端午の節句についてネット情報を見ていると、本来は女の節句だったという記述が氾濫しています。これが実はこんでもない出鱈目なのです。
民俗学者の和歌森太郎が著した『花と日本人』の中に、次のようなことが記されています。「五月五日の節句は、この時代まだ男児のそれではない。サツキとしてサナエをもって田に植える月、サオトメを中心として、精進のために忌籠りの一夜を過ごすことに由来する節句であったから、どちらかといえば女性にとっての節句なのである」。「この時代」とはこの文章の前後の脈絡から、平安時代を指すものと思われます。「平安時代の端午の節供では、田植えに際して女性達が忌籠(いみごも)りをしていた」というのです。
その影響なのでしょうか、伝統的年中行事の解説書などには、およそ次のように記されています。「旧暦の五月は田植えの月で、昔は早乙女と呼ばれる若い女性がするものであった。田植えは神聖な行事であり、早乙女たちは田植えの前に、男性が戸外に出払った軒に菖蒲をふいた小屋に集まり、穢れを払って身を清めた。これを『五月忌(さつきいみ)』と呼び、女性が大切にされる日であった。日本の端午の節供は、この五月忌と中国から伝えられた端午の風習が、習合したものだと言われている」というのです。誰もが男児の節供と思っているところに、「実はその反対であった」というのは、話としては大変面白く、誰もが興味を覚えることでしょう。しかしそれは本当なのでしょうか。
鍵となるのは「五月忌」という言葉にあります。 「五月忌み」は『伊勢物語』や『宇津保物語』にもありますから、かなり古い言葉です。しかし本当の意味は「五月に女性と逢ったり結婚することを忌むこと」なのです。『信明集』という歌集の56番に、「神代より忌むといふなる五月雨のこなたに人を見るよしもがな」という歌があります。古くから五月には女性に逢って契ってはいけないと忌むことになっているが、何とか逢う方法はないものだろうか、という意味です。江戸時代の国語辞典である『俚言集覧』を検索してみて下さい。きちんと書かれています。『源氏物語』「螢」の巻の第二段に、兵部卿宮が六条院を訪ねる場面で、「五月雨になりぬる愁えをしたまひて」という記述がありますが、これは「五月忌み」の愁えを指しています。
これが五月忌みなのですが、誰が最初に唱えたのか、全く別の意味に強引に解釈し、都合良く利用しているのです。田植えに於いて女性が特別な役割を果たしていたことは、多くの絵画史料によって裏付けられています。また田植えは神事であったことも歴史事実です。ですからその神事に先立って、早乙女達が潔斎をすることは普通にあったことでしょう。しかしそれが五月四日の夜から五日に懸けて行われていたことを証明する文献史料など、何一つ存在しません。それがないのに、どのようにして「早乙女たちは田植えの前に、男性が戸外に出払った軒に菖蒲をふいた小屋に集まり、穢れを払って身を清めた」などと、まるで見てきたかのように具体的な様子がわかるというのでしょうか。そのような言い伝えがあるという反論がありそうですが、伝聞ではいつまで遡るか全くわかりませんし、検証のしようがありません。また伝聞なら伝聞でよいのですから、そのような言い伝えがあったということの、根拠となる文献史料がなければなりません。
端午の節供が女性の節供であったことの根拠として必ず指摘されるのが、18世紀の初めに活躍した近松門左衛門の書いた脚本『女殺油地獄』下巻の冒頭部にある、「五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」という記述です。これは女性にとっては本当に安らぐことのできる場所はどこにもないという「女三界に家なし」という諺を説明するもので、端午の節供の日の夜は「女の家」と呼ばれるというのです。しかしこれだけで早乙女が菖蒲を葺いた小屋に集まって「忌籠り」をしたことの根拠にはなりません。江戸時代には本格的に男児の節供になっていましたから、その江戸時代の劇の脚本の一句を根拠にして、平安時代には女性の節句だったと論証することには無理があります。
江戸時代に五月五日を「女の家」と呼んだのには、別な理由がありました。江戸時代後期の文化年間に幕府の学者が全国の風俗について書簡で問い合せ、返ってきた報告書が昭和になってから収集されて、『諸国風俗問状答(しよこくふうぞくといじようこたえ)』という書物に編纂されているのですが、その中の三河国吉田領からの報告には、「五月五日・・・・この日一日は男子出陣の留守にて、家は女の家なりなどいふなり。但、これみな武家のみのこと」と記されています。武家では、五月五日は男児の節供で、主役の男達は出払っているので、家には留守番の女達しかいない。それで「女の家」というわけです。そうすると江戸の歳時記である『東都歳時記』に、「五月・・・・六日、今日婦女子の佳節(せつく)と称して遊楽を事とすれども、いまだその拠る所を知らず」と記されていることがよく理解できます。五月五日が男児の節供であるからこそ、翌六日は「婦女子の佳節」となるが、その由来は不明であるというのです。
端午節の風習は推古朝には伝えられています。それを江戸時代の文献で裏付けるなど、滑稽以外の何物でもありません。日本のある地域にこの日を「女の家」という風習が残っているということも根拠の一つによく上げられるのですが、それが7世紀まで遡りうることを証明できるとでも言うのでしょうか。常識で考えても、不可能なことがわかるでしょう。近現代の各地に残っていた民俗的風習を、そのまま7世紀に五月忌みがあったことの証拠とするのは、あまりにも乱暴です。そもそも五月忌みの意味が全く間違っているのですから。
端午の節句が本来は女の節句であったと書いている筆者の皆さん、あなたは「五月忌み」の正しい意味を自分で検証して書いているのですか。端午節に女性が菖蒲を葺いた小屋に集まって忌み籠もりをしたという文献史料を見たことがあるのですか。それとも先行する説を鵜呑みにして丸写しにしているのではありませんか。納得できなかったらそのような根拠を見せて下さい。
」
民俗学者の和歌森太郎が著した『花と日本人』の中に、次のようなことが記されています。「五月五日の節句は、この時代まだ男児のそれではない。サツキとしてサナエをもって田に植える月、サオトメを中心として、精進のために忌籠りの一夜を過ごすことに由来する節句であったから、どちらかといえば女性にとっての節句なのである」。「この時代」とはこの文章の前後の脈絡から、平安時代を指すものと思われます。「平安時代の端午の節供では、田植えに際して女性達が忌籠(いみごも)りをしていた」というのです。
その影響なのでしょうか、伝統的年中行事の解説書などには、およそ次のように記されています。「旧暦の五月は田植えの月で、昔は早乙女と呼ばれる若い女性がするものであった。田植えは神聖な行事であり、早乙女たちは田植えの前に、男性が戸外に出払った軒に菖蒲をふいた小屋に集まり、穢れを払って身を清めた。これを『五月忌(さつきいみ)』と呼び、女性が大切にされる日であった。日本の端午の節供は、この五月忌と中国から伝えられた端午の風習が、習合したものだと言われている」というのです。誰もが男児の節供と思っているところに、「実はその反対であった」というのは、話としては大変面白く、誰もが興味を覚えることでしょう。しかしそれは本当なのでしょうか。
鍵となるのは「五月忌」という言葉にあります。 「五月忌み」は『伊勢物語』や『宇津保物語』にもありますから、かなり古い言葉です。しかし本当の意味は「五月に女性と逢ったり結婚することを忌むこと」なのです。『信明集』という歌集の56番に、「神代より忌むといふなる五月雨のこなたに人を見るよしもがな」という歌があります。古くから五月には女性に逢って契ってはいけないと忌むことになっているが、何とか逢う方法はないものだろうか、という意味です。江戸時代の国語辞典である『俚言集覧』を検索してみて下さい。きちんと書かれています。『源氏物語』「螢」の巻の第二段に、兵部卿宮が六条院を訪ねる場面で、「五月雨になりぬる愁えをしたまひて」という記述がありますが、これは「五月忌み」の愁えを指しています。
これが五月忌みなのですが、誰が最初に唱えたのか、全く別の意味に強引に解釈し、都合良く利用しているのです。田植えに於いて女性が特別な役割を果たしていたことは、多くの絵画史料によって裏付けられています。また田植えは神事であったことも歴史事実です。ですからその神事に先立って、早乙女達が潔斎をすることは普通にあったことでしょう。しかしそれが五月四日の夜から五日に懸けて行われていたことを証明する文献史料など、何一つ存在しません。それがないのに、どのようにして「早乙女たちは田植えの前に、男性が戸外に出払った軒に菖蒲をふいた小屋に集まり、穢れを払って身を清めた」などと、まるで見てきたかのように具体的な様子がわかるというのでしょうか。そのような言い伝えがあるという反論がありそうですが、伝聞ではいつまで遡るか全くわかりませんし、検証のしようがありません。また伝聞なら伝聞でよいのですから、そのような言い伝えがあったということの、根拠となる文献史料がなければなりません。
端午の節供が女性の節供であったことの根拠として必ず指摘されるのが、18世紀の初めに活躍した近松門左衛門の書いた脚本『女殺油地獄』下巻の冒頭部にある、「五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」という記述です。これは女性にとっては本当に安らぐことのできる場所はどこにもないという「女三界に家なし」という諺を説明するもので、端午の節供の日の夜は「女の家」と呼ばれるというのです。しかしこれだけで早乙女が菖蒲を葺いた小屋に集まって「忌籠り」をしたことの根拠にはなりません。江戸時代には本格的に男児の節供になっていましたから、その江戸時代の劇の脚本の一句を根拠にして、平安時代には女性の節句だったと論証することには無理があります。
江戸時代に五月五日を「女の家」と呼んだのには、別な理由がありました。江戸時代後期の文化年間に幕府の学者が全国の風俗について書簡で問い合せ、返ってきた報告書が昭和になってから収集されて、『諸国風俗問状答(しよこくふうぞくといじようこたえ)』という書物に編纂されているのですが、その中の三河国吉田領からの報告には、「五月五日・・・・この日一日は男子出陣の留守にて、家は女の家なりなどいふなり。但、これみな武家のみのこと」と記されています。武家では、五月五日は男児の節供で、主役の男達は出払っているので、家には留守番の女達しかいない。それで「女の家」というわけです。そうすると江戸の歳時記である『東都歳時記』に、「五月・・・・六日、今日婦女子の佳節(せつく)と称して遊楽を事とすれども、いまだその拠る所を知らず」と記されていることがよく理解できます。五月五日が男児の節供であるからこそ、翌六日は「婦女子の佳節」となるが、その由来は不明であるというのです。
端午節の風習は推古朝には伝えられています。それを江戸時代の文献で裏付けるなど、滑稽以外の何物でもありません。日本のある地域にこの日を「女の家」という風習が残っているということも根拠の一つによく上げられるのですが、それが7世紀まで遡りうることを証明できるとでも言うのでしょうか。常識で考えても、不可能なことがわかるでしょう。近現代の各地に残っていた民俗的風習を、そのまま7世紀に五月忌みがあったことの証拠とするのは、あまりにも乱暴です。そもそも五月忌みの意味が全く間違っているのですから。
端午の節句が本来は女の節句であったと書いている筆者の皆さん、あなたは「五月忌み」の正しい意味を自分で検証して書いているのですか。端午節に女性が菖蒲を葺いた小屋に集まって忌み籠もりをしたという文献史料を見たことがあるのですか。それとも先行する説を鵜呑みにして丸写しにしているのではありませんか。納得できなかったらそのような根拠を見せて下さい。
」