もうすぐ新暦の端午の日を迎えます。法律上はこどもの日ですが、「薬の日」にもなっています。それは
五月五日に薬猟が行われたことが、『日本書紀』に記されていて、平安時代以来五月五日が「薬日」と呼ばれていたからです。
『日本書紀』の推古天皇の御代には、「十九年夏五月五日、菟田野(うだの)に薬猟す」、「二十年夏五月五日、薬猟して羽田(はた)に集ひ・・・」、「二十二年夏五月五日、薬猟す」と記されていて、五月五日に3回行われています。また天智天皇の御代には、「七年五月五日、天皇蒲生野に縦猟(かり)したまふ」、「八年五月五日、天皇、山科野に縦猟したまふ」と記されていて、2回行われています。
五月五日に薬の材料を採集することは、古代中国の風習で、6世紀に成立した、中国の長江中流域一帯である荊・楚地方(現在の湖北省・湖南省付近)の年中行事を記録した『荊楚歳時記』には、五月五日に人々が蓬を採って人の形に作り、門戸の上に懸けて邪気を祓うこと、菖蒲を刻んで杯に浮かべて飲むこと、また「競ひて雑薬を採る」ことが記されています。ただしこの書物が日本に伝えられるのは奈良時代の最初ですから、推古・天智朝の薬猟は、『荊楚歳時記』ではない、別の情報が伝えられたためとしか考えられません。もし『荊楚歳時記』の影響で推古朝に薬猟をしたと記されていたら、それは時期が誤っています。ともかく、7世紀初めには、五月五日に薬を採るという古代中国の風習が日本にも伝えられ、それに倣って日本でも行われたわけです。
日本のネット情報などでは、この日の薬猟で、鹿茸と(ろくじょう)いう鹿の若い角を採ったと記されています。確かに鹿茸には強壮の薬功があるようで、現在でも漢方薬の材料となっているそうです。薬猟とか薬の日でインターネットを検索すると、引っ掛かってくる情報のほとんどに、古代の薬猟で鹿茸を採集したと記されています。しかし『日本書紀』の史料を何所にも「鹿茸」とは記されていません。
曲がりなりにも大学で史学科を卒業した私としては、どうしても納得できません。『荊楚歳時記』にも「雑薬」、つまり各種の薬を採ったと記されているだけで、鹿茸とは記されていません。いったいどうなっているのかといろいろ調べていると、ようやく「犯人」がわかってきました。江戸時代の国語辞典である『和訓栞』の「くすりがり」の項に、「推古紀に、五月五日、薬猟於菟田野と見えて、万葉集に多くよめり・・・・鹿茸を主にて、百薬をも採なるべし、」と記されているのです。他にも何人かの国学者が同じように記しています。しかし丁寧に読んでみると、「採るなるべし」と推定しているだけであって、断定はしていません。もともと『日本書紀』には記されていないのですから、断定のしようもないことなのです。また「くすりび」という項があり、「五月五日をいふといへり。貫之集に、ほととぎす鳴けども知らぬあやめ草こぞ薬日のしるしなりけり」と記されています。『貫之集』を確認しましたが、確かにその歌はありました。ですから「薬日」という呼称は、かなり早い段階からあったことは確かです。しかしウィキペディアには推古朝の薬猟を記念して薬日とと定めたようなことが記されていますが、『日本書紀』にはその様なことも一切記されていません。ネット情報という物は気を付けなければならないとつくづく思います。製薬会社の情報やネット情報や辞書類では、まるで判で押したように古代の薬猟で鹿茸を採集したと断定的に記述しています。書いている人は、『日本書紀』など一瞥もしないで、誰かが書いた先行する文章を適当にコピペしているだけなのでしょう。
五月五日に薬の材料を採集する風習があったこと自体は間違いないことですから、この日を薬の日とすることは根拠のあることで、結構なことだと思います。しかしこの日に鹿茸を採集したというのは、江戸時代の国学者達が推定しただけのことなのです。
私は歳時記について長年研究していますが、この薬の日に限らず、ネット情報の出鱈目さ加減には、ほとほと呆れています。まず史料的根拠を示さずに、「・・・・と伝えられています」「・・・・と言われています」という書き方をしている筆者は、原典史料を自分で確かめていないものと見て間違いありません。見ていないから、そうとしか言いようがないのです。その様な書き方をしている著書や情報は、まず疑ってかかった方がよい。伝聞でなら何とでも書けるからです
私はこの時期、散歩のついでに、毎日のように薬猟をしています。自家製の薬草茶の材料を集めるのです。くこ・蓬・枇杷の葉・どくだみ・ミント・柿の葉・桑の葉・月桂樹の葉・熊笹などが主な材料なのですが、それに鳩麦茶・麦茶・抹茶などをブレンドして作ります。もともとはお茶代節約のために始めたことでしたが、お客さんにも美味しいと喜ばれ、やめられなくなりました。
「
五月五日に薬猟が行われたことが、『日本書紀』に記されていて、平安時代以来五月五日が「薬日」と呼ばれていたからです。
『日本書紀』の推古天皇の御代には、「十九年夏五月五日、菟田野(うだの)に薬猟す」、「二十年夏五月五日、薬猟して羽田(はた)に集ひ・・・」、「二十二年夏五月五日、薬猟す」と記されていて、五月五日に3回行われています。また天智天皇の御代には、「七年五月五日、天皇蒲生野に縦猟(かり)したまふ」、「八年五月五日、天皇、山科野に縦猟したまふ」と記されていて、2回行われています。
五月五日に薬の材料を採集することは、古代中国の風習で、6世紀に成立した、中国の長江中流域一帯である荊・楚地方(現在の湖北省・湖南省付近)の年中行事を記録した『荊楚歳時記』には、五月五日に人々が蓬を採って人の形に作り、門戸の上に懸けて邪気を祓うこと、菖蒲を刻んで杯に浮かべて飲むこと、また「競ひて雑薬を採る」ことが記されています。ただしこの書物が日本に伝えられるのは奈良時代の最初ですから、推古・天智朝の薬猟は、『荊楚歳時記』ではない、別の情報が伝えられたためとしか考えられません。もし『荊楚歳時記』の影響で推古朝に薬猟をしたと記されていたら、それは時期が誤っています。ともかく、7世紀初めには、五月五日に薬を採るという古代中国の風習が日本にも伝えられ、それに倣って日本でも行われたわけです。
日本のネット情報などでは、この日の薬猟で、鹿茸と(ろくじょう)いう鹿の若い角を採ったと記されています。確かに鹿茸には強壮の薬功があるようで、現在でも漢方薬の材料となっているそうです。薬猟とか薬の日でインターネットを検索すると、引っ掛かってくる情報のほとんどに、古代の薬猟で鹿茸を採集したと記されています。しかし『日本書紀』の史料を何所にも「鹿茸」とは記されていません。
曲がりなりにも大学で史学科を卒業した私としては、どうしても納得できません。『荊楚歳時記』にも「雑薬」、つまり各種の薬を採ったと記されているだけで、鹿茸とは記されていません。いったいどうなっているのかといろいろ調べていると、ようやく「犯人」がわかってきました。江戸時代の国語辞典である『和訓栞』の「くすりがり」の項に、「推古紀に、五月五日、薬猟於菟田野と見えて、万葉集に多くよめり・・・・鹿茸を主にて、百薬をも採なるべし、」と記されているのです。他にも何人かの国学者が同じように記しています。しかし丁寧に読んでみると、「採るなるべし」と推定しているだけであって、断定はしていません。もともと『日本書紀』には記されていないのですから、断定のしようもないことなのです。また「くすりび」という項があり、「五月五日をいふといへり。貫之集に、ほととぎす鳴けども知らぬあやめ草こぞ薬日のしるしなりけり」と記されています。『貫之集』を確認しましたが、確かにその歌はありました。ですから「薬日」という呼称は、かなり早い段階からあったことは確かです。しかしウィキペディアには推古朝の薬猟を記念して薬日とと定めたようなことが記されていますが、『日本書紀』にはその様なことも一切記されていません。ネット情報という物は気を付けなければならないとつくづく思います。製薬会社の情報やネット情報や辞書類では、まるで判で押したように古代の薬猟で鹿茸を採集したと断定的に記述しています。書いている人は、『日本書紀』など一瞥もしないで、誰かが書いた先行する文章を適当にコピペしているだけなのでしょう。
五月五日に薬の材料を採集する風習があったこと自体は間違いないことですから、この日を薬の日とすることは根拠のあることで、結構なことだと思います。しかしこの日に鹿茸を採集したというのは、江戸時代の国学者達が推定しただけのことなのです。
私は歳時記について長年研究していますが、この薬の日に限らず、ネット情報の出鱈目さ加減には、ほとほと呆れています。まず史料的根拠を示さずに、「・・・・と伝えられています」「・・・・と言われています」という書き方をしている筆者は、原典史料を自分で確かめていないものと見て間違いありません。見ていないから、そうとしか言いようがないのです。その様な書き方をしている著書や情報は、まず疑ってかかった方がよい。伝聞でなら何とでも書けるからです
私はこの時期、散歩のついでに、毎日のように薬猟をしています。自家製の薬草茶の材料を集めるのです。くこ・蓬・枇杷の葉・どくだみ・ミント・柿の葉・桑の葉・月桂樹の葉・熊笹などが主な材料なのですが、それに鳩麦茶・麦茶・抹茶などをブレンドして作ります。もともとはお茶代節約のために始めたことでしたが、お客さんにも美味しいと喜ばれ、やめられなくなりました。
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