枕草子
原文
例ならず仰せ言などもなくて、日比(ひごろ)になれば、心細くてうちながむる程に、長女(おさめ)、文(ふみ)を持て来たり。「御前(おまえ)より、宰相(さいしよう)の君して、忍びて給はせたりつる」と言ひて、こゝにてさへひき忍ぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれて疾(と)く開(あ)けたれば、紙にはものも書かせ給はず、山吹の花びらたゞ一重を包ませ給へり。
それに、「言はで思ふぞ」と書かせ給へる、いみじう、日比の絶間(たえま)嘆かれつる、みな慰めてうれしきに、長女(おさめ)もうちまもりて、「御前には、いかゞ、ものゝをりごとに、おぼし出できこえさせ給ふなるものを。誰もあやしき御長居(ながい)とこそ侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」と言ひて、「こゝなる所に、あからさまにまかりて、参らむ」と言ひて往(い)ぬる後、御返事(おんかえりごと)書きて参らせむとするに、この歌の本(もと)さらに忘れたり。
「いとあやし。同じ故事(ふるごと)と言ひながら、知らぬ人やはある。たゞこゝもとにおぼえながら、言ひ出でられぬはいかにぞや」など言ふを聞きて、前に居たるが(能因本では「小さき童が」)、「『下ゆく水』とこそ申せ」と言ひたる、などかく忘れつるならむ。これに教へらるゝもをかし。
現代語訳
いつもと異なり、(「参れ」という)仰せのお言葉もないままに、何日も経ちますので、心細く物思いにふけっておりますと、長女(おさめ)(下級女官の長)が手紙を持って来ました。「中宮様から宰相の君(中宮の女房の一人?)を通して、こっそりと下されたお手紙でございます」と言って、ここ(私の家)に来てさえも人目を避けようとしているのは、あまりのことです。人伝(ひとづて)の御言葉ではない(代筆ではない)ように思われ、胸をどきどきさせながらすぐに開けたところ、紙には何もお書きにならず、山吹の花びらただ一枚をお包みになられています。
それには「言はで思ふぞ」(言葉に出さなくても、あなたのことを思っています)とお書きになられているのを見ると、本当にまあ、しばらくの間御無沙汰して寂しかったことも、全て慰められて喜んでいると、長女も私を見つめて、「中宮様には、どれ程か何かにつけて、(あなた様のことを)思い出していらっしゃるそうですのに。(女官達は)誰もが、あなた様の里居(さとい)が長いのを、訝しく思っております。どうして(中宮様のもとに)参上なさらないのですか」と言って、「(お返事を書くのに時間がかかるでしょうから)その辺にしばらく寄ってから戻って参りましょう」と言って立ち去った後、御返事を書いて差し上げようとしたのですが、この歌の上の句をすっかり忘れてしまいました。
「何ともおかしなことです。古い歌とはいえ、この歌を知らない人がいるでしょうか。ここら辺りまで思い出していながら、言い出せないのはどうしたことでしょう」と私が言うのを聞いて、私の前にいる幼い女の子が、「それは『下行く水の』と申します」と言いました。どうしてこれ程までに忘れてしまったのでしょうか。(こういうことを)小さな子に教えられるというのも、(我ながら)おかしなことです。
解説
『枕草子(まくらのそうし)』は、一条天皇が寵愛するの中宮定子(後に皇后、977~1001)に仕えた、清少納言(?~?)の随筆です。書名の「草子」とは、巻子(かんす)(巻物)に対する「冊子(さつし)」が訛った言葉ですから、鍵は「枕」にあります。そのヒントは、伝本により多少文言が違いますが、『枕草子』の巻末にあります。定子が兄の内大臣伊周(これちか)から美しい紙をもらったのですが、定子が「これに何を書きましょうか。お上(一条天皇)は『史記』を書写しておられますが」と言うと、少納言は「枕にこそは侍らめ」(「枕でございましょう」)と答えました。そして「さは、得てよ」(「それなら、そなたにつかわそう」)と、定子は少納言に紙を与えます。そしてそれがきっかけで書いたということになっているのですが、「枕」の解釈については、寝具、枕元、季節、歌枕、枕元に置く備忘録など、諸説があります。
清少納言が宮仕えを始めたのは正暦四年(993)で、定子は十七歳、清少納言は二八歳前後のことです。明朗快活で賢い定子は、才智にあふれ、打てば響く対応のできる清少納言が大のお気に入り。しかし長徳元年(995)、定子の父である藤原道隆が四三歳で亡くなってしまいます。すると翌年正月、定子の兄伊周(これちか)と弟の隆家の従者が、花山法皇を弓で射て、従者の童二人を殺してしまうという不祥事を起こしてしまいます。そして四月には大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷されることになり、失意の定子は妊娠中にもかかわらず、即日宮中を出て実家の二条の宮に移り、自ら落飾(出家)してしまいます。そしてさらに六月には、定子の住む二条の宮が全焼してしまうのです。この頃、清少納言は、伊周と対立していた道長に近い立場であるという風評により、中宮の女房達から嫌われて、一時期宮仕えを中断したことがありました。そして同年十二月、定子は第一皇女を出産します。
後盾となる父と兄弟と家を失った定子は、朝廷内に居場所がなくなりました。しかし長徳三年(997)、一条天皇は周囲の反対を押し切って再び定子を宮中に迎え、長保元年(999)に定子は一条天皇の第一皇子を出産します。これに危機感を覚えたのが道隆の弟の道長でした。何と同日に道長は娘の彰子を女御(にようご)とし、翌年二月にはさらに彰子を中宮としたので、定子は横滑りして皇后ということになったのです。「中宮」は本来は皇后の宮殿のことですから、この場合は両者は事実上同格となります。しかし同年十二月十五日、定子は第二皇女出産し、翌日には二四歳の若さで亡くなってしまったのです。清少納言が宮仕えを辞去したのは、その翌年のことでした。
ここに載せたのは一三六段(新日本文学大系)で、江戸時代によく読まれた能因本では一四六段です。清少納言は一時期、前記のような理由で出仕を中断し、里居(さとい)をしていたのですが、定子にとってはそれが寂しくてなりません。それで再出仕を促すために、その心を伝えようと、「心には(地下水のように)下ゆく水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる」(『古今和歌六帖』)というよく知られた歌の一句を、微細な文字で認(したた)めた山吹の花びらを包んでよこしたのです。「口にこそ出しませんが、あなたを思う心は口に出すよりまさっているのです」という、定子の優しく機知にあふれた愛情を、清少納言は一瞬にして悟り、思わず涙があふれたという場面です。
山吹には隠された意味がありました。いわゆる山吹色は梔子(くちなし)の実で染められる色で、梔子はその音から「口無し」と理解されていました。つまり「言葉には出して言わない」ことを色で表しているのです。『古今和歌集』(1012番歌)には、梔子を返事のない恋人と理解する歌があり、当時の和歌を詠む程の人になら、誰もが知っていることでした。それでも咄嗟に梔子色の山吹の花を思い付いた定子の機知と、それを即座に理解する清少納言だからこそ成り立つことなのです。なおなおここには載せていない部分の記述から、季節は秋ではないかとの指摘があるのですが、山吹は季節外れの狂い咲きが大層多い花で、決してあり得ないことではありません。
「まづ知るさま」は、『古今和歌集』(941番歌)の「世の中に憂きもつらきも告げなくにまず知るものは涙なりけり」という歌によるもので、「涙を流して泣く」ことを表しています。このように『枕草子』の魅力の一つは、定子と清少納言の愛情と信頼に結ばれた主従関係と、そこに、綺羅(きら)、星の如く散りばめられた機知なのです。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『枕草子』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
例ならず仰せ言などもなくて、日比(ひごろ)になれば、心細くてうちながむる程に、長女(おさめ)、文(ふみ)を持て来たり。「御前(おまえ)より、宰相(さいしよう)の君して、忍びて給はせたりつる」と言ひて、こゝにてさへひき忍ぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれて疾(と)く開(あ)けたれば、紙にはものも書かせ給はず、山吹の花びらたゞ一重を包ませ給へり。
それに、「言はで思ふぞ」と書かせ給へる、いみじう、日比の絶間(たえま)嘆かれつる、みな慰めてうれしきに、長女(おさめ)もうちまもりて、「御前には、いかゞ、ものゝをりごとに、おぼし出できこえさせ給ふなるものを。誰もあやしき御長居(ながい)とこそ侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」と言ひて、「こゝなる所に、あからさまにまかりて、参らむ」と言ひて往(い)ぬる後、御返事(おんかえりごと)書きて参らせむとするに、この歌の本(もと)さらに忘れたり。
「いとあやし。同じ故事(ふるごと)と言ひながら、知らぬ人やはある。たゞこゝもとにおぼえながら、言ひ出でられぬはいかにぞや」など言ふを聞きて、前に居たるが(能因本では「小さき童が」)、「『下ゆく水』とこそ申せ」と言ひたる、などかく忘れつるならむ。これに教へらるゝもをかし。
現代語訳
いつもと異なり、(「参れ」という)仰せのお言葉もないままに、何日も経ちますので、心細く物思いにふけっておりますと、長女(おさめ)(下級女官の長)が手紙を持って来ました。「中宮様から宰相の君(中宮の女房の一人?)を通して、こっそりと下されたお手紙でございます」と言って、ここ(私の家)に来てさえも人目を避けようとしているのは、あまりのことです。人伝(ひとづて)の御言葉ではない(代筆ではない)ように思われ、胸をどきどきさせながらすぐに開けたところ、紙には何もお書きにならず、山吹の花びらただ一枚をお包みになられています。
それには「言はで思ふぞ」(言葉に出さなくても、あなたのことを思っています)とお書きになられているのを見ると、本当にまあ、しばらくの間御無沙汰して寂しかったことも、全て慰められて喜んでいると、長女も私を見つめて、「中宮様には、どれ程か何かにつけて、(あなた様のことを)思い出していらっしゃるそうですのに。(女官達は)誰もが、あなた様の里居(さとい)が長いのを、訝しく思っております。どうして(中宮様のもとに)参上なさらないのですか」と言って、「(お返事を書くのに時間がかかるでしょうから)その辺にしばらく寄ってから戻って参りましょう」と言って立ち去った後、御返事を書いて差し上げようとしたのですが、この歌の上の句をすっかり忘れてしまいました。
「何ともおかしなことです。古い歌とはいえ、この歌を知らない人がいるでしょうか。ここら辺りまで思い出していながら、言い出せないのはどうしたことでしょう」と私が言うのを聞いて、私の前にいる幼い女の子が、「それは『下行く水の』と申します」と言いました。どうしてこれ程までに忘れてしまったのでしょうか。(こういうことを)小さな子に教えられるというのも、(我ながら)おかしなことです。
解説
『枕草子(まくらのそうし)』は、一条天皇が寵愛するの中宮定子(後に皇后、977~1001)に仕えた、清少納言(?~?)の随筆です。書名の「草子」とは、巻子(かんす)(巻物)に対する「冊子(さつし)」が訛った言葉ですから、鍵は「枕」にあります。そのヒントは、伝本により多少文言が違いますが、『枕草子』の巻末にあります。定子が兄の内大臣伊周(これちか)から美しい紙をもらったのですが、定子が「これに何を書きましょうか。お上(一条天皇)は『史記』を書写しておられますが」と言うと、少納言は「枕にこそは侍らめ」(「枕でございましょう」)と答えました。そして「さは、得てよ」(「それなら、そなたにつかわそう」)と、定子は少納言に紙を与えます。そしてそれがきっかけで書いたということになっているのですが、「枕」の解釈については、寝具、枕元、季節、歌枕、枕元に置く備忘録など、諸説があります。
清少納言が宮仕えを始めたのは正暦四年(993)で、定子は十七歳、清少納言は二八歳前後のことです。明朗快活で賢い定子は、才智にあふれ、打てば響く対応のできる清少納言が大のお気に入り。しかし長徳元年(995)、定子の父である藤原道隆が四三歳で亡くなってしまいます。すると翌年正月、定子の兄伊周(これちか)と弟の隆家の従者が、花山法皇を弓で射て、従者の童二人を殺してしまうという不祥事を起こしてしまいます。そして四月には大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷されることになり、失意の定子は妊娠中にもかかわらず、即日宮中を出て実家の二条の宮に移り、自ら落飾(出家)してしまいます。そしてさらに六月には、定子の住む二条の宮が全焼してしまうのです。この頃、清少納言は、伊周と対立していた道長に近い立場であるという風評により、中宮の女房達から嫌われて、一時期宮仕えを中断したことがありました。そして同年十二月、定子は第一皇女を出産します。
後盾となる父と兄弟と家を失った定子は、朝廷内に居場所がなくなりました。しかし長徳三年(997)、一条天皇は周囲の反対を押し切って再び定子を宮中に迎え、長保元年(999)に定子は一条天皇の第一皇子を出産します。これに危機感を覚えたのが道隆の弟の道長でした。何と同日に道長は娘の彰子を女御(にようご)とし、翌年二月にはさらに彰子を中宮としたので、定子は横滑りして皇后ということになったのです。「中宮」は本来は皇后の宮殿のことですから、この場合は両者は事実上同格となります。しかし同年十二月十五日、定子は第二皇女出産し、翌日には二四歳の若さで亡くなってしまったのです。清少納言が宮仕えを辞去したのは、その翌年のことでした。
ここに載せたのは一三六段(新日本文学大系)で、江戸時代によく読まれた能因本では一四六段です。清少納言は一時期、前記のような理由で出仕を中断し、里居(さとい)をしていたのですが、定子にとってはそれが寂しくてなりません。それで再出仕を促すために、その心を伝えようと、「心には(地下水のように)下ゆく水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる」(『古今和歌六帖』)というよく知られた歌の一句を、微細な文字で認(したた)めた山吹の花びらを包んでよこしたのです。「口にこそ出しませんが、あなたを思う心は口に出すよりまさっているのです」という、定子の優しく機知にあふれた愛情を、清少納言は一瞬にして悟り、思わず涙があふれたという場面です。
山吹には隠された意味がありました。いわゆる山吹色は梔子(くちなし)の実で染められる色で、梔子はその音から「口無し」と理解されていました。つまり「言葉には出して言わない」ことを色で表しているのです。『古今和歌集』(1012番歌)には、梔子を返事のない恋人と理解する歌があり、当時の和歌を詠む程の人になら、誰もが知っていることでした。それでも咄嗟に梔子色の山吹の花を思い付いた定子の機知と、それを即座に理解する清少納言だからこそ成り立つことなのです。なおなおここには載せていない部分の記述から、季節は秋ではないかとの指摘があるのですが、山吹は季節外れの狂い咲きが大層多い花で、決してあり得ないことではありません。
「まづ知るさま」は、『古今和歌集』(941番歌)の「世の中に憂きもつらきも告げなくにまず知るものは涙なりけり」という歌によるもので、「涙を流して泣く」ことを表しています。このように『枕草子』の魅力の一つは、定子と清少納言の愛情と信頼に結ばれた主従関係と、そこに、綺羅(きら)、星の如く散りばめられた機知なのです。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『枕草子』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。