また昨日の続きです。
「仙川さんのお墓にね、こないだちょっと行ってきたんだ」
遊佐がストローでアイスコーヒーをかき混ぜると、氷がからんと音をたてて溶けた。(中略)
「どう、動く?」(中略)
「めっちゃ動く」(中略)「動くっていうか、蹴りというか、いきなり子宮口、かつんって蹴られて息が止まりそうになる」
「あったなあ、それ」(中略)「そうこうするうちに、予定日まで一ヶ月切ってるもんね、早いよ」
「ほんまに」(中略)
「お姉さんはいつから来てくれることになったの?」遊佐が訊いた。
「いちおう予定日から一週間きてくれることにはなってて、そのあと交代で、姪っ子が手伝ってくれることになって」(中略)「いや、でも順調でなりより。まずはそれがいちばんだよ。そうだ名前も決めたんだっけか」(中略)
「うん、まだ決めてないねん。漠然とも決めてなくて」(中略)
「まえにも話したけど、基本的にはわたしがひとりで産んで、ひとりで育ててっていう」
「うん」
「お父さんに会いたいってなったら、会えるよって感じにしようって」(中略)
わたしたちは支払いを済ませて店を出て、駅にむかって歩いた。(中略)
「そうだ、大楠さんとはどう? うまく行ってる?」
「うん、すごくいい感じに進んでる」
「よかったわ」遊佐は安心したように言った。(中略)
「彼はとてもいい編集者だよ」遊佐は肯いて言った。「夏目の小説が好きだからね」(中略)
逢沢さんと子どもをつくることを決めたのは2017年の暮れで、わたしたちはいくつかの約束をした。(中略)会う回数やタイミングはそのときどきで話しあって決めることにして、もしも会わないで過ごすことになっても、子どもが会いたいと思ったときには会えるようにしようということにした。
2018年の二月の末に、わたしたちは事実婚の夫婦であるということにして、不妊治療の専門のクリニックを訪ねた。わたしたちが事実婚をしているかどうかの証明らしい証明は必要なくて、それぞれが戸籍謄本を見せて、それぞれが誰とも婚姻関係にないということがわかれば、それで問題はなかった。(中略)
医者はわたしの生理周期をもとに検査日を設定して、エコーでチェックし、きちんと排卵があることを確認してくれた。(中略)それから八カ月後━━五度目の人工授精で、わたしは妊娠したのだった。
(中略)
部屋に入ってエアコンをつけ、冷蔵庫から麦茶を出したところで電話が鳴った。緑子からだった。(中略)
「━━そやけど、なあ、お腹に赤ちゃんおるってどんな感じやねんやろ」
「なんか、不思議な感じやで」(中略)
「なんか、自分の体やねんけど」
「うん」
「どんどん鈍くなって、ゆるくなって、自分がおっきくてぶあつい着ぐるみのなかにおって、昔はなんかそれが窮屈っていうか、しんどいときもあったんけど、いまはそのしんどさも感じひんくらい、平和な感じがするねん」(中略)
「(中略)来年の今頃は、もうほんまにおらんかもしれんねんなって思うくらいの歳になったときにな、みんな死についてどんなふうに感じるんやろうなって、不思議やってん。(中略)」
「うん」(中略)
「でさ、言うたらわたしも出産で、もしかしたら死ぬかもしれんわけやんか。(中略)」
「うん」
「でもな、これがな、なんとも思わへんねん。どうなるんやろとか、死とか、そういうむこうにあるもののことを思おうとしても、ふかふかの綿布団でふわってくるまれるみたいに、もう何も、ひとつも考えられへんくなるねん」(中略)
「夏ちゃんは死ぬわけじゃないけど」緑子は言った。「でも、夏ちゃんの言ってることは、わかるような気がする」(中略)
七月の最後の週が終わり、八月になった。(中略)
そのとき、これまでにときどき感じていたものとは違う“はり”のようなものを感じて、わたしは反射的に両手でお腹の下のほうを押さえた。(中略)測ってみると二十分ごとに傷みがやってきているのがわかった。(中略)巻子と緑子に〈陣痛がはじまったかも、またあとで〉とラインをし、遊佐にもラインをした。わたしは(中略)病院に電話をかけた。(中略)
病院に着く頃には間隔はもっと短くなり、痛みはさらに強さをましていた。(中略)
数時間をかけて痛みの間隔は十五分になり、十分になり、そのたびに大きくなってゆく痛みに目のまえが真っ暗になった。(中略)
午前二時を過ぎる頃には、痛みはたえまなくやってくるようになり、わたしは何度も叫び声をあげた。(中略)
しばらくして、赤ん坊が胸のうえにやってきた。(中略)三千二百です、元気な女の子ですよと声がした。(中略)
その赤ん坊は、わたしが初めて会う人だった。(中略)どこにいたの、ここにきたのと声にならない声で呼びかけながら、わたしはわたしの胸のうえで泣きつづけている赤ん坊をみつめていた。
550ページ近くもある小説でしたが、一気に3日で読み終わってしまいました。
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
→FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135)
「仙川さんのお墓にね、こないだちょっと行ってきたんだ」
遊佐がストローでアイスコーヒーをかき混ぜると、氷がからんと音をたてて溶けた。(中略)
「どう、動く?」(中略)
「めっちゃ動く」(中略)「動くっていうか、蹴りというか、いきなり子宮口、かつんって蹴られて息が止まりそうになる」
「あったなあ、それ」(中略)「そうこうするうちに、予定日まで一ヶ月切ってるもんね、早いよ」
「ほんまに」(中略)
「お姉さんはいつから来てくれることになったの?」遊佐が訊いた。
「いちおう予定日から一週間きてくれることにはなってて、そのあと交代で、姪っ子が手伝ってくれることになって」(中略)「いや、でも順調でなりより。まずはそれがいちばんだよ。そうだ名前も決めたんだっけか」(中略)
「うん、まだ決めてないねん。漠然とも決めてなくて」(中略)
「まえにも話したけど、基本的にはわたしがひとりで産んで、ひとりで育ててっていう」
「うん」
「お父さんに会いたいってなったら、会えるよって感じにしようって」(中略)
わたしたちは支払いを済ませて店を出て、駅にむかって歩いた。(中略)
「そうだ、大楠さんとはどう? うまく行ってる?」
「うん、すごくいい感じに進んでる」
「よかったわ」遊佐は安心したように言った。(中略)
「彼はとてもいい編集者だよ」遊佐は肯いて言った。「夏目の小説が好きだからね」(中略)
逢沢さんと子どもをつくることを決めたのは2017年の暮れで、わたしたちはいくつかの約束をした。(中略)会う回数やタイミングはそのときどきで話しあって決めることにして、もしも会わないで過ごすことになっても、子どもが会いたいと思ったときには会えるようにしようということにした。
2018年の二月の末に、わたしたちは事実婚の夫婦であるということにして、不妊治療の専門のクリニックを訪ねた。わたしたちが事実婚をしているかどうかの証明らしい証明は必要なくて、それぞれが戸籍謄本を見せて、それぞれが誰とも婚姻関係にないということがわかれば、それで問題はなかった。(中略)
医者はわたしの生理周期をもとに検査日を設定して、エコーでチェックし、きちんと排卵があることを確認してくれた。(中略)それから八カ月後━━五度目の人工授精で、わたしは妊娠したのだった。
(中略)
部屋に入ってエアコンをつけ、冷蔵庫から麦茶を出したところで電話が鳴った。緑子からだった。(中略)
「━━そやけど、なあ、お腹に赤ちゃんおるってどんな感じやねんやろ」
「なんか、不思議な感じやで」(中略)
「なんか、自分の体やねんけど」
「うん」
「どんどん鈍くなって、ゆるくなって、自分がおっきくてぶあつい着ぐるみのなかにおって、昔はなんかそれが窮屈っていうか、しんどいときもあったんけど、いまはそのしんどさも感じひんくらい、平和な感じがするねん」(中略)
「(中略)来年の今頃は、もうほんまにおらんかもしれんねんなって思うくらいの歳になったときにな、みんな死についてどんなふうに感じるんやろうなって、不思議やってん。(中略)」
「うん」(中略)
「でさ、言うたらわたしも出産で、もしかしたら死ぬかもしれんわけやんか。(中略)」
「うん」
「でもな、これがな、なんとも思わへんねん。どうなるんやろとか、死とか、そういうむこうにあるもののことを思おうとしても、ふかふかの綿布団でふわってくるまれるみたいに、もう何も、ひとつも考えられへんくなるねん」(中略)
「夏ちゃんは死ぬわけじゃないけど」緑子は言った。「でも、夏ちゃんの言ってることは、わかるような気がする」(中略)
七月の最後の週が終わり、八月になった。(中略)
そのとき、これまでにときどき感じていたものとは違う“はり”のようなものを感じて、わたしは反射的に両手でお腹の下のほうを押さえた。(中略)測ってみると二十分ごとに傷みがやってきているのがわかった。(中略)巻子と緑子に〈陣痛がはじまったかも、またあとで〉とラインをし、遊佐にもラインをした。わたしは(中略)病院に電話をかけた。(中略)
病院に着く頃には間隔はもっと短くなり、痛みはさらに強さをましていた。(中略)
数時間をかけて痛みの間隔は十五分になり、十分になり、そのたびに大きくなってゆく痛みに目のまえが真っ暗になった。(中略)
午前二時を過ぎる頃には、痛みはたえまなくやってくるようになり、わたしは何度も叫び声をあげた。(中略)
しばらくして、赤ん坊が胸のうえにやってきた。(中略)三千二百です、元気な女の子ですよと声がした。(中略)
その赤ん坊は、わたしが初めて会う人だった。(中略)どこにいたの、ここにきたのと声にならない声で呼びかけながら、わたしはわたしの胸のうえで泣きつづけている赤ん坊をみつめていた。
550ページ近くもある小説でしたが、一気に3日で読み終わってしまいました。
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