うたことば歳時記

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藤波(藤浪)

2018-04-22 15:26:08 | うたことば歳時記
藤の花が盛りとなっています。古歌には春と夏とに跨がって咲くと詠まれていますから、ちょうど今頃から見頃になるのでしょう。そうするとすぐに思い浮かぶ歌があります。「我が宿の池の藤波咲きにけり山ほととぎすいつか来鳴かむ」(古今集 夏 135)これは『古今集』夏の歌の巻頭歌ですから、立夏と聞くと、藤の花を見ながら、ほととぎすが来るのを待ち焦がれるというのです。

 「我が宿」は旅の宿ではありません。その頃「我が宿」と言えば、自分の家を意味しました。作者は柿本人麻呂とも伝えられているのですが、この際それは重要なことではありません。作者の家の庭には、池があり、その辺に藤が咲いている場面です。「藤波」と言う言葉は、「藤の花房が風に靡く様子を波に見立てたもの」と説明されることが多いのですが、この場合は池があることがわかっていますから、池の縁語として選ばれていると同時に、実際に藤の花が水面に映っているのでしょう。

 『狭衣物語』の冒頭部分には、「少年の春は・・・・、弥生の二十日余りにもなりぬ。御前の木立、何となく青み渡れる中に、中島の藤は、松にとのみも思はず咲きかかりて、山ほととぎす待ち顔がほなるに、池の汀の八重山吹は、「井出の渡り」にやと見えたり。」と記されていて、庭園の中島に松とそれに絡む藤が植えられていたことがわかります。藤波といううたことばを理解しようという場合は、やはり当時の貴族の邸宅の植栽を参考にするべきだと思います。山ほととぎすが待たれるというのは、古今集のこの歌の影響でしょう。

 藤を詠んだ古歌を読んでみると、水辺の藤が詠まれていることがよくあります。
①み吉野の大川のへの藤波のなみに思はば我が恋ひめやは(古今集 恋 699)
②我が宿の影とも頼む藤の花立ち寄り来とも浪に折るな(後撰集 春 120)
③水底の色さへ深き松が枝に千歳をかけて咲ける藤波(後撰集 春 124)
④限りなき名におふ藤の花なれば底ゐも知らぬ色の深さか(後撰集 春 125)
⑤手もふれで惜しむかひなく藤の花底に映れば浪ぞ折りける(拾遺集 夏 87)
⑥水底も紫深く見ゆるかな岸の岩根にかかる藤波(後拾遺 雑夏 155)
⑦池にひつ松の延枝に紫の波折りかくる藤咲きにけり(金葉集 春 85)
⑧年れどかはらぬ松を頼みてやかかりそめけむ池の藤波(千載集 春 120)

松と共に詠まれることに特徴がありますが、松は「千代の松」と言われるように長寿のシンボルであり、また皇室をも表していますから、松に絡む藤は、皇室との姻戚関係によって繁栄する藤原氏を表すこととなり、藤原氏が好んで詠む題材でした。彼等の邸宅には『狭衣物語』の冒頭部のように池が営まれ、水際に松が植えられ、藤がそれに絡んで咲き、藤の花が実際に水面に映ることがあったのでしょう。紫色が濃いことを「色が深い」と詠むのは、池の深いことと色の深いことを意図して掛けているわけです。また波が藤を折るとも詠まれていますが、実際に折れてしまうはずはなく、水面に映る影が乱れることを「折る」と詠んだものと思います。

 そんなわけで、「藤波」と言う言葉は、ただ単に長い花房が風に揺れる様子を波に見立てたというだけでなく、実際に水面に影が映り、さざ波が立って影が乱れるような場面をも表したものとよむことができるのです。ですから、もし現在、池の辺に松が植えられていて、そこに藤が絡み、藤の花の影が水面に映っている場面があれば、それは古来藤原氏の貴族達が好んで歌に詠んだ、値千金の場面なのです。

 藤波ついでに、もう一つ。平安時代の歌には「北の藤波」という言葉をときどき見かけます。これは藤原不比等の4人の子の中で、北家と呼ばれた房前の子孫に冬嗣・良房・基経らが現れ、摂関家として繁栄することから、摂関家の繁栄を波打つ藤の花に擬えた言葉です。しかしそれなら「北の藤」だけでもよいのですが、「北の藤波」と詠まれるのは、藤は池の辺に植えられるものという理解があったからなのでしょう。