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『玉勝間』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-05-21 08:16:19 | 私の授業
玉勝間


原文
 おのれ古典(いにしえぶみ)を説くに、師の説と違(たが)へること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへ言ふことも多かるを、いとあるまじき事と思ふ人多かめれど、これすなはち我が師の心にて、常に教へられしは、「後によき考えの出来(いでき)たらむには、必ずしも師の説に違(たが)ふとて、なはゞかりそ」となむ、教へられし。此(こ)はいと貴(とうと)き教へにて、我が師の世にすぐれ給へる一つなり。
 おほかた古(いにしえ)を考ふる事、さらに一人二人の力もて、こと〴〵く明(あき)らめ尽くすべくもあらず。またよき人の説ならむからに、多くの中には誤りもなどかなからむ。必ずわろきことも混じらではえあらず。その己(おの)が心には、「今は古の心こと〴〵く明らかなり。これをおきては、あるべくもあらず」と、思ひ定めたることも、思ひの外(ほか)に、又人の異なるよき考へも出来(いでく)るわざなり。あまたの手を経(ふ)るまに〳〵、先々の考えの上を、なほよく考へきはむるからに、次々に詳しくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、必ずなづみ守るべきにもあらず。よきあしきを言はず、ひたぶるに古きを守るは、学問の道には、言ふかひなきわざなり。
 又己(おの)が師などのわろきことを言ひ表すは、いとも畏(かしこ)くはあれど、それも言はざれば、世の学者その説に惑ひて、長くよきを知る期(ご)なし。師の説なりとて、わろきを知りながら、言はずつゝみ隠して、よさまに繕(つくろ)ひをらむは、たゞ師をのみを貴(とうと)みて、道をば思はざるなり。
 宣長は道を貴(とうと)み古を思ひて、ひたぶるに道の明らかならむ事を思ひ、古の意(こころ)のあきらかならむことを主(むね)と思ふが故に、わたくしに師を貴(とうと)むことわりの欠けむことをば、えしも顧みざることあるを、猶(なお)わろしと、謗(そし)らむ人はそしりてよ。其(そ)はせむかたなし。我は人に謗られじ、よき人にならむとて、道を曲(ま)げ、古の意(こころ)をまげて、さてあるわざはえせずなむ。これすなはち我が師の心なれば、かへりては師を貴(とうと)むにもあるべくや。其(そ)は如何にもあれ。

現代語訳
 私が古典を説くに当たり、師(賀茂真淵)の説と違うことが多く、師の説に誤りがあるのを、見分けて言うことが多いのだが、(弟子として)とんでもないことだと思う人が多いようである。しかしこれは私の師の意図するところであり、いつも教えて下さったのは、「あとで良い考えが出て来た時には、必ずしも師の説と違うからといって、遠慮することはない」ということであった。これは大層尊い教えであり、私の師が学問の世で優れておられたことの一つである。
 そもそも古(いにしえ)を研究することは、一人二人の力で、全てを明らかにし尽くせるものではない。また優れた学者の説でも、多くの説の中には、どうして誤りが無いと言えようか。いや、決して誤りが混じらないというわけにはいかないものである。その人自身の心には、「今はもう古の精神は、全て明らかである。自分の説の外(ほか)に、正しい説はあるはずもない」と思い込んでも、思いがけなく、他の人の違う良い考えが出てくるものである。(学問とは)多くの人の手を経ることにより、前の人々の考え以上のことを、さらによく考え究めるので、次第に詳しくなるのであるから、師の説だからといって、必ずこだわり守らねばならないというわけではない。その説の良し悪しを問題にせず、ひたすら旧説を守るのは、学問の道では意味がない。
 また自分の師の誤りをはっきりと言うのは、大層畏れ多いことではあるが、それを言わなければ、世の中の学者はその説に惑わされ、長い間良い説を知る時がない。師の説だからといって、誤りを知りながら言わずに包み隠し、体裁を取り繕うのは、ただ師を敬っているだけであって、学問の道を思っていないのである。
 私、宣長は、学問の道を尊び、古を思い、ひたすらに古の意(こころ)が明らかになることを思い、古の精神が明らかになることを第一に考えているから、個人的には師を敬うという道理が欠けていることを、顧みなていられないことがある。それを悪いことであると、非難する人はすればよろしい。それは仕方がないことである。私は人に非難されまい、良い人になろうとして、(かえって)学問の道を曲げ、古の意(こころ)を曲げてまで、そのままでいることは、とうていできないのである。これはとりもなおさず我が師の教えであるから、むしろ師を敬うことではないか。そんなことはどうでもよい。

解説
 『玉勝間(たまがつま)』は、国学者である本居宣長(もとおりのりなが)(1730~1801)の随筆で、寛政七年(1795)から、宣長没後の文化九年(1812)の間に、順次出版されました。「かつま」とは編み目の細かい籠のことで、宣長自身が「玉賀都万(たまがつま)」と訓(よ)んでいます。巻頭に「言草(ことくさ)のすゞろにたまる玉がつまつみてこゝろを野べのすさびに」という歌が記されています。「草稿がたまったので、摘んで籠に編もう。そして思うことを述べれば、野辺の楽しい遊びとなることだろう」という意味です。
 ここに載せたのは、二の巻の 「師の説になづまざること」という話です。宣長が師の真淵と会ったのは、宝暦十三年(1763)五月二五日の夜一回だけです。真淵が主君の田安宗武(たやすむねたけ)(松平定信の父)の命により、大和国の古跡調査の帰路、宣長のいる松坂に宿泊したのですが、その時宣長は宿所を訪ねました。時に宣長三四歳、真淵六七歳でした。そして明和六年(1769)に賀茂真淵が亡くなるまで足かけ七年にわたり、数十通の手紙の往復による師弟の交流が続きました。
 宣長が真淵の説を否定したことでよく知られているのは、真淵が『万葉集』を男性的でおおらかな歌風であるとして、それを「ますらをぶり」と称して高く評価し、平安時代の文芸を女性的で優美繊細であるとして、「たをやめぶり」と称して貶(おとし)めたのに対して、宣長は勅撰和歌集や『源氏物語』を高く評価したことです。そして宣長は、「見る物聞く事なすわざにふれて情(こころ)の深く感ずる事」(『石上(いそのかみ)私淑(ささめ)言(ごと)』、目に見、耳に聞いて自ずから生じるしみじみとした情趣)を「ものゝあはれ」と称し、平安時代以来の日本文芸の美的概念を提唱しました。また宣長が古今調・新古今調の歌を送って添削を求めると、巧みな歌は賤しいとして、万葉調でない事に激怒し、『万葉集』について師説と異なる説を書き送ると、「向後(今後)小子に御問も無用の事也」と、絶縁ともとれる程に叱責する返事を送っています。
 しかし破門寸前まで叱責されても、師弟の絆は切れませんでした。真淵がいろいろ書き込んだ『古事記』などを貸して欲しいという、宣長の虫のよい要求にも応えていますし、宣長の質問状に対して、余白に朱書して答えています。それに対して宣長も、江戸に住んでいた弟を通して、真淵に対して謝金や松坂の名物を贈って感謝しています。宣長の師に対する敬意がより勝(まさ)っていたのでしょう。真淵に出会ったことが契機となった『古事記』の研究は、三十余年後に『古事記伝』として結実します。
 なお『玉勝間』にはこの「師の説になづまざる事」に続き、「わがをしへ子にいましめおくやう」という話が記されています。そこには、「良い考えが浮かんだなら、たとえ師(宣長)説と違っていても、その良い考えを広めよ。私が教えるのは道を明らかにすることであって、師を敬うのは私の意図するところではない」と述べています。宣長は、師から学んだことを、身を以て弟子に伝えようとしているのです。


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