52年前の今日、ニューヨークのヴィレッジ・ヴァンガードで、ビル・エヴァンスとスコット・ラファロとポール・モチアンが伝説的なライヴを行い、それが『ワルツ・フォー・デビー』と『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』の2枚のアルバムとして結実しました。この2枚のアルバムは現在も日本で人気が高く、特に『ワルツ・フォー・デビー』については、未だにジャズで一番人気の高いアルバムとして知られています。中でも冒頭の一曲『マイ・フーリッシュ・ハート』は、ビルの最高傑作だと言う人もあり、必聴の曲です。まだ聴いたことがないという方には、是非聴かれることをお勧めします。
さて、三池祟史監督の'12年作品『逆転裁判』をスカパーの日本映画専門チャンネルで見ました。カプコンから発売された法廷バトルアドベンチャーゲームの映画化で、映画もゲームと同じくCGを多用した荒唐無稽な作品に仕上がっているようでしたが、冒頭の10分を見て、その後を見るのを断念しました。その10分の中で、巨大な侍風船が膨らむショットがあるのですが、「これはここから撮ったら巨大さが伝わらないだろう」と思われるショットが1つあり、それで一気に期待が萎んでしまったためです。その後も早送りで見ましたが、2時間15分もかけて、全部見る価値はないように思いました。
さて、また昨日の続きです。
「ここでわたしは視点をいささか移動させ、(花魁の)菖蒲に憑依した人面疽とはそもそも何であるかという問題を、より広い文化的・神話的文脈のなかで思考することを試みてみたい。映画史はこの時点でほぼ役割を終えることになる。代わってわたしに導きの糸を差し出してくれるのは、精神分析と神話学である。」
「女性の性器が視覚的に嫌悪感を与えるという事実については、洋の東西を問わず、これまで数多くの言説や映像がそれを論じてきた。」「では、なぜ女性性器はグロテスクかつ不気味に感じられるのか。この問いをめぐって誰よりも真剣に思考したのは、精神分析の創始者ジークムント・フロイトであったように、わたしには思われる。」「女性の性器が不気味に見えるのは、それが見る主体である者の『故郷』であり、『かつてなれ親しんだもの』であるためである。フロイトのこの命題を受け入れるためには、誰がいかにしてこの結論に到達したか、その探求の過程をつぶさに追跡してみなければならない。わたしはここで、彼が迂回に迂回を重ね、シェリングからホフマンの幻想小説まで、数多くのテクストをモザイクのように並べ立てて築き上げたこの論考を、冒頭から読み直すという作業に入ることとなる。」「ここで先に掲げたシェリングの言葉が、文字通り回帰してくる。『不気味なものとは、隠されているべきものが外に現れたものである。』棹後の結論としてフロイトは、論の冒頭に長々とした語源探求に立ち戻り、決定的な警句を書き付ける。『unheimlich(「無気味な」という意味のドイツ語)という語の前綴りのunは、抑圧の刻印なのである。」
この後、著者は“抑圧”が実際に『人面疽』の中でどのような形で現れてきているかを検証し、オットーの『聖なるもの』にも言及し、『人面疽』の中における人面疽の過激な攻撃性に注目し、ギリシャ神話のバウボが性器開闢(かいびゃく)を通して、周囲を哄笑へと誘うこと、同じくギリシャ神話のゴルゴがやはり性器開闢をして相手を恐怖に固まらせてしまうことにも触れ、最後に、2011年の8月、パリで著者が日本の怪奇映画上映の企画で会場を訪れた際、東陽子が休憩時間の間、劇場内で貞子に扮したパフォーマンスをしているのに出会ったエピソードが書かれて、この論文は終わります。
この要約の中では触れることのできなかった谷崎の映画作りに関する様々なエピソードも非常に興味深く読ませていただき、大変勉強になった論文でした。東陽子の話はどこまで本当で、どこからがフィクションなのか、読んでいて判然としませんでしたが、もし全てが本当の話だとしたら、四方田さんも、蓮實先生と同じく、“神に選ばれた”方なのでしょう。そんなことも感じさせてくれる、面白い論文でした。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
さて、三池祟史監督の'12年作品『逆転裁判』をスカパーの日本映画専門チャンネルで見ました。カプコンから発売された法廷バトルアドベンチャーゲームの映画化で、映画もゲームと同じくCGを多用した荒唐無稽な作品に仕上がっているようでしたが、冒頭の10分を見て、その後を見るのを断念しました。その10分の中で、巨大な侍風船が膨らむショットがあるのですが、「これはここから撮ったら巨大さが伝わらないだろう」と思われるショットが1つあり、それで一気に期待が萎んでしまったためです。その後も早送りで見ましたが、2時間15分もかけて、全部見る価値はないように思いました。
さて、また昨日の続きです。
「ここでわたしは視点をいささか移動させ、(花魁の)菖蒲に憑依した人面疽とはそもそも何であるかという問題を、より広い文化的・神話的文脈のなかで思考することを試みてみたい。映画史はこの時点でほぼ役割を終えることになる。代わってわたしに導きの糸を差し出してくれるのは、精神分析と神話学である。」
「女性の性器が視覚的に嫌悪感を与えるという事実については、洋の東西を問わず、これまで数多くの言説や映像がそれを論じてきた。」「では、なぜ女性性器はグロテスクかつ不気味に感じられるのか。この問いをめぐって誰よりも真剣に思考したのは、精神分析の創始者ジークムント・フロイトであったように、わたしには思われる。」「女性の性器が不気味に見えるのは、それが見る主体である者の『故郷』であり、『かつてなれ親しんだもの』であるためである。フロイトのこの命題を受け入れるためには、誰がいかにしてこの結論に到達したか、その探求の過程をつぶさに追跡してみなければならない。わたしはここで、彼が迂回に迂回を重ね、シェリングからホフマンの幻想小説まで、数多くのテクストをモザイクのように並べ立てて築き上げたこの論考を、冒頭から読み直すという作業に入ることとなる。」「ここで先に掲げたシェリングの言葉が、文字通り回帰してくる。『不気味なものとは、隠されているべきものが外に現れたものである。』棹後の結論としてフロイトは、論の冒頭に長々とした語源探求に立ち戻り、決定的な警句を書き付ける。『unheimlich(「無気味な」という意味のドイツ語)という語の前綴りのunは、抑圧の刻印なのである。」
この後、著者は“抑圧”が実際に『人面疽』の中でどのような形で現れてきているかを検証し、オットーの『聖なるもの』にも言及し、『人面疽』の中における人面疽の過激な攻撃性に注目し、ギリシャ神話のバウボが性器開闢(かいびゃく)を通して、周囲を哄笑へと誘うこと、同じくギリシャ神話のゴルゴがやはり性器開闢をして相手を恐怖に固まらせてしまうことにも触れ、最後に、2011年の8月、パリで著者が日本の怪奇映画上映の企画で会場を訪れた際、東陽子が休憩時間の間、劇場内で貞子に扮したパフォーマンスをしているのに出会ったエピソードが書かれて、この論文は終わります。
この要約の中では触れることのできなかった谷崎の映画作りに関する様々なエピソードも非常に興味深く読ませていただき、大変勉強になった論文でした。東陽子の話はどこまで本当で、どこからがフィクションなのか、読んでいて判然としませんでしたが、もし全てが本当の話だとしたら、四方田さんも、蓮實先生と同じく、“神に選ばれた”方なのでしょう。そんなことも感じさせてくれる、面白い論文でした。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)