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四方田犬彦『谷崎潤一郎――映画と性器表象』その1

2013-06-23 06:05:00 | ノンジャンル
 スカパーの日本映画専門チャンネルで、伊藤大輔監督・脚本の'54年作品『番町皿屋敷 お菊と播磨』を見ました。殿様の播磨(長谷川一夫)とお女中のお菊(津島惠子)との悲恋物語で、他にも田崎潤、東山千榮子、進藤英太郎、清水将夫らが脇を固めていて、見事な“ショット”とその連鎖からなる映画でしたが、ここで言う“ショット”は構図的に決まっている“ショット”という意味であり、演出は、加藤泰監督のそれが“メイクなしの演出”だとしたら、この映画における演出は“メイクアップされた演出”になっていて、時代とともに古びてしまう種類のものであると思いました。連鎖の部分もクレーン、オーヴァーラップ、フェイドイン、フェイドアウト、移動、パンと見事なつなぎになっていました。そういった点では、最近撮られている映画より数段に上を行っている映画なのかもしれません。

 さて、「月刊新潮」'13年6月号に掲載されていた、四方田犬彦さんによる論文『谷崎潤一郎――映画と性器表象』を読みました。200枚という文量の論文です。
 「わたしはどこに足を向けようとも、谷崎を知る人々と出会い、彼らが思慕と情熱をこめて谷崎について語る場に廻りあわせてきた」と書く著者が、「まったくの偶然から東陽子と知り合うきっかけになったのは、イタリアの大学でバゾリーニの勉強に一段落をつけ、帰国して以前の大学での教職に戻った1985年のこと」でした。「あるとき東陽子はわたしに向かって、頼みごとがあるといった。実は遠い親戚にあたるある人物が老衰で入院しているのだが、あまりに高齢すぎて、係累もなければ知人友人もいない。自分がときおり会いに行くのを除けば、誰も見舞いに来てくれる者もいない。ひどく孤独な気持ちでいるらしく、自分の到来を実の孫のように悦んでくれる。もしよければいっしょに見舞いに行ってくれないだろうかという申し出だった。わたしが唐突さに理解できないでいると、東陽子はさらに言葉を重ね、驚くべき事実を披露した。
 その人は和嶋せいといって、谷崎潤一郎の昔の愛人だった。その後、和嶋彬夫という人物と結婚した。(中略)二人は半世紀にわたって仲よく暮らしたが、十年以上前に夫には死なれてしまった。」「若き日の谷崎は、一年半ほどの短い期間ではあったが、小説執筆のかたわらで映画製作に血道を上げていたことがある。せいは葉山三千子の芸名のもとに、その最初の製作作品で主演女優を務めた。このとき共演したのが、私淑する谷崎を訪れてきた無名の岡田時彦であった。」「わたしは東陽子に訊ねた。ひょっとしてその人は、『痴人の愛』のナオミの原型となった女性ではないのだろうか。(中略)東陽子はごく当然のように、『そう、ナオミなんです』と答えた。」「二回目のお見舞いは叶わなかった。というのもわたしたちが池袋病院を訪れた日から二週間ほどして、せいは生涯を閉じてしまったのである。1996年6月23日のことだった。翌朝の新聞の死亡欄で、わたしは彼女の享年が正確にが94歳であることを知った。」「このひどく寂しげな葬儀に唯一、色を添えていたのは、、瀬戸内寂聴から贈られた巨大な花束だった。これは後になって理由が判明した。葉山三千子と瀬戸内寂聴は昔に一度、『婦人公論』で対談をしたことがあり、それを寂聴が縁として記憶していたのである。」
 さて、「(谷崎の)『独探』の一節は、日本においてチャーリー・チャップリンの名が語られた最初のものではないかと、わたしは睨んでいる。付言しておくと、この短編には、一般に流布していた『活動写真』という表現と並んで、『フィルム』『写真』『映画』という単語が使われている。」
 「日本の近代文学において、最初の映画少年の世代とは誰であったか。わたしにはそれが、谷崎潤一郎であるように思われる。」「要するに谷崎は現時点での映画状況の先を見通して、エプスタンやドライヤーが活躍する1920年代以降の映画的想像力を夢見ているのだ。いまだに地上に存在していない、にもかかわらず存在しているべきである架空のフィルムについて言葉を重ねることこそ、この時期に特徴的な、映画的情熱のあり方であった。」(明日へ続きます‥‥)

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto