うたことば歳時記

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『土佐日記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-05-03 20:20:40 | 私の授業
土佐日記


原文
 よふけてくれば、ところ〴〵もみえず。京にいりたちてうれし。いへにいたりて、かどにいるに、つきあかければ、いとよくありさまみゆ。きゝしよりもまして、いふかひなくぞこぼれやぶれたる。いへに、あづけたりつるひとのこゝろも、あれたるなりけり。「なかゞきこそあれ、ひとついへのやうなれば、のぞみてあづかれるなり」。「さるは。たよりごとに、ものもたえずえさせたり」。「こよひ、かゝること」ゝ、こわだかにものもいはせず。いとはつらくみゆれど、こゝろざしはせむとす。
 さて、いけめいてくぼまり、みづゝけるところあり。ほとりにまつもありき。いつとせむとせのうちに、千とせやすぎにけむ。かたへはなくなりにけり。いまおひたるぞまじれる。おほかたの、みなあれにたれば、「あはれ」とぞ、ひと〴〵いふ。おもひいでぬことなく、おもひこひしきがうちに、このいへにてうまれしをむなごの、もろともにかへらねば、いかゞはかなしき。ふなびとも、みなこたかりてのゝしる。
 かゝるうちに、なほかなしきにたへずして、ひそかにこゝろしれるひとゝいへりけるうた、
  むまれしもかへらぬものをわがやどにこまつのあるをみ  るがゝなしさ
とぞいへる。なほあかずやあらむ、またかくなむ、
  みしひとのまつのちとせにみましかばとほくかなしきわ  かれせましや
 わすれがたく、くちをしきことおほかれど、えつくさず。とまれかうまれ、とくやりてむ。

現代語訳
 夜も更けてきたので、あちこちの場所もよく見えない。それでも京に入るので、嬉しいことである。家に着いて門をくぐると、月が明るいので様子がとてもよく見える。かねて伝え聞いていた以上に、言葉にならない程ひどく壊れ傷んでいる。家を預けておいた人の心も、荒れすさんでいるのだ。「隔てる中垣はあるとはいえ、一つ屋敷のようなものだからと、お隣が望んで預かったのだ」。「そうだとも。ことあるごとに、お礼の品をいつも差し上げていたのに」。「(それなのに)今夜のこの有様は何ということだ」とは、(従者には)大声で言わせることはしない。お隣は大層薄情とは思うが、謝礼はしようと思う。
 さて(庭には)池のようにくぼんで、水がたまっている所がある。その側には松もあった。(留守にしていた)五、六年のうちに、千年も過ぎてしまったのだろうか。半分はなくなっているかと思えば、新しく生えた松も混じっている。あたりは一面にすっかり荒れ果ててしまっているので、「ああ、何ということだ」と人々は言う。思い出さないことなどなく、恋しく思うのは、この家で生まれた娘が、(土佐で死んでしまったために)一緒に帰らなかったことだ。何と悲しいことであろう。(それに比べて)同じ船の人たち(同じ船で一緒に帰京した人々)の周りには、子供が集まってはしゃいでいる。
 そのような騒ぎの中では、なおさら悲しさに堪えられず、気心の知れた人と、「この家で生まれた娘でさえも帰ってこないというのに、留守中に我が家に生えた、小さな松が生えているのを見ると、かえって悲しいことだ」と、密かに歌を詠み交わした。しかしそれでも思いを尽くせず、「亡くなった娘が、千代の松のように生き長らえていてくれたならば、遠く土佐で悲しい別れをすることもなかったのに」と詠んだ。忘れられない心残りなことが多いが、書き尽くすことなどとてもできはしない。何はともあれ、(このような日記は)早く破り棄ててしまおう。

解説
『土佐日記(とさにつき)』は、紀貫之(きのつらゆき)(?~945?)が土佐国司の任期を終えて、十二月二一日に任地を出発し(実際の船出は二六日)、翌年二月十六日に帰京するまでの五五日間の船旅を、一日も欠かさず記した紀行文で、和文による最初の日記文芸です。ただしかなり虚構が混じっています。実際に土佐国司であったのは延長八年(930)から承平五年(935)までで、帰京時の年齢は六十余歳ですから、国司としてはかなり高齢です。
 女性に仮託されていることについて、作者が貫之であることを隠蔽するためという説がありましたが、貫之が作者であることは早くから知れ渡っていました。また男性官僚が和文で書くのは相応しくないとされていたためという説もありましたが、貫之は既に『古今和歌集』の仮名序を書いていました。読者を笑わせる諧謔であったという説もあります。またそもそも冒頭部が「日記は男が書くものと聞いているが、女も書いてみようと思って」という意味ならば、「男のすなる」となるはずであるのに、なぜ「男も」なのかという問題もあります。しかし結局は、男性官人が日記には書けない内面的心情を書くためというあたりに落ち着くのではと思います。
 微妙な心情を漢文で表現することは、日本人には難しいものです。しかし仮名ならば話すことと書くことが一致しますから、容易にできます。現代でも、助詞の使い方次第で、性別や年齢や微妙な情況を言い分けられるように、微妙な心情の描写には、今も昔も仮名文字の使用が不可欠なのです。貫之は歌人でもありますから、仮名表記による大和言葉こそ、「こころ」を表せる媒体であることをよくよく知っていました。だからこそ、仮名で和歌以外の文芸を書くために、書き手を女性に設定して書き始めたのではないでしょうか。
 漢文と和文による感情表現の例を上げてみましょう。大層悲しいことを、「紅涙(血涙)に沈む」と漢文調に表現しても、日本人にはどこか余所余所(よそよそ)しいものです。一方、土佐で娘と死別した悲しみを、「世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな」(正月十一日)と詠んでいます。どちらが日本人の心に訴えるかは、明々白々ではありませんか。 『土佐日記』には、土佐で亡くなった娘を悼む歌が十首あり、京に近付くにつれて頻繁に詠まれているところに、親の悲しみがよく表れています。地方官が在任中に家族を失い、帰洛途中でその悲しみを詠んだ歌と言えば、大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官)であった大伴旅人(家持の父)が妻に先立たれ、任を終えて帰京する船旅の途中に五首、帰宅してから三首も妻を悼む歌を詠んだことを連想します。(『万葉集』446~453)
 ここに載せたのは、『土佐日記』最後の「帰京」の部分です。隣家に言いたいことは山程あったでしょうが、じっと堪えている様子に、貫之の性格が表れています。池のそばに植えられている松は、「子(ね)の日の小松」でしょう。当時は正月初子(はつね)の日に、野辺に出て小松を引き抜き、長寿を祈念して庭に植える風習がありました。だからこそ娘の死が松の哀れな姿に重なったのでしょう。隣に誰かが植えたか、自然に生い伸びたかわからない若松があれば、なおさらです。
 愛する我が子を失う悲しみ、わけても晩年に授かった幼子に先立たれる悲しみは、「ものには順序という道理があるのに、代われるものなら」と、堪えがたかったことでしょう。こればかりは今も昔も経験した人にしかわからないことであり、何を以てしても慰められるものではありません。『土佐日記』には、亡児哀傷が終始一貫しているのです。
 写本しか残っていませんが、全部で約一万二千五百字のうち漢字は約六十字しかないそうです。仮名が多いと意味を理解しづらいのですが、それが特徴ですから、ここでは敢えて漢字に直していません。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『土佐日記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。







『浮世風呂』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-05-02 09:06:27 | 私の授業
浮世風呂


原文
 惣(すべ)て銭湯に五常(ごじよう)の道あり。湯を以て身を温め、垢(あか)を落し、病を治(ぢ)し、草臥(くたびれ)を休むるたぐひ、則(すなわち)仁なり。桶のお明(あき)はござりませぬかと、他(ひと)の桶に手をかけず、留桶(とめおけ)を我儘(わがまま)に使はず、又は急で明(あけ)て貸すたぐひ、則(すなわち)義也。田舎者でござい、冷物(ひえもの)でござい、御免なさいと言ひ、或はお早い、お先へと演(の)べ、或はお静に、お寛(ゆる)りなどいふたぐひ、則礼なり。糠(ぬか)洗粉軽石糸瓜(へちま)皮にて垢を落し、石子(いしころ)で毛を切るたぐひ、則智也。あついと言へば水をうめ、ぬるいと言へば湯をうめる、お互に背後(せなか)をながし合ふたぐひ、則信也。

 四十余(あまり)の男、六つばかりの男の子の手をひき、猿廻(さるまわし)のやうに背中へ負(おい)しは、三つばかりの女の子。竹でこしらえたる持遊びの手桶と、焼物の亀子(かめのこ)を持たせて、生鈍(なまのろ)い口拍子。「よい〳〵〳〵よ、アそりゃ〳〵来たぞ。御湯(おぶう)はどこだ。兄さんヤ、転(ころ)びなさんなよ。能(よ)く下を見てお歩きよ。アよい〳〵〳〵よ。ア御湯(おぶう)はこゝだ。そりゃ〳〵穢物(ばばつちい)だ〳〵。飛だりとんだり。ヲゝ穢(きた)なや〳〵。コレ、兄さんはの、犬(わんわん)の穢物(ばばつちい)を踏(ふも)うとしたよ。坊(ぼう)はお父(とつ)さんに御負(おんぶ)だから能(いい)の。背中の妹「坊おんぶ」。「ヲゝ、ヲゝ、坊は父(ちやん)におんぶ、兄さんは歩行(あんよ)。サア下(おんり)しな。コリャ〳〵待(まつ)たり〳〵。転(ころ)ぶよ〳〵。サア、兄さんひとりで衣(べべ)を脱(ぬぎ)な。坊の衣(べべ)は父(ちやん)が脱(ぬが)せる。ソリャ、手を抜(ぬい)たり」。兄「俺(おいら)はモウ衣(べべ)を脱(ぬい)だよ」。

現代語訳
 そもそも銭湯には、人が踏み行うべき仁・義・礼・智・信の五つの徳があります。湯で身体を温め、垢を落とし、病を癒して疲労した身体を労ることは、思いやりの心である「仁」の徳です。「空いている桶はありませんか」と言っては、他の人の桶を使わず、「留桶」(客が銭湯に置いている個人専用の桶)を勝手に使わず、使い終わったらすぐに戻すことは、道理を弁える「義」の徳です。「田舎者ですので、無礼があったらお許しを」、「身体が冷えているものですから」、「御免なさいね」、「お早いですね」、「じゃあお先に」とか、「お静かに」、「ごゆっくり」などと声をかけるのは、慎み深い心である「礼」の徳です。糠袋、洗い粉、軽石、糸瓜で擦って垢を落とし、小石で陰毛を切るようなことは、工夫を凝らす「智」の徳です。誰かが「熱い」と言えば水を足し、「温い」と言えば熱い湯を足して、背中を流し合うようなことは、お互い信頼し合う「信」の徳です。

 四十歳くらいの男が、六歳くらいの男の子の手を引き、猿廻しの猿のように背負っているのは、三歳くらいの女の子。竹でこしらえたおもちゃの手桶と、焼物の亀の子を持たせて、のんびりとした口調で、「よいよいよいよ、あ、そりゃそりゃ来たぞ。お風呂はどこだ。兄さんや、転びなさんなよ。よく下見てお歩きよ。あ、よいよいよいよ、あ、お風呂はここだ。そりゃそりゃ、ばばっちい、ばばっちいだ。跳び越せ、跳び越せ。おお、汚(きたな)いきたない。これこれ、兄さんはね、ワンワンのうんこを踏みそうだったよ。おまえは父さんにおんぶしてるからいいの」。背中の妹「わたしは、おんぶ」。「ああ、そうそう、おまえは父さんにおんぶ。兄さんはあんよ。さあおんりしな。これこれ、待て待て、転ぶよ、転んじゃうよ。さあ、兄さんは一人で服を脱ぎなよ。おまえのは父さんが脱がせてやる。そうれ、手を抜いてごらん」。兄「おいらはもう服脱いじゃったよ」。

解説
 『浮世風呂(うきよぶろ)』は、滑稽本の作家である式亭三馬(しきていさんば)(1776~1822)の代表作で、江戸庶民の社交場でもある銭湯(湯屋)を舞台として、軽妙な会話により、庶民の日常生活を面白おかしく活写しています。文化六年(1809)に出版された初編の「男湯之巻」が大好評となり、その後、第二編の「女湯之巻」を経て、文化十年(1813)には第四編の「男湯再編」まで続きました。
 江戸の市民生活には、入浴は欠かすことができないものですが、防火には気を付けなければならず、内風呂は設備が大がかりですから、庶民の家に風呂を据えることなどできませんでした。しかも江戸っ子は熱湯好きですから、庭先の行水では満足できません。それで頻繁に銭湯に通うことになり、銭湯が市民の社交場となっていたのです。
 『守貞謾稿(もりさだまんこう)』という江戸時代後期の風俗誌などによれば、天保の頃、江戸には「おほむね一町一戸」、五七〇の銭湯があったということです。休業日は月に一日、それ以外は朝六時頃から夜八時頃まで営業していました。入浴料は天保の頃には大人八文、子供六文、幼児四文が普通で、冬期の増銭はありませんでした。また「留(とめ)湯(ゆ)」と称して、一四八銭を払えば、月に何度でも入れました。二日に一回入れば元が取れるという計算です。一文は現在の二十円~三十円くらいです。
 ここに載せたのは、前半が巻頭の「浮世風呂大意」で、銭湯の徳を、朱子学の五常の徳である仁・義・礼・智・信に擬えて、わざと大真面目に説いているところが何とも滑稽です。後半は「男湯之巻」の「朝湯の光景(ありさま)」の一部で、父親と二人の子供・が朝から銭湯に行く場面です。満年齢に直すなら、男の子は満四~五歳、女の子は一~二歳ということになります。この場面は親子の会話ですから、幼児語がたくさんあります。お湯を「おぶ」、汚いことを「ばばっちい」(ばっちい)、犬を「わんわん」、服を「べべ」、背負うことを「おんぶ」、父親のことを「ちゃん」、歩くことを「あんよ」、降りることを「おんり」などは、現代でも普通に使われています。ここには載せていませんが、他にも「腹(ぽんぽん)」「小便(しい)」「ねんね」がありました。
 また興味深いのは、女の子を「坊」と呼んでいることです。「坊や」と言う言葉は、現在では男の子に対する呼称ですが、女の子にも使われているのです。平安時代以来、赤子は生まれると七日目には頭の毛をみな剃ってしまいます。それは発熱した際に熱を冷ますためと理解されていました。山東京伝の『歴世女装考』には、「小児は熱を以て育つ事天性なれば、盛んなる熱を漏らさん為に」と記されています。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『浮世風呂』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。