土佐日記
原文
よふけてくれば、ところ〴〵もみえず。京にいりたちてうれし。いへにいたりて、かどにいるに、つきあかければ、いとよくありさまみゆ。きゝしよりもまして、いふかひなくぞこぼれやぶれたる。いへに、あづけたりつるひとのこゝろも、あれたるなりけり。「なかゞきこそあれ、ひとついへのやうなれば、のぞみてあづかれるなり」。「さるは。たよりごとに、ものもたえずえさせたり」。「こよひ、かゝること」ゝ、こわだかにものもいはせず。いとはつらくみゆれど、こゝろざしはせむとす。
さて、いけめいてくぼまり、みづゝけるところあり。ほとりにまつもありき。いつとせむとせのうちに、千とせやすぎにけむ。かたへはなくなりにけり。いまおひたるぞまじれる。おほかたの、みなあれにたれば、「あはれ」とぞ、ひと〴〵いふ。おもひいでぬことなく、おもひこひしきがうちに、このいへにてうまれしをむなごの、もろともにかへらねば、いかゞはかなしき。ふなびとも、みなこたかりてのゝしる。
かゝるうちに、なほかなしきにたへずして、ひそかにこゝろしれるひとゝいへりけるうた、
むまれしもかへらぬものをわがやどにこまつのあるをみ るがゝなしさ
とぞいへる。なほあかずやあらむ、またかくなむ、
みしひとのまつのちとせにみましかばとほくかなしきわ かれせましや
わすれがたく、くちをしきことおほかれど、えつくさず。とまれかうまれ、とくやりてむ。
現代語訳
夜も更けてきたので、あちこちの場所もよく見えない。それでも京に入るので、嬉しいことである。家に着いて門をくぐると、月が明るいので様子がとてもよく見える。かねて伝え聞いていた以上に、言葉にならない程ひどく壊れ傷んでいる。家を預けておいた人の心も、荒れすさんでいるのだ。「隔てる中垣はあるとはいえ、一つ屋敷のようなものだからと、お隣が望んで預かったのだ」。「そうだとも。ことあるごとに、お礼の品をいつも差し上げていたのに」。「(それなのに)今夜のこの有様は何ということだ」とは、(従者には)大声で言わせることはしない。お隣は大層薄情とは思うが、謝礼はしようと思う。
さて(庭には)池のようにくぼんで、水がたまっている所がある。その側には松もあった。(留守にしていた)五、六年のうちに、千年も過ぎてしまったのだろうか。半分はなくなっているかと思えば、新しく生えた松も混じっている。あたりは一面にすっかり荒れ果ててしまっているので、「ああ、何ということだ」と人々は言う。思い出さないことなどなく、恋しく思うのは、この家で生まれた娘が、(土佐で死んでしまったために)一緒に帰らなかったことだ。何と悲しいことであろう。(それに比べて)同じ船の人たち(同じ船で一緒に帰京した人々)の周りには、子供が集まってはしゃいでいる。
そのような騒ぎの中では、なおさら悲しさに堪えられず、気心の知れた人と、「この家で生まれた娘でさえも帰ってこないというのに、留守中に我が家に生えた、小さな松が生えているのを見ると、かえって悲しいことだ」と、密かに歌を詠み交わした。しかしそれでも思いを尽くせず、「亡くなった娘が、千代の松のように生き長らえていてくれたならば、遠く土佐で悲しい別れをすることもなかったのに」と詠んだ。忘れられない心残りなことが多いが、書き尽くすことなどとてもできはしない。何はともあれ、(このような日記は)早く破り棄ててしまおう。
解説
『土佐日記(とさにつき)』は、紀貫之(きのつらゆき)(?~945?)が土佐国司の任期を終えて、十二月二一日に任地を出発し(実際の船出は二六日)、翌年二月十六日に帰京するまでの五五日間の船旅を、一日も欠かさず記した紀行文で、和文による最初の日記文芸です。ただしかなり虚構が混じっています。実際に土佐国司であったのは延長八年(930)から承平五年(935)までで、帰京時の年齢は六十余歳ですから、国司としてはかなり高齢です。
女性に仮託されていることについて、作者が貫之であることを隠蔽するためという説がありましたが、貫之が作者であることは早くから知れ渡っていました。また男性官僚が和文で書くのは相応しくないとされていたためという説もありましたが、貫之は既に『古今和歌集』の仮名序を書いていました。読者を笑わせる諧謔であったという説もあります。またそもそも冒頭部が「日記は男が書くものと聞いているが、女も書いてみようと思って」という意味ならば、「男のすなる」となるはずであるのに、なぜ「男も」なのかという問題もあります。しかし結局は、男性官人が日記には書けない内面的心情を書くためというあたりに落ち着くのではと思います。
微妙な心情を漢文で表現することは、日本人には難しいものです。しかし仮名ならば話すことと書くことが一致しますから、容易にできます。現代でも、助詞の使い方次第で、性別や年齢や微妙な情況を言い分けられるように、微妙な心情の描写には、今も昔も仮名文字の使用が不可欠なのです。貫之は歌人でもありますから、仮名表記による大和言葉こそ、「こころ」を表せる媒体であることをよくよく知っていました。だからこそ、仮名で和歌以外の文芸を書くために、書き手を女性に設定して書き始めたのではないでしょうか。
漢文と和文による感情表現の例を上げてみましょう。大層悲しいことを、「紅涙(血涙)に沈む」と漢文調に表現しても、日本人にはどこか余所余所(よそよそ)しいものです。一方、土佐で娘と死別した悲しみを、「世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな」(正月十一日)と詠んでいます。どちらが日本人の心に訴えるかは、明々白々ではありませんか。 『土佐日記』には、土佐で亡くなった娘を悼む歌が十首あり、京に近付くにつれて頻繁に詠まれているところに、親の悲しみがよく表れています。地方官が在任中に家族を失い、帰洛途中でその悲しみを詠んだ歌と言えば、大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官)であった大伴旅人(家持の父)が妻に先立たれ、任を終えて帰京する船旅の途中に五首、帰宅してから三首も妻を悼む歌を詠んだことを連想します。(『万葉集』446~453)
ここに載せたのは、『土佐日記』最後の「帰京」の部分です。隣家に言いたいことは山程あったでしょうが、じっと堪えている様子に、貫之の性格が表れています。池のそばに植えられている松は、「子(ね)の日の小松」でしょう。当時は正月初子(はつね)の日に、野辺に出て小松を引き抜き、長寿を祈念して庭に植える風習がありました。だからこそ娘の死が松の哀れな姿に重なったのでしょう。隣に誰かが植えたか、自然に生い伸びたかわからない若松があれば、なおさらです。
愛する我が子を失う悲しみ、わけても晩年に授かった幼子に先立たれる悲しみは、「ものには順序という道理があるのに、代われるものなら」と、堪えがたかったことでしょう。こればかりは今も昔も経験した人にしかわからないことであり、何を以てしても慰められるものではありません。『土佐日記』には、亡児哀傷が終始一貫しているのです。
写本しか残っていませんが、全部で約一万二千五百字のうち漢字は約六十字しかないそうです。仮名が多いと意味を理解しづらいのですが、それが特徴ですから、ここでは敢えて漢字に直していません。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『土佐日記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
よふけてくれば、ところ〴〵もみえず。京にいりたちてうれし。いへにいたりて、かどにいるに、つきあかければ、いとよくありさまみゆ。きゝしよりもまして、いふかひなくぞこぼれやぶれたる。いへに、あづけたりつるひとのこゝろも、あれたるなりけり。「なかゞきこそあれ、ひとついへのやうなれば、のぞみてあづかれるなり」。「さるは。たよりごとに、ものもたえずえさせたり」。「こよひ、かゝること」ゝ、こわだかにものもいはせず。いとはつらくみゆれど、こゝろざしはせむとす。
さて、いけめいてくぼまり、みづゝけるところあり。ほとりにまつもありき。いつとせむとせのうちに、千とせやすぎにけむ。かたへはなくなりにけり。いまおひたるぞまじれる。おほかたの、みなあれにたれば、「あはれ」とぞ、ひと〴〵いふ。おもひいでぬことなく、おもひこひしきがうちに、このいへにてうまれしをむなごの、もろともにかへらねば、いかゞはかなしき。ふなびとも、みなこたかりてのゝしる。
かゝるうちに、なほかなしきにたへずして、ひそかにこゝろしれるひとゝいへりけるうた、
むまれしもかへらぬものをわがやどにこまつのあるをみ るがゝなしさ
とぞいへる。なほあかずやあらむ、またかくなむ、
みしひとのまつのちとせにみましかばとほくかなしきわ かれせましや
わすれがたく、くちをしきことおほかれど、えつくさず。とまれかうまれ、とくやりてむ。
現代語訳
夜も更けてきたので、あちこちの場所もよく見えない。それでも京に入るので、嬉しいことである。家に着いて門をくぐると、月が明るいので様子がとてもよく見える。かねて伝え聞いていた以上に、言葉にならない程ひどく壊れ傷んでいる。家を預けておいた人の心も、荒れすさんでいるのだ。「隔てる中垣はあるとはいえ、一つ屋敷のようなものだからと、お隣が望んで預かったのだ」。「そうだとも。ことあるごとに、お礼の品をいつも差し上げていたのに」。「(それなのに)今夜のこの有様は何ということだ」とは、(従者には)大声で言わせることはしない。お隣は大層薄情とは思うが、謝礼はしようと思う。
さて(庭には)池のようにくぼんで、水がたまっている所がある。その側には松もあった。(留守にしていた)五、六年のうちに、千年も過ぎてしまったのだろうか。半分はなくなっているかと思えば、新しく生えた松も混じっている。あたりは一面にすっかり荒れ果ててしまっているので、「ああ、何ということだ」と人々は言う。思い出さないことなどなく、恋しく思うのは、この家で生まれた娘が、(土佐で死んでしまったために)一緒に帰らなかったことだ。何と悲しいことであろう。(それに比べて)同じ船の人たち(同じ船で一緒に帰京した人々)の周りには、子供が集まってはしゃいでいる。
そのような騒ぎの中では、なおさら悲しさに堪えられず、気心の知れた人と、「この家で生まれた娘でさえも帰ってこないというのに、留守中に我が家に生えた、小さな松が生えているのを見ると、かえって悲しいことだ」と、密かに歌を詠み交わした。しかしそれでも思いを尽くせず、「亡くなった娘が、千代の松のように生き長らえていてくれたならば、遠く土佐で悲しい別れをすることもなかったのに」と詠んだ。忘れられない心残りなことが多いが、書き尽くすことなどとてもできはしない。何はともあれ、(このような日記は)早く破り棄ててしまおう。
解説
『土佐日記(とさにつき)』は、紀貫之(きのつらゆき)(?~945?)が土佐国司の任期を終えて、十二月二一日に任地を出発し(実際の船出は二六日)、翌年二月十六日に帰京するまでの五五日間の船旅を、一日も欠かさず記した紀行文で、和文による最初の日記文芸です。ただしかなり虚構が混じっています。実際に土佐国司であったのは延長八年(930)から承平五年(935)までで、帰京時の年齢は六十余歳ですから、国司としてはかなり高齢です。
女性に仮託されていることについて、作者が貫之であることを隠蔽するためという説がありましたが、貫之が作者であることは早くから知れ渡っていました。また男性官僚が和文で書くのは相応しくないとされていたためという説もありましたが、貫之は既に『古今和歌集』の仮名序を書いていました。読者を笑わせる諧謔であったという説もあります。またそもそも冒頭部が「日記は男が書くものと聞いているが、女も書いてみようと思って」という意味ならば、「男のすなる」となるはずであるのに、なぜ「男も」なのかという問題もあります。しかし結局は、男性官人が日記には書けない内面的心情を書くためというあたりに落ち着くのではと思います。
微妙な心情を漢文で表現することは、日本人には難しいものです。しかし仮名ならば話すことと書くことが一致しますから、容易にできます。現代でも、助詞の使い方次第で、性別や年齢や微妙な情況を言い分けられるように、微妙な心情の描写には、今も昔も仮名文字の使用が不可欠なのです。貫之は歌人でもありますから、仮名表記による大和言葉こそ、「こころ」を表せる媒体であることをよくよく知っていました。だからこそ、仮名で和歌以外の文芸を書くために、書き手を女性に設定して書き始めたのではないでしょうか。
漢文と和文による感情表現の例を上げてみましょう。大層悲しいことを、「紅涙(血涙)に沈む」と漢文調に表現しても、日本人にはどこか余所余所(よそよそ)しいものです。一方、土佐で娘と死別した悲しみを、「世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな」(正月十一日)と詠んでいます。どちらが日本人の心に訴えるかは、明々白々ではありませんか。 『土佐日記』には、土佐で亡くなった娘を悼む歌が十首あり、京に近付くにつれて頻繁に詠まれているところに、親の悲しみがよく表れています。地方官が在任中に家族を失い、帰洛途中でその悲しみを詠んだ歌と言えば、大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官)であった大伴旅人(家持の父)が妻に先立たれ、任を終えて帰京する船旅の途中に五首、帰宅してから三首も妻を悼む歌を詠んだことを連想します。(『万葉集』446~453)
ここに載せたのは、『土佐日記』最後の「帰京」の部分です。隣家に言いたいことは山程あったでしょうが、じっと堪えている様子に、貫之の性格が表れています。池のそばに植えられている松は、「子(ね)の日の小松」でしょう。当時は正月初子(はつね)の日に、野辺に出て小松を引き抜き、長寿を祈念して庭に植える風習がありました。だからこそ娘の死が松の哀れな姿に重なったのでしょう。隣に誰かが植えたか、自然に生い伸びたかわからない若松があれば、なおさらです。
愛する我が子を失う悲しみ、わけても晩年に授かった幼子に先立たれる悲しみは、「ものには順序という道理があるのに、代われるものなら」と、堪えがたかったことでしょう。こればかりは今も昔も経験した人にしかわからないことであり、何を以てしても慰められるものではありません。『土佐日記』には、亡児哀傷が終始一貫しているのです。
写本しか残っていませんが、全部で約一万二千五百字のうち漢字は約六十字しかないそうです。仮名が多いと意味を理解しづらいのですが、それが特徴ですから、ここでは敢えて漢字に直していません。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『土佐日記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。