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川上未映子『夏物語』その11

2020-05-09 00:46:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 二週目の火曜日の夜、風呂からあがるとちゃぶ台のうえで電話がぶぶっと震えており、着信画面を見ると仙川涼子だった。時計を見ると夜の十時を過ぎており、電話に出ると仙川さんは、いま仕事が終わって三軒茶屋の駅前にいるのだけれど、これから少しだけ酒を飲まないかと誘ってきた。(中略)
 店は駅からすぐの地下にあるバーだった。(中略)
「子どもとかって、どんなふうに考えたりしたことある?」
「子どもですか」仙川さんはウイスキーのなくなったグラスをじっと見た。(中略)
「べつにいらないとか欲しくないとか、そういうわけじゃなかったんですよね。わたしなりに一生懸命に生きてきたつもりではあるんだけど、そうするとその流れに━━なんていうか、子どもっていうものが入ってくる余地がなかった、っていうのがいちばん自然かな。仕事も忙しかったしね」(中略)気持ちが悪くなって吐いてるのかもしれないと心配になってトイレに行ってみると、洗面台で前かがみになっている仙川さんの後ろ姿が見えた。(中略)
 なんて言ったのかを確かめるタイミングもなく、酔ったね、いやあ酔いすぎだよね、と言いながらわたしたちは連れだって席に戻り、残りの酒を飲んでから会計をして店を出た。(中略)仙川さんの乗ったタクシーが走り去ってからも、わたしはしばらく車の行き来を眺めていた。(中略)ネットも本もどこもかしこも相手のいるカップルの気持ちばっかりや。相手がおらん、これからもおらん人間の気持ちはどこにある?(中略)もうどうにでもなれやと思いながら、何にもしないでも目尻に垂れてくる涙を顔じゅうに引きのばしていると、ぽおんとコール音が鳴り、テールアプリに着信のしるしがついた。逢沢さんからだった。
 一週間まえに送ったわたしのメールへの返信だった。内容は簡潔で、四月末にこのあいだよりは小規模の有志の会をひらくので、もしよかったら、というお知らせだった。追伸、もうすぐ読み終わります。
 わたしは返信を押して白紙をたちあげ、文字を打ちはじめた。(中略)

〈どうもこんばんは、四月の会にはごめんけど行かれません。だって、もう構図が決まっているからです。一方通行だからです。当事者みなさんの気持ちがわかるなんてことはできません。(中略)子どもが欲しい、というのも違う。(中略)会ってみたい、会いたい、そして一緒に生きてみたい。でも、わたしは、いったい誰に会ってみたいというんやろう、まだ会ったこともないというのにね。(中略)お聞きしたかったことは想像しながら自分で考えてみます、短いあいだでしたがありがとうございました。さようなら〉

 わたしは読み返しもせずに送信ボタンをタップし、そのまま電話を暗い部屋のもっと暗くみえる部分へ投げつけた。(中略)

「本当にすみませんでした」
 頭を下げるわたしに逢沢さんはだいじょうぶですと肯いた。
「激烈に酔ってもうたんです」わたしは言った。(中略)
「メールを読んで驚きました。何が起こったのかと」
「わたしもびっくりしました。あとから読んで」(中略)
 酔っ払って読み返しもしないまま送ったメールに逢沢さんは律儀に返信をくれ、そのあと数回やりとりをし、会うことになった。逢沢さんは、(中略)生殖倫理についての文章のコピーをいくつかもってきてくれた。(中略)
「僕はそんな自分の気持ちを伝えたんです。すると祖母は『おまえなんか、わたしの孫でもなんでもないよ』と言ったんです。(中略)詳しいことはおまえの母親に訊けと言って追いだされてしまったんです。(中略)」
「お母さんはなんて」(中略)
「(中略)億劫そうに『そうだね』と言ったんです。そして『昔の話だし、もういいじゃない』って」(中略)
「そのあとは」(中略)
「そのあと、僕はほとんど反射的にドアをあけて外に出て、そのへんをとにかく歩きまわりました。(中略)そのときはもちろん精子提供なんて言葉も知らなかったから、そうか、僕は母親の連れ子だったんだなと、そういうふうに思ったような気がします。あるいは養子なのかもしれないとも。(中略)父は本当によく可愛がってくれたんです。(中略)はじめ母親は黙って聞いているだけだったんですけどしばらくすると『ばあちゃんが受けろって言ったんだよ』と言ったんです」
「精子提供を」
「うん」逢沢さんは肯いた。(中略)「結婚して何年たっても父とのあいだに子どもができなくて、そのことで母はずうっと祖母から責められていたと。(中略)それで病院に連絡をしたら、夫も連れてきて一緒に検査する必要があると言われて、その結果、夫のほうに原因が━━つまり祖母にとっては自分の息子が精子がないひとつもない無精子症であることがわかったんです」

(また明日へ続きます……)

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