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川上未映子『夏物語』その14

2020-05-12 07:38:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

「すごいですね」わたしは絞りだすようにして言った。「何も━━知らないくせに」
「……あなたが言うとおり、わたしは何も知らないかもしれない」(中略)「でもね、あなたに才能があることは知ってる。それだけはちゃんとわかってる。ねえ夏子さん、もっと大事なことがあるでしょう。わたしはそれが言いたいの。いまやらなきゃいけないことがあるでしょうって、それだけが言いたいの。(中略)」
(中略)
 仙川さんは腕を伸ばして、わたしの腕をつかもうとした。わたしは身をよじってそれを振り払い、バッグから財布をとりだして改札をくぐった。夏子さん、とわたしを呼ぶ仙川さんの大きな声が聞こえたけれど、わたしはふりかえらなかった。(中略)
 電車は二度、乗り換えて三軒茶屋に着いた。(中略)そのときぶうぶうと電話が鳴っていることに気がついた。きっと仙川さんだろうと思ってそのままにした。でもしばらくするとまた着信の振動がバッグに響いた。それがつづけて三度あった。(中略)確認してみると巻子だった。わたしはどきりとし、すぐに折り返した。何かあったのかもしれない。(中略)
「巻ちゃん、どうしたんっ」(中略)
「あー夏子はん」(中略)「なにしてんのかな、思て」
 その声を聞いて、わたしは大きく息を吐いて脱力した。(中略)
「びっくりするやろ、店のこんな時間に。なんかあったか思て」
「なんでや、今日休みやで。日曜」
 巻子に言われて気がついた。たしかに今日は日曜日で巻子のスナックは休日だった。;
「せやけど何なん、びっくりしたわ」
「ちゃうねん、夏ちゃん夏にこっち帰ってくるって言うてたやん、八月の終わり。緑子に日にちゆうてくれたやろな。何食べよかな思て。(中略)」
「なあ、それいま決めなあかん話?」
「せやけどべつにええやん。楽しみなんや。どうなん、忙しいか。仕事は? 小説はもう終わったん?」
「小説? それどころじゃないわ。忙しくて」わたしは苛々を隠しきれずに言った。
「小説以外で忙しいって何や」(中略)
「子ども」わたしは言った。「子どものこと」
「誰の」
「わたしの」
「ええっ」(中略)「夏子、あんた妊娠したんか!」
そうや、と思わず言いそうになったけれど、なんとか押し止めることできた。
「ちゃう、これから。これから妊娠するんや」
「彼氏がおんのか」
「おらん」
「ほんなら誰の子のこと言うてんの」
「わたしらみたいな独り身の女が子どもつくるために、精子バンクゆうのがあるねん。巻ちゃんは知らんやろうけど、こっちではスタンダードになってるねん。(中略)」
「夏ちゃん」巻子は言った。「小説の話かいな」
「ちゃう、ほんまのわたしの話や」わたしは苛々しながらAIDのシステムについてかいつまんで説明した。すると話し終えるが早いか、巻子はわたしの声を遮るように大きな声をかぶせてきた。
「あかんわあ、それはあかんわ、ぜったいにあかんがな。それは神の領域やがな」(中略)
「もう切るわな」
 電話をばっぐの底に落とし、わたしは歩きだした。(中略)

15 生まれること、生まれないこと
 恩田と待ちあわせすることになったのは、渋谷の交差点のすぐ近くの地下にあるマイアミガーデンという店だった。(中略)
 最初の返信を書いた夜から、ちょうどひと月がたっていた。(中略)
「山田さんですか」
 打たれたように顔をあげると、男が立っていた。(中略)
 目はくっきりとした平行の二重まぶたで、やや下がり気味の眉頭に落ちそうなくらいの大きな“いぼ”があった。何年もかけて大きくなったに違いないそのいぼはすっかり変色していて、テーブルを挟んだわたしの位置からでも密集した縦長の毛穴のひとつひとつがはっきりと見えた。それはまるで腐って灰色になった苺のようで、わたしは思わず目をそらした。(中略)わたしの顔をじっと見つめた。「━━はい。今ので面談はパスしました」
「えっ」
「わたしくらいになるとわかるんですよ、見た感じですぐに」(中略)
 恩田はポケットのなかから何枚かの用紙を取りだした。
「病気とかそういうのの証明書はメールで添付したとおりで、問題ありません。肝心なのはこっちなんですよね━━はいこれ、わたしの精液検査結果表。(中略)ここが精液の量です。精液二ミリリットルにたいしてここが濃度、濃度ですよね。これが肝心なんですけど、(中略)あとここが運動率です、(中略)」
 ちゃんと自分で確認するように、というように恩田が用紙を渡してきたので、わたしはそれを受けとってテーブルのうえに置いて目をやった。(中略)
「つまり」(中略)「わたしよりいい精子って、まずないってことです。妊娠する可能性がいちばん高いってことです」(中略)
「注射器注入より、やっぱり原始的な方法のほうが確執は高くなりますよね。(中略)わたしの陰茎と精子だったら、そこはばっちりできるんで。そこも安心、完璧です。(中略)」

(また明日へ続きます……)

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