このところずっと伝統的年中行事・歳時記について勉強しています。当然のことながら参考までにそのようなことについて書かれた書物やネット情報を読むのですが、ほぼ九分九厘、民俗学者の説の影響を受けていて、文献史料の根拠もないまま、伝承だけによって話を進めて行くのです。ですからその書き方は、「・・・・と伝えられています」とか「・・・・と言われています」というのが全てに共通していて、確かな根拠に基づいて解説しているものを見たことがありません。ただ例外的に人形師の方がお書きになったものは、実物を見ているだけに、確かな文献史料や実物資料に裏付けられている良心的なものが見られました。
そもそも日本の民俗学は、柳田国男によって基礎が築かれました。彼は文献史料の重要性は認めながらも、文字史料として残りにくい民衆の日常生活の様々な事象を広い範囲から採集・採録し、それらを比較研究することによって歴史学のカバーしきれない民俗的事象を明らかにしようとしました。彼の業績を引き継いだのが折口信夫です。折口は歌人でもあり、その研究には文学という視点が加わり、少なくともフィールドワークを重視した柳田の研究に比べて、文学的・詩的発想による、厳しく言えば思いつき的な要素が強くなり、採録された伝承史料の重要性が低下しているように見えます。この折口の弟子たちが師の説に基づいて、伝統的年中行事の解説を著すようになると、初心者向けの年中行事解説書の著者の多くが、それらの著書を根拠として書くようになり、近年はネット上に気軽にそれらをコピーしたような解説が氾濫しています。
ただ民俗学者が自分の考えることを文章にして説くこと自体は、自由でなければなりません。ただその後継者・追随者、またそれらの説を材料にして文章を書く人たちが、尾鰭を付けたり正しく伝えないことがあるために、いい加減な説が氾濫することになっているようです。わかりやすくいくつかの例をお見せしましょう。
たとえば赤飯の起原について柳田国男は、昭和33年に神戸新聞連載した「故郷七十年」という回顧談の中で、次の様に述べています。「・・・・小豆を何故大事にするようになったか。これは私の奇抜な解釈だが、小豆を使いはじめたのは、おいしいからではなく、もっと他に理由があったのではないか。・・・・小豆御飯のお米の色と、赤米だけで炊いたのと、色が大変よく似ているのである。物忌みの忌日の特徴をつけ、食べる人に今日から常の日とは違うということを意識させるため、もとは赤米を炊いたのが、在来の赤米がだんだん少なくなって来たので、それによく似た小豆御飯を炊くことになったのではないかと私は考えている。そうして小豆を盛んに栽培する区域と米作地帯が同じであり、小豆御飯の米の色と赤米を炊いた御飯の色とが大変近いということが、問題に対する一つの暗示ではないかと思っている」。
彼自身が正直に認めているように、あくまでも「奇抜な解釈」なのであって、確たる根拠があるわけではありません。彼の長年の経験をもとにそのように推定したのでしょう。しかしこれを材料に赤飯について書く人は、冒頭の「奇抜な解釈だと思っている」とか、末尾の「と思っている」の部分は削除してしまい、民俗学の権威者柳田国男の説として断定的に引用し、それが独り歩きして行くことになるのです。
もう一つ例をお見せしましょう。花見の起原について和歌森太郎は、その著書『花と日本人』で次のように述べています。「民俗学では、サツキ(五月)のサ、サナエ(早苗)のサ、サオトメ(早乙女)のサはすべて稲田の神霊を指すと解されている。田植えじまいに行う行事が、サアガリ、サノボリ、訛ってサナブリといわれるのも、田の神が田から山にあがり昇天する祭りとしての行事だからと考えられる。田植えは、農事である以上に、サの神の祭りを中心にした神事なのであった。そうした、田植え月である五月にきわだってあらわれるサという言葉がサクラのサと通じるのではないかとも思う。・・・・桜は、農民にとって、いや古代の日本人のすべてにとって、もともとは稲穀の神霊の依る花とされたのかもしれない」。
桜の「サ」は稲の神のことであるという説は、現在では定説のように殆どの年中行事の解説書に説かれていますが、和歌森自身は「・・・・・かもしれない」と正直に閃きであることを認めています。しかしそれが追随者の手にかかると「かもしれない」は削除されてしまうのです。しかし何も文献史料的根拠はないので、「・・・・と伝えられています」「・・・・と言われています」としか書きようがありません。そのように書かざるを得ないのは何も根拠がないからであって、もしあれば「・・・・によれば」と大威張りで書くことでしょう。伝承なら伝承でよいのですから、どこにどのようにして伝えられた伝承に基づいているのかを明らかにしなければならないと思うのですが、そこまで書いてある情報はないのです。おそらく書いている本人は、先行する説を適当に「コピペ」しているだけなので、伝承の根拠さえも知らないのでしょう。
民俗学にもとづく年中行事の解説がいかにいい加減であるか、一つさらに具体的な例を上げてお見せしましょう。「お年玉」というテーマについて、ネット情報を探してみました。
まずはウィキペディアでは、「お年玉の語源は、正月に歳神を迎えるために供えられた鏡餅がお下がりとして子供に与えられ、その餅が「御歳魂(おとしだま)」と呼ばれたことからとする説がある。また、これを年のありがたい賜物(たまもの)であるとして「年賜(としだま)」と呼ばれたことからとする説もある。年玉の習慣は中世にまでさかのぼり、主として武士は太刀を、町人は扇を、医者は丸薬を贈った。」と記されています。この解説の前半の鏡餅説が、民俗学者によって称えられています。しかしこの解説はまだ良心的で、「・・・・という説がある」とし、刀や扇や薬などを贈ったとする、文献史料に基づく説も併記しています。『語源由来辞典』もまあ同じような内容で、これも良心的です。
しかし大部分のネット情報は、以下に引用するように、年玉の鏡餅由来説を採っています。
①「年神様にお供えしたお餅を子どもたちに食べさせたことが始まりと言われています。年神様は供えたお餅に宿るものと考えられていて、その宿った魂すなわち「玉」を分け与えて食べることで神様の力を分けて頂くという意味があったのです。それがだんだん変化していって今のようにお金をあげる習慣になりました。」
②「鏡餅には年神様の「御魂」(みたま)が宿り、この鏡餅の餅玉が年神様の御魂、その年の魂となる「年魂」です。その年魂をあらわす餅玉を、昔は家長が家族に「御年魂」「御年玉」として分け与えたのでした。これがお年玉の由来なのです。」
③「昔から日本では、大晦日の夜に「歳神様」という神様が各家のご先祖様を導いて、一軒一軒まわってこられるのだと信じられていました。その歳神様から新年に授かる「魂」を「御歳魂(おとしだま)」といっていたのが、おとし玉の由来だと言われています。」
④「魂というと仰々しく聞こえますが、その正体は、こちらもお正月の定番である鏡餅のこと。鏡餅は、歳神様の憑代として、その魂が宿ると考えられていたのです。その鏡餅に宿った魂をみんなに配り食べることで、昔の人たちは「新しい年の神様の魂を頂く」と考え、新年の無病息災、五穀豊穣を祈っていたのです。」
⑤「『お年玉』語源ですが、はるか昔からの風習であった年神様に奉納された鏡餅(お供え餅)を参拝しに来て下さった人たちに分け与えた神事からきているといわれています。」
⑥「 鏡餅(お供え餅)は元々鏡の形を模したものであり、魂を映し出すものと言われていました。『魂』は別の言い方では『玉』とも表現する場合がありますが、年神様の『玉』ということから『年の玉(魂)』、それに「御」がついて『お年玉』と言われるようになったそうです。これを受け取った参拝者でもある家主が、家族たちに砕いて半紙に包み分け与えたのが『お年玉』のルーツと言われています。」
⑦「正月元旦には、年神様(としがみさま)が一年の幸福をもたらすために各家庭にやって来ると言い伝われています。元旦に来てくれた年神様の依り代(よりしろ=神霊がよりつく対象となる物)として、鏡餅(かがみもち)をお供えします。鏡餅には、神様が宿ってくださるわけです。そして、「松の内」が明けた1月11日に年神様が宿った鏡餅を割って食べることによって、私たち日本人は年神様の力をありがたく頂くという風習があります。この「年神様の魂が宿った餅」のことを「お年魂=おとしだま」と言っていたのが、そもそものお年玉の始まりのようです。」
これだけ並ぶと、お年玉の由来について手っ取り早く知りたい人がネットを検索し、信じ込んでしまうのは無理もありません。しかし①~⑦までの中で、根拠を示している情報は一つもありません。また「・・・・と言われています」とか「・・・・始まりのようです」「・・・・なったそうです」などと、どれも根拠については極めて無責任な書き方をしているのが特徴です。
それなら実際のお年玉はどうであったか、文献史料を上げてみましょう。
新年に祝儀として品物を贈る習慣は、室町時代以後の文献史料にたくさん記録されています。1604年に編纂された『日葡辞書』には、「Toxidama(トシダマ)、新年の一月に訪問したおりに贈る贈物」と記されています。北村季吟が寛文三年(1663年)に出版した俳書『増山之井(ぞうやまのい)』には、「としだま、年始の持参礼物をいへり」と記されています。『華實年浪草』という歳時記にも、「年始に祝儀として互いに贈答するもののことで、『年玉』という言葉は、年の賜(賜物)の略語であろう」と推定しています。『日次紀事』にも「凡新年互に贈答の物、総じて年玉と謂(い)ふ」と記されています。この『日次紀事』という歳時記は大変に信用の置ける書物で、先行する類書を孫引きすることなく、自分で歩いて実際にかき集めた材料によって記述されています。とにかく江戸時代の文献には年玉について色々記されているのですが、年神の霊魂云々とか鏡餅説による理解は、微塵も見当たりません。年玉について、少なくとも都市部の一般庶民は、年神の霊魂説・鏡餅説とは異なる理解をしていたことは間違いありません。
史料「年玉とは」(『華實年浪草』)
「民間にも年始に音物を相互に贈答するも、人を賀し春を祝する祝儀之信也、・・・・今按ずるに、年玉は年の賜の略語か。」
それなら実際に贈られていたものはどんなものでしょうか。近世の史料からは様々な物を拾い出せるのですが、総じて各々の身分に応じたものや、家業で取り扱っているもの、或いは縁起物が多いようです。何を年玉として配るかによって、その家の家業や身分が、およそわかるのでしょう。『華実年浪草』には、医者は普段扱っている丸薬や軟膏類、庶民は「各作業の物」、身分の高い者は太刀や馬や服など、枚挙に暇がないと記されています。最もよく目に付くのは扇(末広)で、『武江年表』という江戸の地誌には、大晦日の夜には扇売の声がやかましい程であったと記されています。その他には樽酒、紙類、保存のきく昆布・干鱈・するめなどの海産物、牛蒡や蒟蒻などの農産物、軽粉(白粉)、凧などを拾い出すことができました。
明治時代ではどうだったでしょうか。明治三十四年(1901年)の『東京風俗志』には、「商家などには華客(とくい)さきざきを賀し、年玉として染手拭、摺暦、或は品物などを配りて、相変はらずの御贔屓(ごひいき)を頼みありくも多し」と記されています。また明治四十四年(1911年)の『東京年中行事』(中巻5ページ)には、「普通の人々の間に於ても、年礼(ねんれい)と同時に、その家の小供にお年玉と云って手土産を贈ることが行はれているが、最も盛に行はるるのは、平生出入りの商人が年礼の序(ついで)に、得意先に配って歩るくお年玉で有らう。そのお年玉の種類は素(もと)より一定して居るのではないが、多くは自分の商売品中のものか、或はそれに関係の品で、乃至(ないし)は手拭、略歴、盃なんどが最も普通のもので有る。」と記されています。年玉に何をもらったかで、くれた人の職業がおよそ見当がつくということは、江戸時代と変わっていません。『東京年中行事』は明治四十四年(1911年)に出版されたものですから、少なくとも明治時代末までは現金ではなかったようですし、年神の霊魂や鏡餅に由来する説は、相変わらずかけらさえもないのです。
いかがですか。これだけ証拠を並べても、まだ年神霊魂・鏡餅由来説が正しいとお考えですか。私がここに上げた文献史料は、みなネットで閲覧できますし、また私も確認の上で書いています。決して孫引きではありません。ですから私は「・・・・と言われています」という無責任な書き方は決してしません。反論があるなら、いつでも受けて立つつもりです。
民俗学者が地方の農村漁村から採録した伝承の中に、年神霊魂・鏡餅由来説を裏付けるようなものがあることは事実です。しかしそれをもって普遍的に当てはめたり、起原とすることには無理があります。また伝承の持つ決定的欠陥でもあるのですが、いつまで遡るのかが全くわからないのです。民俗学者は得てして都市部の伝承を重視せず、専ら地方の農山漁村の伝承に頼っている点も、その説得力を弱める原因の一つです。伝統的年中行事は、まず中国から伝えられたものが朝廷に採り入れられ、また武家政権に受け継がれ、地方に伝えられていったものが圧倒的に多いのです。いわゆる五節句の骨格は、全部が全部中国由来です。もちろん日本独自の要素も付け加えられてはいますが、骨格そのものは中国伝来であり、それが京から、また江戸から地方に伝えられて、日本全体に共有されるようになったものが圧倒的に多いのです。
今回はお年玉の例でお話ししましたが、他には「端午の節句は本来は女の節句だった」として、「五月忌み」の風習を上げているものが大変多く見られます。しかし「五月忌み」とは本来は五月には女性と逢って契らないという意味であって、田植えの前に早乙女が潔斎するなどという意味は全くなく、誤用もいいところです。また七夕の起原について、「中国伝来の風習に、日本の七夕伝説が融合した」という説明も氾濫していますが、七夕伝説なるものが奈良時代以前に存在した根拠など、全くありません。また花見について、「日本には古来サ神信仰があった」という説も唱えられていますが、それこそ文献上には何一つ根拠がありません。しかし縄文時代からそのような信仰があったなどと主張しています。これらのせつはみな二十世紀になって折口系の民俗学者やその著書に影響された人が唱えはじめたもので、つい最近のことなのです。
ここで一つ一つ反論しているわけにも行きませんので、それらを批判した私のブログを直接御覧下さい。
「端午の節句は女の節句という出鱈目」、「棚機津女伝説の危うさ」、「柏餅の起原(流説の誤り)」、「お年玉の起原(流布説の誤り)」、「草餅(母子草から蓬へ、流布説の誤り)」、「牡丹餅とお萩(流布説の誤り)改訂版」、「花見の起原に関するサ神信仰への疑問」、「月見の起原」、「盂蘭盆・お盆の起原(定説の誤り)」などたくさんあるのですが、それらの題の前に「うたことば歳時記」を付けてからそれぞれの題を続けて入力して検索して下さい。もちろん私の不勉強や勘違いもあるかもしれません。しかし確実な根拠に裏付けられて主張することの大切さはわかって頂けるものと思います。
追記
民俗学者は民間伝承を研究資料として重視しますが、文献史料を活用しようとはしない傾向があります。そのことに関連して私が常々疑問に思っているのは、民俗学者が歳時記類を読まないことです。歳時記には、それが著述されたり編纂された頃、民間に伝えられ、また生活の中に定着していた風俗習慣が豊富に記述されています。ですから歳時記は往事の民間伝承その物なのです。それらは一個人の生活習慣ではなく、広く共有されていたことですから、民俗学好みの研究材料であると思うのですが、それらが活用されている形跡がほとんどありません。なぜ活用された形跡がないと言えるかというと、もし読んでいるなら、現在一般に説かれているような年中行事の解説をするはずがないからです。年玉の例を上げておきましたが、歳時記類には年玉の年神霊魂分与起原説は微塵も説かれていないばかりか、年玉が年始の挨拶に添える粗品であることを説いた歳時記ばかりなのです。起原について考察しようという場合、現代の伝承より往事の伝承の集積である歳時記の方が研究材料として有用であることは、もう自明の理であります。私には民俗学者が歳時記類を活用しないことは、民俗学の可能性を自ら狭めているとしか思えないのです。
そもそも日本の民俗学は、柳田国男によって基礎が築かれました。彼は文献史料の重要性は認めながらも、文字史料として残りにくい民衆の日常生活の様々な事象を広い範囲から採集・採録し、それらを比較研究することによって歴史学のカバーしきれない民俗的事象を明らかにしようとしました。彼の業績を引き継いだのが折口信夫です。折口は歌人でもあり、その研究には文学という視点が加わり、少なくともフィールドワークを重視した柳田の研究に比べて、文学的・詩的発想による、厳しく言えば思いつき的な要素が強くなり、採録された伝承史料の重要性が低下しているように見えます。この折口の弟子たちが師の説に基づいて、伝統的年中行事の解説を著すようになると、初心者向けの年中行事解説書の著者の多くが、それらの著書を根拠として書くようになり、近年はネット上に気軽にそれらをコピーしたような解説が氾濫しています。
ただ民俗学者が自分の考えることを文章にして説くこと自体は、自由でなければなりません。ただその後継者・追随者、またそれらの説を材料にして文章を書く人たちが、尾鰭を付けたり正しく伝えないことがあるために、いい加減な説が氾濫することになっているようです。わかりやすくいくつかの例をお見せしましょう。
たとえば赤飯の起原について柳田国男は、昭和33年に神戸新聞連載した「故郷七十年」という回顧談の中で、次の様に述べています。「・・・・小豆を何故大事にするようになったか。これは私の奇抜な解釈だが、小豆を使いはじめたのは、おいしいからではなく、もっと他に理由があったのではないか。・・・・小豆御飯のお米の色と、赤米だけで炊いたのと、色が大変よく似ているのである。物忌みの忌日の特徴をつけ、食べる人に今日から常の日とは違うということを意識させるため、もとは赤米を炊いたのが、在来の赤米がだんだん少なくなって来たので、それによく似た小豆御飯を炊くことになったのではないかと私は考えている。そうして小豆を盛んに栽培する区域と米作地帯が同じであり、小豆御飯の米の色と赤米を炊いた御飯の色とが大変近いということが、問題に対する一つの暗示ではないかと思っている」。
彼自身が正直に認めているように、あくまでも「奇抜な解釈」なのであって、確たる根拠があるわけではありません。彼の長年の経験をもとにそのように推定したのでしょう。しかしこれを材料に赤飯について書く人は、冒頭の「奇抜な解釈だと思っている」とか、末尾の「と思っている」の部分は削除してしまい、民俗学の権威者柳田国男の説として断定的に引用し、それが独り歩きして行くことになるのです。
もう一つ例をお見せしましょう。花見の起原について和歌森太郎は、その著書『花と日本人』で次のように述べています。「民俗学では、サツキ(五月)のサ、サナエ(早苗)のサ、サオトメ(早乙女)のサはすべて稲田の神霊を指すと解されている。田植えじまいに行う行事が、サアガリ、サノボリ、訛ってサナブリといわれるのも、田の神が田から山にあがり昇天する祭りとしての行事だからと考えられる。田植えは、農事である以上に、サの神の祭りを中心にした神事なのであった。そうした、田植え月である五月にきわだってあらわれるサという言葉がサクラのサと通じるのではないかとも思う。・・・・桜は、農民にとって、いや古代の日本人のすべてにとって、もともとは稲穀の神霊の依る花とされたのかもしれない」。
桜の「サ」は稲の神のことであるという説は、現在では定説のように殆どの年中行事の解説書に説かれていますが、和歌森自身は「・・・・・かもしれない」と正直に閃きであることを認めています。しかしそれが追随者の手にかかると「かもしれない」は削除されてしまうのです。しかし何も文献史料的根拠はないので、「・・・・と伝えられています」「・・・・と言われています」としか書きようがありません。そのように書かざるを得ないのは何も根拠がないからであって、もしあれば「・・・・によれば」と大威張りで書くことでしょう。伝承なら伝承でよいのですから、どこにどのようにして伝えられた伝承に基づいているのかを明らかにしなければならないと思うのですが、そこまで書いてある情報はないのです。おそらく書いている本人は、先行する説を適当に「コピペ」しているだけなので、伝承の根拠さえも知らないのでしょう。
民俗学にもとづく年中行事の解説がいかにいい加減であるか、一つさらに具体的な例を上げてお見せしましょう。「お年玉」というテーマについて、ネット情報を探してみました。
まずはウィキペディアでは、「お年玉の語源は、正月に歳神を迎えるために供えられた鏡餅がお下がりとして子供に与えられ、その餅が「御歳魂(おとしだま)」と呼ばれたことからとする説がある。また、これを年のありがたい賜物(たまもの)であるとして「年賜(としだま)」と呼ばれたことからとする説もある。年玉の習慣は中世にまでさかのぼり、主として武士は太刀を、町人は扇を、医者は丸薬を贈った。」と記されています。この解説の前半の鏡餅説が、民俗学者によって称えられています。しかしこの解説はまだ良心的で、「・・・・という説がある」とし、刀や扇や薬などを贈ったとする、文献史料に基づく説も併記しています。『語源由来辞典』もまあ同じような内容で、これも良心的です。
しかし大部分のネット情報は、以下に引用するように、年玉の鏡餅由来説を採っています。
①「年神様にお供えしたお餅を子どもたちに食べさせたことが始まりと言われています。年神様は供えたお餅に宿るものと考えられていて、その宿った魂すなわち「玉」を分け与えて食べることで神様の力を分けて頂くという意味があったのです。それがだんだん変化していって今のようにお金をあげる習慣になりました。」
②「鏡餅には年神様の「御魂」(みたま)が宿り、この鏡餅の餅玉が年神様の御魂、その年の魂となる「年魂」です。その年魂をあらわす餅玉を、昔は家長が家族に「御年魂」「御年玉」として分け与えたのでした。これがお年玉の由来なのです。」
③「昔から日本では、大晦日の夜に「歳神様」という神様が各家のご先祖様を導いて、一軒一軒まわってこられるのだと信じられていました。その歳神様から新年に授かる「魂」を「御歳魂(おとしだま)」といっていたのが、おとし玉の由来だと言われています。」
④「魂というと仰々しく聞こえますが、その正体は、こちらもお正月の定番である鏡餅のこと。鏡餅は、歳神様の憑代として、その魂が宿ると考えられていたのです。その鏡餅に宿った魂をみんなに配り食べることで、昔の人たちは「新しい年の神様の魂を頂く」と考え、新年の無病息災、五穀豊穣を祈っていたのです。」
⑤「『お年玉』語源ですが、はるか昔からの風習であった年神様に奉納された鏡餅(お供え餅)を参拝しに来て下さった人たちに分け与えた神事からきているといわれています。」
⑥「 鏡餅(お供え餅)は元々鏡の形を模したものであり、魂を映し出すものと言われていました。『魂』は別の言い方では『玉』とも表現する場合がありますが、年神様の『玉』ということから『年の玉(魂)』、それに「御」がついて『お年玉』と言われるようになったそうです。これを受け取った参拝者でもある家主が、家族たちに砕いて半紙に包み分け与えたのが『お年玉』のルーツと言われています。」
⑦「正月元旦には、年神様(としがみさま)が一年の幸福をもたらすために各家庭にやって来ると言い伝われています。元旦に来てくれた年神様の依り代(よりしろ=神霊がよりつく対象となる物)として、鏡餅(かがみもち)をお供えします。鏡餅には、神様が宿ってくださるわけです。そして、「松の内」が明けた1月11日に年神様が宿った鏡餅を割って食べることによって、私たち日本人は年神様の力をありがたく頂くという風習があります。この「年神様の魂が宿った餅」のことを「お年魂=おとしだま」と言っていたのが、そもそものお年玉の始まりのようです。」
これだけ並ぶと、お年玉の由来について手っ取り早く知りたい人がネットを検索し、信じ込んでしまうのは無理もありません。しかし①~⑦までの中で、根拠を示している情報は一つもありません。また「・・・・と言われています」とか「・・・・始まりのようです」「・・・・なったそうです」などと、どれも根拠については極めて無責任な書き方をしているのが特徴です。
それなら実際のお年玉はどうであったか、文献史料を上げてみましょう。
新年に祝儀として品物を贈る習慣は、室町時代以後の文献史料にたくさん記録されています。1604年に編纂された『日葡辞書』には、「Toxidama(トシダマ)、新年の一月に訪問したおりに贈る贈物」と記されています。北村季吟が寛文三年(1663年)に出版した俳書『増山之井(ぞうやまのい)』には、「としだま、年始の持参礼物をいへり」と記されています。『華實年浪草』という歳時記にも、「年始に祝儀として互いに贈答するもののことで、『年玉』という言葉は、年の賜(賜物)の略語であろう」と推定しています。『日次紀事』にも「凡新年互に贈答の物、総じて年玉と謂(い)ふ」と記されています。この『日次紀事』という歳時記は大変に信用の置ける書物で、先行する類書を孫引きすることなく、自分で歩いて実際にかき集めた材料によって記述されています。とにかく江戸時代の文献には年玉について色々記されているのですが、年神の霊魂云々とか鏡餅説による理解は、微塵も見当たりません。年玉について、少なくとも都市部の一般庶民は、年神の霊魂説・鏡餅説とは異なる理解をしていたことは間違いありません。
史料「年玉とは」(『華實年浪草』)
「民間にも年始に音物を相互に贈答するも、人を賀し春を祝する祝儀之信也、・・・・今按ずるに、年玉は年の賜の略語か。」
それなら実際に贈られていたものはどんなものでしょうか。近世の史料からは様々な物を拾い出せるのですが、総じて各々の身分に応じたものや、家業で取り扱っているもの、或いは縁起物が多いようです。何を年玉として配るかによって、その家の家業や身分が、およそわかるのでしょう。『華実年浪草』には、医者は普段扱っている丸薬や軟膏類、庶民は「各作業の物」、身分の高い者は太刀や馬や服など、枚挙に暇がないと記されています。最もよく目に付くのは扇(末広)で、『武江年表』という江戸の地誌には、大晦日の夜には扇売の声がやかましい程であったと記されています。その他には樽酒、紙類、保存のきく昆布・干鱈・するめなどの海産物、牛蒡や蒟蒻などの農産物、軽粉(白粉)、凧などを拾い出すことができました。
明治時代ではどうだったでしょうか。明治三十四年(1901年)の『東京風俗志』には、「商家などには華客(とくい)さきざきを賀し、年玉として染手拭、摺暦、或は品物などを配りて、相変はらずの御贔屓(ごひいき)を頼みありくも多し」と記されています。また明治四十四年(1911年)の『東京年中行事』(中巻5ページ)には、「普通の人々の間に於ても、年礼(ねんれい)と同時に、その家の小供にお年玉と云って手土産を贈ることが行はれているが、最も盛に行はるるのは、平生出入りの商人が年礼の序(ついで)に、得意先に配って歩るくお年玉で有らう。そのお年玉の種類は素(もと)より一定して居るのではないが、多くは自分の商売品中のものか、或はそれに関係の品で、乃至(ないし)は手拭、略歴、盃なんどが最も普通のもので有る。」と記されています。年玉に何をもらったかで、くれた人の職業がおよそ見当がつくということは、江戸時代と変わっていません。『東京年中行事』は明治四十四年(1911年)に出版されたものですから、少なくとも明治時代末までは現金ではなかったようですし、年神の霊魂や鏡餅に由来する説は、相変わらずかけらさえもないのです。
いかがですか。これだけ証拠を並べても、まだ年神霊魂・鏡餅由来説が正しいとお考えですか。私がここに上げた文献史料は、みなネットで閲覧できますし、また私も確認の上で書いています。決して孫引きではありません。ですから私は「・・・・と言われています」という無責任な書き方は決してしません。反論があるなら、いつでも受けて立つつもりです。
民俗学者が地方の農村漁村から採録した伝承の中に、年神霊魂・鏡餅由来説を裏付けるようなものがあることは事実です。しかしそれをもって普遍的に当てはめたり、起原とすることには無理があります。また伝承の持つ決定的欠陥でもあるのですが、いつまで遡るのかが全くわからないのです。民俗学者は得てして都市部の伝承を重視せず、専ら地方の農山漁村の伝承に頼っている点も、その説得力を弱める原因の一つです。伝統的年中行事は、まず中国から伝えられたものが朝廷に採り入れられ、また武家政権に受け継がれ、地方に伝えられていったものが圧倒的に多いのです。いわゆる五節句の骨格は、全部が全部中国由来です。もちろん日本独自の要素も付け加えられてはいますが、骨格そのものは中国伝来であり、それが京から、また江戸から地方に伝えられて、日本全体に共有されるようになったものが圧倒的に多いのです。
今回はお年玉の例でお話ししましたが、他には「端午の節句は本来は女の節句だった」として、「五月忌み」の風習を上げているものが大変多く見られます。しかし「五月忌み」とは本来は五月には女性と逢って契らないという意味であって、田植えの前に早乙女が潔斎するなどという意味は全くなく、誤用もいいところです。また七夕の起原について、「中国伝来の風習に、日本の七夕伝説が融合した」という説明も氾濫していますが、七夕伝説なるものが奈良時代以前に存在した根拠など、全くありません。また花見について、「日本には古来サ神信仰があった」という説も唱えられていますが、それこそ文献上には何一つ根拠がありません。しかし縄文時代からそのような信仰があったなどと主張しています。これらのせつはみな二十世紀になって折口系の民俗学者やその著書に影響された人が唱えはじめたもので、つい最近のことなのです。
ここで一つ一つ反論しているわけにも行きませんので、それらを批判した私のブログを直接御覧下さい。
「端午の節句は女の節句という出鱈目」、「棚機津女伝説の危うさ」、「柏餅の起原(流説の誤り)」、「お年玉の起原(流布説の誤り)」、「草餅(母子草から蓬へ、流布説の誤り)」、「牡丹餅とお萩(流布説の誤り)改訂版」、「花見の起原に関するサ神信仰への疑問」、「月見の起原」、「盂蘭盆・お盆の起原(定説の誤り)」などたくさんあるのですが、それらの題の前に「うたことば歳時記」を付けてからそれぞれの題を続けて入力して検索して下さい。もちろん私の不勉強や勘違いもあるかもしれません。しかし確実な根拠に裏付けられて主張することの大切さはわかって頂けるものと思います。
追記
民俗学者は民間伝承を研究資料として重視しますが、文献史料を活用しようとはしない傾向があります。そのことに関連して私が常々疑問に思っているのは、民俗学者が歳時記類を読まないことです。歳時記には、それが著述されたり編纂された頃、民間に伝えられ、また生活の中に定着していた風俗習慣が豊富に記述されています。ですから歳時記は往事の民間伝承その物なのです。それらは一個人の生活習慣ではなく、広く共有されていたことですから、民俗学好みの研究材料であると思うのですが、それらが活用されている形跡がほとんどありません。なぜ活用された形跡がないと言えるかというと、もし読んでいるなら、現在一般に説かれているような年中行事の解説をするはずがないからです。年玉の例を上げておきましたが、歳時記類には年玉の年神霊魂分与起原説は微塵も説かれていないばかりか、年玉が年始の挨拶に添える粗品であることを説いた歳時記ばかりなのです。起原について考察しようという場合、現代の伝承より往事の伝承の集積である歳時記の方が研究材料として有用であることは、もう自明の理であります。私には民俗学者が歳時記類を活用しないことは、民俗学の可能性を自ら狭めているとしか思えないのです。