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『歌よみに与ふる書』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-05-29 16:21:44 | 私の授業
歌よみに与ふる書


原文
 仰(あおせ)の如く、近来和歌は一向に振ひ申さず候。正直に申し候へば、万葉以来、実朝以来、一向に振ひ申さず候。実朝といふ人は三十にも足(た)らで、いざ是(これ)からといふ処にて、あへなき最期を遂げられ、誠に残念致(いたし)候。あの人をして今十年も活かして置いたなら、どんなに名歌を沢山残したも知れ申さず候。兎(と)に角(かく)に第一流の歌人と存(ぞんじ)候。強(あなが)ち人丸(ひとまろ)(柿本人麻呂)赤人(あかひと)(山部赤人)の余唾(よだ)を舐(ねぶ)るでも無く、固(もと)より貫之定家の糟粕(そうはく)(残った粕(かす)、命のない外形)をしゃぶるでも無く、自己の本領屹然(きつぜん)(そびえること)として、山嶽と高きを争ひ、日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず(思わず)膝を屈するの思ひ之(これ)有(あり)候。古来凡庸の人と評し来りしは、必ず誤なるべく、北条氏を憚(はばか)りて韜晦(とうかい)(才能を包み隠すこと)せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚(おぼえ)候。
 人の上に立つ人にて、文学技芸に達したらん者は、人間として下等の地に居るが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違之(これ)無(なく)候。何故と申すに、実朝の歌は只(ただ)器用といふのでは無く、力量あり、見識あり、威勢あり、時流に染まず、世間に媚(こ)びざる処、例の物数奇(ものすき)連中や、死に歌よみの公卿達と、迚(とて)も同日には論じ難(がた)く、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵(まぶち)(賀茂真淵)は力を極みて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存(ぞんじ)候。

 貫之(つらゆき)は下手(へた)な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に之有候。其(その)貫之や古今集を崇拝するは、誠に気の知れぬことなどゝ申すものゝ、実は斯(か)く申す生(せい)(私)も、数年前迄(まで)は古今集崇拝の一人にして候ひしかば、今日世人(せじん)が古今集を崇拝する気味合(きみあい)は、能(よ)く存(ぞんじ)申(もうし)候。崇拝して居る間は、誠に歌といふものは優美にて、古今集は殊に其(その)粋を抜きたる者とのみ存(ぞんじ)候ひしも、三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地(いくじ)の無い女に今迄ばかされて居った事かと、くやしくも腹立たしく相成(あいなり)候。
 先づ古今集といふ書を取りて第一枚を開くと、直ちに「去年(こぞ)とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る。実に呆(あき)れ返った無趣味の歌に之有候。日本人と外国人との合(あい)の子を、日本人とや申さん、外国人とや申さんとしゃれたると同じ事にて、しゃれにもならぬつまらぬ歌に候             
解説
 『歌よみに与(あた)ふる書』は、俳人の正岡子規(まさおかしき)(1867 ~ 1902)が明治三一年(1898)の二月から三月にかけて、新聞「日本」に連載した歌論です。明治三十年には俳句雑誌『ほとゝぎす』(後に『ホトヽギス』)を創刊し、俳句の革新運動を始めていましたが、短歌の革新運動にも乗りだします。その契機となったのが、一連の『歌よみに与ふる書』なのです。余りに過激な論調に、読者からの質問や批判が殺到し、子規はそれに応える形で、十回まで連載をしました。
 子規は紀貫之と『古今和歌集』を批判していますが、最後までよく読めば、子規が最も厳しく批判しているのは、『古今和歌集』を十年一日の如く漫然と崇拝している歌人達であることがわかります。また子規の短歌・俳句論は、一般には主観を退け客観的な「写生」を重視したと説かれていますが、彼は『六たび歌よみに与ふる書』において、「生(せい)(私)が排斥するは主観中の理窟の部分にして、感情の部分にはこれ無く候」と述べています。子規が非難しているのはあくまで理屈をこねた短歌や俳句であって、自ずから湧いてくる主観まで退けているわけではありません。ただし「されば生は客観に重きを置く者にてもこれなく候。但し和歌俳句の如き短き者には、主観的佳句よりも客観的佳句多しと信じをり候」とは述べています。
 子規の言葉は大層力強いのですが、現実の生活では、明治三十年から脊椎(せきつい)カリエスという病で、寝たきりの状態が続いています。溢れ出る膿(うみ)を拭うのにも、激痛のため絶叫する程の闘病が続いていました。そして明治三十五年(1902)には三五歳で亡くなります。短歌や俳句の革新を迫る激しい言葉は、そのような病床から呻きと共に絞り出されました。子規は『歌よみに与ふる書』を連載した年に、「神の我に歌をよめとぞのたまひし病に死なじ歌に死ぬとも」と詠んでいます。これは「歌に死ぬなら本望である」という決意表明でしょうが、実際の事でもあったのです。
 ここに載せたのは、前半は連載一回目の『歌よみに与ふる書』の冒頭部分で、源実朝を極めて高く評価しています。実朝は藤原定家から『万葉集』を贈られ、よく学んでいましたから、その影響を受けたことは確かです。ですから『万葉集』の研究に生涯を捧げた賀茂真淵は、実朝を高く評価していました。しかし実朝の『金槐和歌集』には、『万葉集』だけでなく、『古今和歌集』や『新古今和歌集』などから本歌取りした歌が極めて多く、真淵や子規の評価は少々過大かもしれません。
 後半は連載二回目の『再び歌よみに与ふる書』の冒頭部分です。批判されている歌は『古今和歌集』の巻頭の、「年の内に春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とや言はむ今年とや言はむ」という歌で、十二月中に新年の立春となることのおかしさを詠んでいます。これは年内立春といい、旧暦では二~三年に一度位の割で起きることで、珍しくはありません。子規が最も排撃したのは、まさにこの様な理屈っぽい歌でした。
 歴史上で革新的な業績を残した人の言動には、得てして過激なことが多いものです。抵抗が大きいだけに、それを打破するためには、激し過ぎるくらいのエネルギーが必要だからです。しかし行き過ぎがあったとしても、いずれ「歴史」と言う時間が、それを揺り戻してくれます。
 子規はさんざん紀貫之を貶していますが、最後に子規が褒めた貫之の歌を一首上げておきましょう。「思ひかね妹がり行けば冬の夜の河風寒み千鳥鳴くなり」(『拾遺和歌集』)。「恋しい思いに耐え兼ねて、愛する人のもとへ出かけて行くと、冬の夜の川風が寒いので、千鳥が鳴く声が聞こえる」という意味です。子規は『再び歌詠みに与ふる書』において、「此歌ばかりは趣味ある面白き歌に候。併し外にはこれ位のもの一首もあるまじく候」と述べています。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『歌よみに与ふる書』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。