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『枕草子』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-05-13 09:02:23 | 私の授業
枕草子


原文
 例ならず仰せ言などもなくて、日比(ひごろ)になれば、心細くてうちながむる程に、長女(おさめ)、文(ふみ)を持て来たり。「御前(おまえ)より、宰相(さいしよう)の君して、忍びて給はせたりつる」と言ひて、こゝにてさへひき忍ぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれて疾(と)く開(あ)けたれば、紙にはものも書かせ給はず、山吹の花びらたゞ一重を包ませ給へり。
 それに、「言はで思ふぞ」と書かせ給へる、いみじう、日比の絶間(たえま)嘆かれつる、みな慰めてうれしきに、長女(おさめ)もうちまもりて、「御前には、いかゞ、ものゝをりごとに、おぼし出できこえさせ給ふなるものを。誰もあやしき御長居(ながい)とこそ侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」と言ひて、「こゝなる所に、あからさまにまかりて、参らむ」と言ひて往(い)ぬる後、御返事(おんかえりごと)書きて参らせむとするに、この歌の本(もと)さらに忘れたり。
 「いとあやし。同じ故事(ふるごと)と言ひながら、知らぬ人やはある。たゞこゝもとにおぼえながら、言ひ出でられぬはいかにぞや」など言ふを聞きて、前に居たるが(能因本では「小さき童が」)、「『下ゆく水』とこそ申せ」と言ひたる、などかく忘れつるならむ。これに教へらるゝもをかし。

現代語訳
 いつもと異なり、(「参れ」という)仰せのお言葉もないままに、何日も経ちますので、心細く物思いにふけっておりますと、長女(おさめ)(下級女官の長)が手紙を持って来ました。「中宮様から宰相の君(中宮の女房の一人?)を通して、こっそりと下されたお手紙でございます」と言って、ここ(私の家)に来てさえも人目を避けようとしているのは、あまりのことです。人伝(ひとづて)の御言葉ではない(代筆ではない)ように思われ、胸をどきどきさせながらすぐに開けたところ、紙には何もお書きにならず、山吹の花びらただ一枚をお包みになられています。
 それには「言はで思ふぞ」(言葉に出さなくても、あなたのことを思っています)とお書きになられているのを見ると、本当にまあ、しばらくの間御無沙汰して寂しかったことも、全て慰められて喜んでいると、長女も私を見つめて、「中宮様には、どれ程か何かにつけて、(あなた様のことを)思い出していらっしゃるそうですのに。(女官達は)誰もが、あなた様の里居(さとい)が長いのを、訝しく思っております。どうして(中宮様のもとに)参上なさらないのですか」と言って、「(お返事を書くのに時間がかかるでしょうから)その辺にしばらく寄ってから戻って参りましょう」と言って立ち去った後、御返事を書いて差し上げようとしたのですが、この歌の上の句をすっかり忘れてしまいました。
 「何ともおかしなことです。古い歌とはいえ、この歌を知らない人がいるでしょうか。ここら辺りまで思い出していながら、言い出せないのはどうしたことでしょう」と私が言うのを聞いて、私の前にいる幼い女の子が、「それは『下行く水の』と申します」と言いました。どうしてこれ程までに忘れてしまったのでしょうか。(こういうことを)小さな子に教えられるというのも、(我ながら)おかしなことです。

解説
 『枕草子(まくらのそうし)』は、一条天皇が寵愛するの中宮定子(後に皇后、977~1001)に仕えた、清少納言(?~?)の随筆です。書名の「草子」とは、巻子(かんす)(巻物)に対する「冊子(さつし)」が訛った言葉ですから、鍵は「枕」にあります。そのヒントは、伝本により多少文言が違いますが、『枕草子』の巻末にあります。定子が兄の内大臣伊周(これちか)から美しい紙をもらったのですが、定子が「これに何を書きましょうか。お上(一条天皇)は『史記』を書写しておられますが」と言うと、少納言は「枕にこそは侍らめ」(「枕でございましょう」)と答えました。そして「さは、得てよ」(「それなら、そなたにつかわそう」)と、定子は少納言に紙を与えます。そしてそれがきっかけで書いたということになっているのですが、「枕」の解釈については、寝具、枕元、季節、歌枕、枕元に置く備忘録など、諸説があります。
 清少納言が宮仕えを始めたのは正暦四年(993)で、定子は十七歳、清少納言は二八歳前後のことです。明朗快活で賢い定子は、才智にあふれ、打てば響く対応のできる清少納言が大のお気に入り。しかし長徳元年(995)、定子の父である藤原道隆が四三歳で亡くなってしまいます。すると翌年正月、定子の兄伊周(これちか)と弟の隆家の従者が、花山法皇を弓で射て、従者の童二人を殺してしまうという不祥事を起こしてしまいます。そして四月には大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷されることになり、失意の定子は妊娠中にもかかわらず、即日宮中を出て実家の二条の宮に移り、自ら落飾(出家)してしまいます。そしてさらに六月には、定子の住む二条の宮が全焼してしまうのです。この頃、清少納言は、伊周と対立していた道長に近い立場であるという風評により、中宮の女房達から嫌われて、一時期宮仕えを中断したことがありました。そして同年十二月、定子は第一皇女を出産します。
 後盾となる父と兄弟と家を失った定子は、朝廷内に居場所がなくなりました。しかし長徳三年(997)、一条天皇は周囲の反対を押し切って再び定子を宮中に迎え、長保元年(999)に定子は一条天皇の第一皇子を出産します。これに危機感を覚えたのが道隆の弟の道長でした。何と同日に道長は娘の彰子を女御(にようご)とし、翌年二月にはさらに彰子を中宮としたので、定子は横滑りして皇后ということになったのです。「中宮」は本来は皇后の宮殿のことですから、この場合は両者は事実上同格となります。しかし同年十二月十五日、定子は第二皇女出産し、翌日には二四歳の若さで亡くなってしまったのです。清少納言が宮仕えを辞去したのは、その翌年のことでした。
 ここに載せたのは一三六段(新日本文学大系)で、江戸時代によく読まれた能因本では一四六段です。清少納言は一時期、前記のような理由で出仕を中断し、里居(さとい)をしていたのですが、定子にとってはそれが寂しくてなりません。それで再出仕を促すために、その心を伝えようと、「心には(地下水のように)下ゆく水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる」(『古今和歌六帖』)というよく知られた歌の一句を、微細な文字で認(したた)めた山吹の花びらを包んでよこしたのです。「口にこそ出しませんが、あなたを思う心は口に出すよりまさっているのです」という、定子の優しく機知にあふれた愛情を、清少納言は一瞬にして悟り、思わず涙があふれたという場面です。
 山吹には隠された意味がありました。いわゆる山吹色は梔子(くちなし)の実で染められる色で、梔子はその音から「口無し」と理解されていました。つまり「言葉には出して言わない」ことを色で表しているのです。『古今和歌集』(1012番歌)には、梔子を返事のない恋人と理解する歌があり、当時の和歌を詠む程の人になら、誰もが知っていることでした。それでも咄嗟に梔子色の山吹の花を思い付いた定子の機知と、それを即座に理解する清少納言だからこそ成り立つことなのです。なおなおここには載せていない部分の記述から、季節は秋ではないかとの指摘があるのですが、山吹は季節外れの狂い咲きが大層多い花で、決してあり得ないことではありません。
 「まづ知るさま」は、『古今和歌集』(941番歌)の「世の中に憂きもつらきも告げなくにまず知るものは涙なりけり」という歌によるもので、「涙を流して泣く」ことを表しています。このように『枕草子』の魅力の一つは、定子と清少納言の愛情と信頼に結ばれた主従関係と、そこに、綺羅(きら)、星の如く散りばめられた機知なのです。



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