gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

奥田英朗『コロナと潜水服』その10

2022-04-06 00:01:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

(中略)
「表の赤いパンダで東京からいらしたんですか?」主人が聞いた。
「そう。よく車種がわかりますね。昔の車なのに」
「ちょっと思い出があったから」
「どんな思い出ですか?」
「ぼくが小学生の頃、常連のお客さんで、赤いパンダに乗ってくるお兄さんがいたんですよ。よく一緒に遊んでもらってたので、そのことを思い出して」(中略)
「そのお兄さんって、もしかして富田君?」
「えっ、知ってるんですか?」(中略)
「ちょっと縁があって……。あのパンダ、富田君が乗っていたパンダなんですよ。彼の死後、両親が保管してたんだけど、その両親も亡くなられて、それでわたしが買うことに……」(中略)
「何か富田君の思い出はありますか?」直樹は聞いた。
「絵がうまかったですね。車の絵を描いてって、何度もねだったことがあります。(中略)」
「卒業後は彼女と一緒でしたか?」
「そうです。そうです。名前は何だっけ……」
「シホちゃん」
「そうそう。シホちゃん!」(中略)」
「いやあ、懐かしいなあ。もう三十年以上も前のことですよ……。そうだ。写真があるはずだから持って来ましょう。(中略)」
「これがぼくで、隣は妹。(中略)」で、これが富田君で、これがシホちゃん」
 直樹は写真に見入った。そうか、君が富田君か。やっと会えたな。
 富田君は思った通りのやさしそうな風貌だった。(中略)なかなかのハンサム青年だ。」
シホちゃんは、白いブラウスと黒のスカートのハウスマヌカン風。太い眉のメイクが時代を想わせた。こちらもなかなか可愛い。(中略)」

 翌朝、(中略)発進すると、すぐに《音声案内を開始します》とナビが言った。(中略)」
 新潟市内に戻り、どこだが知らない住宅地を走ったところで、目的地に到着した。(中略)
 どうやら富田君が生まれ育った家のあった場所らしい。(中略)やはり取り壊されたのだ。(中略)
 富田君の生家の場所だと確信はあるが、念を押しておきたくて、直樹は隣家に訊ねることにした。
「すいません。ちょっとお聞きしますが、隣にあった家はいつ取り壊されたんですか?」
 直樹が聞いた。
「今年の春らわ。奥さんが死んだの、冬だったから」(中略)
「すいません。富田君の墓参りに行きたいんですが、どこでしたっけ」(中略)
「南乗寺だば、その先の国道に出たら、北に真っすぐ行けばいいっけ」(中略)
 直樹が辞去の挨拶をする。(中略)
 ただ、カーナビはさっきから黙ったままだった。モニターに地図を映し出しているが、音声案内は一切ない。路側帯があったので一度車を停めた。
「あのさあ、シホちゃんの花屋さんに行きたいんだけど。(中略)」
 直樹は声にしてナビに話しかけた。反応はない。
「行きたくない? まあ、わかるけどね、その気持ちは。シホちゃんも、もういい歳のおばさんだし、だいいちそこにいるかも、店が残ってるかもわからないし。でも行ってみない? これで新潟を去るわけだし、心残りになるよ」
 しばしの沈黙。ナビは黙ったままである。
「仮にシホちゃんが店にいたとしても、おれは何も言わないよ。ただ花を買うだけ。それは約束する。(中略)」
 ナビに音声を発する気配はない。もうここまでらしい。(中略)」無理強いする気はないし、そんな権利もない。(中略)」さてと、じゃあ帰りますか━━。そのときナビが言った。
《音声案内を開始します》
 おお、ありがとう。直樹は胸が熱くなった。(中略)
 到着したのは駐車スペースのある中規模の花屋だった。店舗は新しく、近年建て替えられたものと思われた。つまり繁盛しているということだ。(中略)
 駐車スペースに車を停め、運転席から降りた。直樹は、その場に立ち尽くす女の左手の薬指を見た。(中略)そこには銀色の指輪があった、シホちゃんは結婚しているようだ。なぜかほっとした。(中略)
「いらっしゃいませ」
 女が(もしや……)と言った表情で声を発した。顔は青ざめていた。(中略)
「お墓に供える花を」(中略)
「赤い花は変ですかね」(中略)
「いえ、変じゃないと思います」(中略)
「ではそれで」(中略)
「サルビアとサザンカと薔薇をアレンジしました。いかがですか」
「素敵です。ありがとう」
 直樹は笑顔で礼を言った。
会計を済ませて外に出ると、女も見送りについて来た。直樹が運転席のドアを開けたところで、女が言った。
「このパンダ、品川ナンバーってことは、東京からですか?」
「そう。友人の墓参りに来ました。でもパンダってよく知ってますね。昔の車なのに」
「ええ、ちょっと」
 もう一度見つめ合う。女の表情から動揺が消え、やさしい目をしていた。(中略)
「じゃあ、お気をつけて」
「ありがとう」(中略)女は車道まで出て来て、パンダのうしろ姿を見送っていた。
 不意に人を愛おしく思う気持ちが洪水のように溢れ、鼻の奥がつんと来た。(中略)

 どれも読みやすく、思わず笑ってしまう短編でした。