うたことば歳時記

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「端午の節句は女の節句」という出鱈目

2018-04-25 20:10:48 | 年中行事・節気・暦
 端午の節句についてネット情報を見ていると、本来は女の節句だったという記述が氾濫しています。これが実はこんでもない出鱈目なのです。

 民俗学者の和歌森太郎が著した『花と日本人』の中に、次のようなことが記されています。「五月五日の節句は、この時代まだ男児のそれではない。サツキとしてサナエをもって田に植える月、サオトメを中心として、精進のために忌籠りの一夜を過ごすことに由来する節句であったから、どちらかといえば女性にとっての節句なのである」。「この時代」とはこの文章の前後の脈絡から、平安時代を指すものと思われます。「平安時代の端午の節供では、田植えに際して女性達が忌籠(いみごも)りをしていた」というのです。

 その影響なのでしょうか、伝統的年中行事の解説書などには、およそ次のように記されています。「旧暦の五月は田植えの月で、昔は早乙女と呼ばれる若い女性がするものであった。田植えは神聖な行事であり、早乙女たちは田植えの前に、男性が戸外に出払った軒に菖蒲をふいた小屋に集まり、穢れを払って身を清めた。これを『五月忌(さつきいみ)』と呼び、女性が大切にされる日であった。日本の端午の節供は、この五月忌と中国から伝えられた端午の風習が、習合したものだと言われている」というのです。誰もが男児の節供と思っているところに、「実はその反対であった」というのは、話としては大変面白く、誰もが興味を覚えることでしょう。しかしそれは本当なのでしょうか。

 鍵となるのは「五月忌」という言葉にあります。 「五月忌み」は『伊勢物語』や『宇津保物語』にもありますから、かなり古い言葉です。しかし本当の意味は「五月に女性と逢ったり結婚することを忌むこと」なのです。『信明集』という歌集の56番に、「神代より忌むといふなる五月雨のこなたに人を見るよしもがな」という歌があります。古くから五月には女性に逢って契ってはいけないと忌むことになっているが、何とか逢う方法はないものだろうか、という意味です。江戸時代の国語辞典である『俚言集覧』を検索してみて下さい。きちんと書かれています。『源氏物語』「螢」の巻の第二段に、兵部卿宮が六条院を訪ねる場面で、「五月雨になりぬる愁えをしたまひて」という記述がありますが、これは「五月忌み」の愁えを指しています。

 これが五月忌みなのですが、誰が最初に唱えたのか、全く別の意味に強引に解釈し、都合良く利用しているのです。田植えに於いて女性が特別な役割を果たしていたことは、多くの絵画史料によって裏付けられています。また田植えは神事であったことも歴史事実です。ですからその神事に先立って、早乙女達が潔斎をすることは普通にあったことでしょう。しかしそれが五月四日の夜から五日に懸けて行われていたことを証明する文献史料など、何一つ存在しません。それがないのに、どのようにして「早乙女たちは田植えの前に、男性が戸外に出払った軒に菖蒲をふいた小屋に集まり、穢れを払って身を清めた」などと、まるで見てきたかのように具体的な様子がわかるというのでしょうか。そのような言い伝えがあるという反論がありそうですが、伝聞ではいつまで遡るか全くわかりませんし、検証のしようがありません。また伝聞なら伝聞でよいのですから、そのような言い伝えがあったということの、根拠となる文献史料がなければなりません。

 端午の節供が女性の節供であったことの根拠として必ず指摘されるのが、18世紀の初めに活躍した近松門左衛門の書いた脚本『女殺油地獄』下巻の冒頭部にある、「五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」という記述です。これは女性にとっては本当に安らぐことのできる場所はどこにもないという「女三界に家なし」という諺を説明するもので、端午の節供の日の夜は「女の家」と呼ばれるというのです。しかしこれだけで早乙女が菖蒲を葺いた小屋に集まって「忌籠り」をしたことの根拠にはなりません。江戸時代には本格的に男児の節供になっていましたから、その江戸時代の劇の脚本の一句を根拠にして、平安時代には女性の節句だったと論証することには無理があります。

 江戸時代に五月五日を「女の家」と呼んだのには、別な理由がありました。江戸時代後期の文化年間に幕府の学者が全国の風俗について書簡で問い合せ、返ってきた報告書が昭和になってから収集されて、『諸国風俗問状答(しよこくふうぞくといじようこたえ)』という書物に編纂されているのですが、その中の三河国吉田領からの報告には、「五月五日・・・・この日一日は男子出陣の留守にて、家は女の家なりなどいふなり。但、これみな武家のみのこと」と記されています。武家では、五月五日は男児の節供で、主役の男達は出払っているので、家には留守番の女達しかいない。それで「女の家」というわけです。そうすると江戸の歳時記である『東都歳時記』に、「五月・・・・六日、今日婦女子の佳節(せつく)と称して遊楽を事とすれども、いまだその拠る所を知らず」と記されていることがよく理解できます。五月五日が男児の節供であるからこそ、翌六日は「婦女子の佳節」となるが、その由来は不明であるというのです。

 端午節の風習は推古朝には伝えられています。それを江戸時代の文献で裏付けるなど、滑稽以外の何物でもありません。日本のある地域にこの日を「女の家」という風習が残っているということも根拠の一つによく上げられるのですが、それが7世紀まで遡りうることを証明できるとでも言うのでしょうか。常識で考えても、不可能なことがわかるでしょう。近現代の各地に残っていた民俗的風習を、そのまま7世紀に五月忌みがあったことの証拠とするのは、あまりにも乱暴です。そもそも五月忌みの意味が全く間違っているのですから。

 端午の節句が本来は女の節句であったと書いている筆者の皆さん、あなたは「五月忌み」の正しい意味を自分で検証して書いているのですか。端午節に女性が菖蒲を葺いた小屋に集まって忌み籠もりをしたという文献史料を見たことがあるのですか。それとも先行する説を鵜呑みにして丸写しにしているのではありませんか。納得できなかったらそのような根拠を見せて下さい。




出鱈目な棚機津女伝説

2018-04-25 13:39:17 | 年中行事・節気
 まだ先のことですが、七夕が近付くと、憂鬱になってきます。その原因はいわゆる棚機津女伝説というものです。ネットや歳時記の本を見ると、まるで判で押したように、中国伝来の織姫・牽牛の物語と日本古来の棚機津女伝説が習合して、七夕の風習となった、と説かれているのです。

 その棚機津女伝説とは、「天から降りてくる水神に捧げるための神聖な布を、若い女性が棚づくりの小屋に籠もって俗世から離れて織る。」とか、「棚機津女として選ばれた女性は村の災厄を除いてもらうために、7月6日に水辺の機屋に籠もり、神の着る布を織りながら神の訪れを待つ。そしてその夜、女性は神の妻となって神に奉仕する。翌日七日には、神を送って村人は禊を行い、罪穢れを神に托して異界へ持って行ってもらう。」などというないようで、いかにも見てきたような説明が一般に流布しています。

 しかし奈良時代以前の伝説が、それ程まで具体的な内容を伴って、いったいどのような形で現在に伝えられているというのでしょうか。もしあるというならば、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』、及び古い伝承を含むと考えられる平安時代の諸文献にふくまれていなければなりません。しかしそれらの中には一切ありません。古老の話にあるとか、口伝があるというなら、それが奈良時代以前にまで遡るものであると、どのように証明するのでしょうか。そのような説をまことしやかに説いている人たちは、いったいそのような説の根拠を何所に求めているのでしょうか。問い詰められれば、おそらく何も示せないはずです。なぜなら自分で確認もしないで、先行するその様な説を受け売りしているだけなのですから。

 そのような説は、もとは言えば折口信夫という民俗学者が、『水の女』などの著書によって提唱したものです。その『水の女』はネットで閲覧可能ですから、「十二 たなばたつめ」の章を一度御覧になって下さい。読めばすぐにわかりますが、折口はその主張の根拠となるものを具体的には何一つ提示していません。そして彼の弟子たちは、師折口の説をそのまま受け継ぎ、多くの著書に紹介していきました。私は國學院大學の史学科に学びましたから、折口の弟子と称する人たちの授業をたくさん聞きましたが、彼らの折口に対する態度は、まるで宗教的尊師を崇めているようで、一切の批判は許されない雰囲気でした。史学科の先生達にいろいろ質問しましたが、あれは所詮民俗学だから、証拠がなくても、伝承ということでいくらでも好きなことが言えるのだ。良く言えば仮説であり、詩的想像の産物でしかない。とうてい厳密な学問的批判に耐えられるものではないとのことでした。今から50年も前の話です。その後、民俗学者の説く「棚機津女(たなばたつめ)伝説」には様々に尾鰭が付き、今ではあらゆる歳時記や年中行事の解説書に氾濫しているのです。

 いわゆる棚機津女伝説の中には、『古事記』や『日本書紀』に記されているという説明も散見します。しかしどこを探してもそのような記述はありませんし、さすがに折口自身は、記紀にそのような記述があるとまでは説いていません。女性が布を織るということについて思い当たることといえば、天の岩戸の神話の少し前に、織女が神聖な機屋にこもって神の衣のための布を織っていたという場面があります。また斎部広成が大同二年(807年)に著した『古語拾遺』という書物に、天岩戸に隠れてしまった天照大神を引き出すため、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が八十万神(やそよろずのかみ)を集めて、多くの祭具を作らせました。その中の一つとして、天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)が神衣(かむそ)を織ったという記述があるだけです。

 また『万葉集』には約130首の七夕の歌があり、中国伝来の七夕の物語が早くから広く知られていました。ただしそれらの歌は、織女と牽牛の年に一度の出会いに自分の恋を重ね、恋の歌として詠まれたものがほとんどです。それでも「棚機津女」なるものが存在したことを示唆する歌はいくつか探し出せます。例えば、「棚機(たなばた)の五百機(いほはた)立てて織る布の秋去り衣孰(たれ)(誰)か取り見む」(2033)という歌があります。この歌は前後を七夕の歌に挟まれていますから、明らかに七夕の歌であり、七夕に誰かに贈るために、多くの機で布を織る女性の心を詠んだものです。

 中国から七夕の風習が伝えられるより早く、日本には祭祀に関わる布を織る「タナバタ」と呼ばれるものがあったのは事実でしょう。また『万葉集』では「七夕」を「タナバタ」、「織女」を「タナバタ」「タナバタツメ」と読ませている歌もありますから、「タナバタ」という特別な女性の織り手が、日本独自に存在したことは認められます。それがあったからこそ、「たなばた」とは読みようがない「七夕」という漢語に、「タナバタ」という訓が与えられたのです。日本の「タナバタツメ」という布を織る女性と、中国伝来の織女という布を織る女性が重なったからこそ、「タナバタツメ」「タナバタ」という大和言葉に「織女」「七夕」という漢語の表記が当てはめられたのです。ここには明らかに中国七夕伝説と日本の機織の習合を確認することができます。しかしそれ以上のこととなると、全く手掛かりがないのです。いったい何を根拠に、前掲の「天から降りてくる水神に捧げるための神聖な布を、若い女性が棚づくりの小屋に籠もって俗世から離れて織る。」とか、「棚機津女として選ばれた女性は村の災厄を除いてもらうために、7月6日に水辺の機屋に籠もり、神の着る布を織りながら神の訪れを待つ。そしてその夜、女性は神の妻となって神に奉仕する。翌日七日には、神を送って村人は禊を行い、罪穢れを神に托して異界へ持って行ってもらう。」などというような、具体的な伝承があったことになってしまうのでしょう。

 伝承と言うからには、伝承があったことを裏付ける史料がなければなりません。もちろん江戸時代の歳時記類にも全く見当たりません。明治44年(1911年)の『東京年中行事』にも、「日本古来の棚機津女伝説と習合した」などということには、全く触れられていません。明治時代までは棚機津女伝説は存在しなかったのに、その後、20世紀になって突然に出現したのです。これは一体どういうわけでしょう。民俗学者によって提唱された棚機津女伝説に次第に尾鰭が付き、さも歴史的事実であるかのように独り歩きするようになったとしか考えられません。

 民俗学者が自説を展開するのは学問の自由として全く問題ありません。しかしネット上や一般に普及している歳時記の書物には、まことしやかに「棚機津女(たなばたつめ)伝説」の解説を書いている人自身は、その「伝説」の根拠も確かめたことはなく、ただ先行する類書を適当に摘まみ食いしているだけのようです。もし史料的根拠があるならば、「・・・・によれば」と大手を振って書くのでしょうが、何もないので、「・・・・と伝えられています」としか書けないのです。現在では「棚機津女伝説」というフィルターの影響を受けていない年中行事解説書を見出すことは困難な程、日本中に共有されてしまいました。そういう意味で、折口信夫の責任は重大なものがあります。

 概して歳時記や年中行事について記述されたものは、「・・・・と伝えられています」とか「・・・・と言われています」という書き方に終始し、自分の主張の根拠を明示したものがありません。特にネット情報は書き手の顔が見えないこともあって、無責任な文章が多いものです。根拠を示さない、否、示せないそのような解説には、十分気を付けなければなりません。

史料「日本神話の織女(たなばた)」
『日本書紀』神代下の天稚彦(あめのわかひこ)の葬儀の場面で、「天(あめ)なるや弟織女(おとたなばた)の頸(うな)がせる玉の御統(みすまる)の穴玉は・・・・」という歌が記されていて、「弟織女」を「オトタナバタ」と読ませています。また9世紀初頭に成立した『古語拾遺(こごしゆうい)』という書物には、天照大御神が天岩屋に隠れた時に、大神に献上するため、「天棚機姫神(あめのたなばたつひめのかみ)をして神衣(かむそ)を織らしむ。」という記述があります。