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川上未映子『夏物語』その8

2020-05-06 00:35:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 遊佐リカの作品は読んだことはなかったけれど、もちろん彼女の名前は知っていた。
 年はたぶんわたしの少し上くらい。(中略)いわゆる売れっ子作家のひとりだ。それに何年かまえに彼女が直木賞を獲ったとき、坊主頭で赤ん坊を抱いて記者会見場にやってきたことで大変な話題になったのも覚えている。(中略)
「(中略)ねえ、それより朗読会で客がいちばん聞きたい作家の言葉って何かわかる?」
「想像もつきませんね、座ってるだけで精一杯でしたから」
「『では、つぎで最後の朗読になります』に決まってんじゃん」
 私と遊佐リカは笑い、少し遅れて仙川さんも困ったように笑った。

(中略)
 メールの受信ボックスを見ると見慣れない差出人の名前があった。紺野りえ。紺野りえって━━ああ、紺野さんだ。(中略)メールには、いろいろあって紺野さん一家は夫の実家のある和歌山県に引っ越すことになり、そのまえに一度ご飯でもと思って連絡した、と書かれていた。
〈タイミングがあえば今年中に会いたいな。(中略)あと、(中略)和歌山に行くことはとくにみんなに言ってないので、秘密にしておいてもらえると助かります!〉
 なんでわたしだけにメールを送ってきたのか、なんでみんなに秘密にしているのか、さらにはそれをなんでわたしにだけ伝えているのか━━何度か読み返すうちにいくつかのことが気になりはじめたけれど、それについて思い巡らせることがだんだん面倒になってきた。(中略)
 朗読会の翌週には遊佐リカからメールが来た。いちいち文章を書くよりどう考えても電話でしゃべるほうがらくだから、もし機会があれば電話をかけてもらわないかとそのメールには書かれてあった。(中略)わたしが電話番号を返信すると、彼女はその十分後に電話をかけてきた。
「電話番号どうも」遊佐リカは言った。「ねえ、小説読んだよ」
「わたしの?」わたしは驚いて言った。
「まだ一冊だけなんだね。とても面白かった。短編集ってことになってるけど、あれ長編だよね」
「なんかすみません」
「敬語やめてよ。わたしらおない年なんだよ」
「ほんまに?」(中略)
「学年はわたしがいっこうえだけど、生まれ年はおなじだね」
「じつはわたしも遊佐さんの小説、三冊くらい注文した」
「へえ」(中略)「ねえ、呼んでくれるの、さんづけより遊佐って呼び捨てのほうがうれしいかも。あなたのことはなんて呼ぼうか」
 わたしがなんでもいいと答えると、ふうんと軽くうなるような声をだした。
「それなら夏目でいいかな。なんか名字で呼びあうの女子バレーボール部みたいな感じあるね」(中略)

 こんなふうに遊佐はたびたび電話をかけてくるようになった。(中略)
 また、十一月の最後の日曜日には、仙川さんが自宅にわたしと遊佐を呼んで夕食をふるまってくれた。仙川さんのマンションはみるからに高級な造りで、エントランスにはもちろん玄関のポーチにもちょっとした門がついており、室内は二十畳はあるのではないかというリビングに、これまた高級そうなラグが敷かれてあった。(中略)
 仙川涼子はこんな広くて高そうな家に本当にひとりで住んでいるのかとか、こんな部屋で暮らそうと思ったら毎月いったいいくらお金が必要なのだろうとか、そもそも出版社の職員の年収ってどれくらいなのかとか。(中略)そういえば仙川さんには付きあっている人はいるのかどうか、あるいはいたのかどうか、また、遊佐はどうしてひとりで子どもを育てているのか、子どもの父親はどんな人間なのか、彼女の妊娠と出産はどんなあんばいだったのか、そしてあと少しで五十歳になる仙川涼子は自分が子どもをもたなかったことについて、どんなことを思っているのか。(中略)
 ときどき巻子からも電話がかかってきた。(中略)なあ夏ちゃん、人はなんのために産まれてくるんやろうな、などと憂えてみせ、そして電話を切るまぎわになると「そうでした夏子はん、今月もお振込みありがとうございました」と少し改まった口調で礼を言った。一冊目の本が出てぽつぽつと原稿依頼が来るようになってから、わたしは毎月一万五千円を巻子に振り込むようになっており、(中略)受け取ることになったのだった。(中略)

(また明日へ続きます……)