラインでやりとりをしたり、ときどき会っていろんな話をすることは、わたしにとって大切なことになっていった。(中略)
わたしは逢沢さんのことを好きになっていたのだと思う。(中略)どうすることが逢沢さんのその不安を和らげることになるのかはわからなかったけれど、わたしは少しでも逢沢さんの力になりたいと思うようになっていた。(中略)
逢沢さんからのメールやラインは嬉しかったけれど、やりとりをしたあとはするまえより、いつも少しだけ淋しくなった。小説は完全に頓挫(とんざ)していた。(中略)
恩田という男からメールが届いていることに気がついたのは、そんな四月の終わり頃だった。
〈はじめまして。恩田と申します。このたびは精子提供についてお問い合わせをいただき、ありがとうございました。返信を差し上げましたが、その後、お返事がいただけなかったので、再度ご連絡を差しあげる次第です〉とその男は書いていた。(中略)
その男は━━恩田は年末に一度と、二月の終わりの二度、メールを送ってきていた。ふたつのメールの内容は重なるところが多かったけれど、そのままをコピーしたものではなく、人がきちんとそれなりの時間をかけて書いた文章という印象を与える文面だった。(中略)
わたしはそれを三度、念入りに読み返した。(中略)わたし宛に送られてきたメールであることは自明なのに、わたしはなぜかこのメールが“ほかの誰でもないこのわたしに送られてきた”ように感じてしまい、わたしはそのことに驚いていた。(中略)
そこから数日のあいだ、わたしは恩田という男に会ってみることを想像してみた。頭に浮かべてみるのは恩田の容貌や雰囲気といったものではなく、待ちあわせをしている場面や会話だったりしたけれど、それは必ず「わたしはわたしで」という言葉と一緒になってやってきた。(中略)
(また明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
→FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135)