うたことば歳時記

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月見の起原(出鱈目な通説)

2017-07-16 11:02:57 | 年中行事・節気・暦
 ネット上には月見の由来や起原について、さまざまな解説が見られます。最も多いのが収穫を月の神に感謝することに始まるというものです。里芋の収穫を感謝して里芋を供え、稲の収穫を感謝して稲穂に見立てたすすきを供えるというのです。このような発想は、江戸時代のお月見には、すすきと里芋を供えていたということから思い付いたのでしょうが、由来や起原というからには、古代の月見まで遡らなければなりません。中には、収穫作業が夜になっても、月明かりが助けになるので感謝をするとか、縄文時代から行われていたというものもありました。しかしいずれの説も史料的根拠を示しているものは一つもありません。そして「・・・・と言われています」「・・・・と伝えられています」という表現を多用するのです。そのようなことをいったい誰がいつから言っているのか、伝えているのか。それには全く触れられていません。ネット情報とはつくづくいい加減なものが多いと思います。「月明かり云々」についてはただただその発想が滑稽であり、「縄文時代云々」についてはあまりにもお粗末で、哀れさえもよおします。近現代にそのような風習が行われていたとしても、それが起原に関わることにはなりません。

 月を愛でることは『万葉集』にたくさん詠まれているのですから、月が稲や里芋栽培の農業神であったことを示す根拠が、記紀や『万葉集』になければなりません。しかしそのようなことの痕跡すらみつかりません。もし根拠があるなら、大手を振って「『・・・・』によれば」と書くのでしょうが、その様なものがないので、「・・・・と言われています」としか書きようがないのでしょう。わからなければわからないと、素直に認めればよいのです。せいぜい許されるのは、「・・・・だと思います」と、推定の責任を自ら負うものまででしょう。

 それなら月見の起原は、どこまで遡ることができるのでしょうか。観月の宴ではなく、ただ単に月をしみじみと眺めるというのであれば、『万葉集』に約200首もある月の歌から探し出すことはできます。その中からいくつか読んでみましょう。
①去年(こぞ)見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年離(さか)る(211)
②我が背子がかざしの萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし(2225)
③心なき秋の月夜の物思ふと寐の寝らえぬに照りつつもとな(2226)
④白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも(2229)

 ①は柿本人麻呂が妻の死を哀しんで詠んだ歌で、「相見し」というのですから、去年には二人で眺めたのです。②は男女二人で月を眺めている場面で、女の髪には萩の花が挿してあり、萩の枝の露に月明かりが映っているというのです。③は独り寝の床で月を見ると、わけもなく物思いをして眠れない、という意味です。④は秋も終わりにちかい有明月を、飽きることなく眺めている場面です。「長月の有明月」は、その後長く慣用的に詠まれるようになります。

 『万葉集』にある月を詠んだ歌には、面白いことに季節がはっきりとわかるものはそれ程多くはありません。また月見の宴があったことを推定できる歌は大変少なく、恋に関わって月を詠んだ歌が大変多いことに特徴があります。『万葉集』の時代には、中秋の名月を殊更に賞翫する「お月見」の風習はまだ始まっていなかったと見てよいでしょう。しかしそれは当時の人が月の美しさに無関心であったわけではありません。なにしろ月を詠んだ歌が約200首もあるのですから。

 平安時代になると、『竹取物語』に「在る人の『月の顔見るは忌むこと』と制しけれども」という記述があるように、月を見ることは敢えてしないという風習があったようです。『源氏物語』の宿木巻にも、「今は、入らせたまひね。月見るは忌みはべるものを。」と記されています。それならなぜ月を眺めるのが忌むべきものと理解されたのでしょうか。それは在原業平の次の歌に鍵がありそうです。「おほかたは月をもめでじこれぞこの積もれば人の老いとなるもの」(古今和歌集 879)。一般的な気持ちでは、月を愛でることはするまい。この月というものは、積もり積もれば人の老いとなるものだから、という意味です。今一つ理解しきれないところがあるのですが、業平の歌は意味がわかりにくいことで有名でした。暦では月の満ち欠けによって月数を数え、それがさらに重なって年を数えることになるのですから、人は月を見ながら老いてゆくことになるからでしょうか。とにかく忌む理由は老につながるからというわけです。

 月を見ると寿命が短くなるという理解は、唐の詩人白楽天の詩にも見当たります。『白氏文集』第十四「贈内」には、「月明に対して 往事を思ふことなかれ 君が顔色を損じて 君が年を減ぜん」という一節があります。意味は「月明かりに向かって、過ぎた昔を懐かしんではいけない。あなたの容色を損ない、寿命を縮めてしまうから。」ということでしょう。『白氏文集』は当時の文化人なら暗記をしている程の基礎教養でしたから、月を見ると寿命が縮まるという理解は、共有されていたとみてよいでしょう。しかし一方では、月には若返りの変若水があるという俗信があったことが『万葉集』に見られ、『竹取物語』では、月は不老長寿の世界として描かれていますから、この矛盾をどのように理解すればよいのか、正直なところ私には説明できません。

 一方で忌むべきものという理解がありましたが、他方では月を愛でる心はそれに勝るものがありました。そのことは『古今和歌集』以来の古代・中世の和歌集に、夥しい月を詠んだ歌が収められていることでも明かです。また平安時代になると、唐の観月の宴に倣って、宮廷の行事として観月の宴が開かれるようになりました。

 月の宴の文献上の初見は、菅原道真の師であり、その妻の父でもあった島田忠臣の『田氏家集』に収められた、「八月十五夜宴月」「八月十五夜惜月」という題の漢詩ということになっていますが、年まではわかりません。彼は文徳・清和朝に活躍しますから、一般には文徳天皇の頃から宮廷行事としての観月の宴が行われるようになったと説明されるのです。しかし文献史料が残っていないだけであって、私は、大の唐贔屓であった嵯峨天皇あたりから行われたのではないかと思っています。もちろん根拠はありません。桓武天皇の御代、御所のすぐ南に隣接する程近くに神泉苑が造営されました。嵯峨天皇は『日本後紀』の弘仁三年(812年)に記されているように、神泉苑で「花宴の節」を催したくらいですから、「観月の節」があってもおかしくはないというだけのことです。(根拠が曖昧な場合は推定の責任は私にありますので、「・・・・と思います」と表記します)

 宮廷行事としての観月の宴の記録は、『日本紀略』の延喜九年(909)閏八月十五日に、「夜、太上法皇(宇多法皇)文人ヲ亭子院ニ召シ、月影浮秋池ノ詩ヲ賦セシム。」と記されているのが初見だと思います。もしそれよりも早い記事があれば、私の見落としです。宇多法皇は9月13日にも観月の宴を設け、「本朝無双の明月為す」とした程の風流人でしたから、お月見の由来に大きな役割を果たしているわけです。ただし毎年恒例の節会となるようなことはありませんでした。宮中の行事として行われたことは、そのまま貴族の私邸でも模倣されたことでしょうし、さらに広く行われるようになったことは想像に難くありません。私が全巻を読んで探し出したわけではありませんが、先行する研究によれば、『源氏物語』には中秋の名月の場面は7回あるそうです。

 現代人は月を眺めてどのようなことを思うでしょうか。その美しさに心を奪われ、素直に感動するでしょうが、それ以上でもなくそれ以下でもない場合が多いことでしょう。もちろん人それぞれでよいのですが、古の人たちの月の理解は、実に豊かなものでした。和歌集には秋の月を詠んだ歌が数え切れない程伝えられています。そんな歌をいくつか読んでみましょう。

⑤すみのぼる心や空を払ふらん雲の塵ゐぬ秋の夜の月 (金葉和歌集 188)
この歌には、「八月十五夜明月の心をよめる」という詞書きが添えられています。月は澄みきってそらに棲んでいるので、見る人の心も澄んでくると理解しているのです。

⑥西へゆく心は我もあるものをひとりな入りそ秋の夜の月 (金葉和歌集 580)
この歌は、月が西に沈むことから、西方極楽浄土へ往生することを連想し、自分も月のように憧れている西の方に往きたいという心を詠んでいます。また月を釈尊に見立てることもありました。このように信仰的視点から月を見ることは、現代人はもうできないことでしょうね

⑦ありしにもあらずなりゆく世の中に変はらぬものは秋の夜の月 (詞花和歌集 98)
この歌は、世の中が移り変わっても、月は昔のまま変わることがないと、月と比較して世の無常を嘆いている歌です。月を見て老を嘆くとも言えるでしょう。月を見ることを忌むという発想は、このような理解と関係があるのかもしれません。

⑧いつとてもかはらぬ秋の月見ればただいにしへの空ぞこひしき (後拾遺和歌集 853)
この歌は、⑦のように月はいつまでも変わらないものであるがゆえに、昔のことを思い出させる懐旧の月
詠んでいます。

⑨水の面に照る月浪をかぞふれば今宵ぞ秋の最中なりける (拾遺和歌集 171)
この歌は、水面に映る月を詠んだもので、古来月の名所と言われた所は、大沢池・広沢池・嵐山・明石の浦・琵琶湖など、水に縁のある所が多いものです。松尾芭蕉も「名月や池を巡りて夜もすがら」と詠んでいますね。現代人は水面の月をしみじみと眺めることをしなくなってしまいましたが、これならすぐに回復することができるでしょう。

⑩さらぬだに玉にまがひて置く露をいとどみがける秋の夜の月 (金葉和歌集 209)
この歌は月の光を映して光る露を詠んでいます。中には露に月が宿るという表現も好まれました。なかなか繊細な感覚ですね。
 
 あまりに多いのでこの程度にしておきますが、その他には廃屋の月、鏡に見立てられる月、舟に見立てられる月、清流の水底にすむ月、望郷の月、雁と月、萩と月、木の間から漏れる月影、物思いを誘う月など、実に豊かな秋の月が詠まれています。ここでは触れませんでしたが、秋以外の季節の月も歌に詠まれています。俳句の世界では月は秋の季語になってしまっていますが、古の人たちは四季折々の美しさを知っていました。またそしてネット情報で月見の起原や由来として説明される「豊作祈願や感謝」という視点は、古代・中世の月の歌には微塵も見られないことを確認しておきましょう。

 ここに上げた歌は、決して特殊な歌ではありません。同じような視点の歌は夥しくあり、このような月の理解は、平安時代から室町時代までは共有されていたことを示しているのです。ただし月を翫んで歌を詠む程の人は、ある程度以上の教養のある階級でしたから、江戸時代の庶民感覚とはずれることがあるでしょう。近世のいわゆる「お月見」とは、別に考える必要がありそうです。

 江戸時代の月見の風習については、当時の歳時記類が史料になります。このことはまた別にお話しするつもりですが、それは月見の起原ではありません。あくまでも江戸時代の月見の風習なのです。
 

九月十三夜の月(出鱈目な流布説)

2017-07-12 22:00:02 | 年中行事・節気・暦
 中秋の名月のほぼ一月後、旧暦9月13日の月は「十三夜」と称して、十五夜に負けず劣らず賞翫されました。また中秋の名月に続く二回目の明月ということから、「後の月」とも称されました。月齢は13日ですから、夕暮には既に東の空高く上っていて、十五夜よりわずかに欠けて見えます。十三夜の月を賞翫することは中国にも朝鮮にも例がなく、日本独自の風習です。しかしそもそもなぜ十三夜の月がそれ程までに賞翫されたのでしょうか。

 11世紀から12世紀にかけて活躍した公卿である、藤原宗忠の日記『中右記』保延元年(1135年)九月十三日には、十三夜の起原について次のように記されています。「今夜雲浄ニシテ月明シ、是寛平法皇(宇多法皇)今夜明月無双ノ由仰セ出サレ云々、仍チ我朝九月十三夜ヲ以テ、明月ノ夜ト為ス也、」。宇多法皇が9月13日の月を御覧になって、この日の月を日本では無双の名月であるとしようと言われたというのです。これを傍証するように、醍醐天皇の延喜十九年(919年)、つまり宇多法皇の御代の九月十三日、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の家集である『躬恒集』には、延喜十九年九月十三日の日付のある「ももしきの大宮ながら八十島をみる心地する秋の夜の月」という歌が収められています。同じ歌はよみ人知らずとして、『拾遺和歌集』雑秋(1106)にも収められています。

 九月十三夜の月を詠んだ歌はたくさんあるのですが、もう一首よく知られた歌を御紹介しましょう。「雲きえし秋のなかばの空よりも月はこよひぞ名におへりける」。これは西行の『山家集』に収められている歌で、歌の中には十三夜とは詠まれていませんが、「九月十三夜」の題があるのでそれとわかります。一片の雲もない中秋の名月よりも、今宵の月の方が名月の名に相応しい、というのです。「名に負う」というのですから、「本朝無双の明月」という宇多法皇の逸話を承知していたものと思われます。また松尾芭蕉に『芭蕉庵十三夜』という次のような文章があります。「仲秋の月は、更科の里、姨捨山になぐさめかねて、なほあはれさの目にも離れずながら、長月十三夜になりぬ。今宵は、宇多の帝のはじめて詔をもて、世に名月と見はやし、後の月、あるは二夜の月などいふめる。」心ある人たちならば、宇多法皇と十三夜の逸話は誰もが知っている常識だったようです。

 中秋の名月は、いわば完璧で非の打ち所のない美しさを持つ名月です。しかし十三夜の月は、何か一つ欠けた陰影のある美しさを持つ名月と言うことができるでしょうか。日本人の美意識にかなう美しさなのでしょう。『徒然草』の137段に、「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」という有名な文があります。「桜の花は満開のときばかり、月は満月ばかりを見るものなのか。いやそうではない。」という意味です。占部兼好のいう美意識も、十三夜に通じます。西行も芭蕉も、そのような美しさを知っていたのです。

 ネット情報では、8月15日の中秋の名月だけを眺めて、9月13日の月を眺めないことを、「片月見」と称して縁起が悪いことであると解説するものがたくさん見られます。しかしこれも随分と誤解されて広まっています。『守貞漫稿』には、片月見について次のように記されています。「今日若他ニ行テ酒食ヲ饗サルヽ歟、或ハ宿スコトアレバ、必ラズ九月十三日ニモ再行テ今日ノ如ク宿ス歟、或ハ酒食ヲ饗サルヽコトトスル人アリ、不レ爲レ之ヲ片月見ト云テ忌ムコトトス、俗諺ノ甚シキ也、片付身ト云コトヲ忌ナルベシ、此故ニ大略今日ハ他家ニ宿ラザルコトトス」。現代語にしてみましょう。「江戸の風習では、8月15日に他所での月見の宴で御馳走になったり、そこに宿泊した場合には、必ず9月13日にも再びそこに行って宿泊したり御馳走になることにするという人がいる。もしその様にしないことがあれば、それを「片月見」と言って忌み嫌う。迷信も甚だしいものであるが、『片付身』ということを嫌うことによる。そのため、一般には8月15日は他所に宿泊しないようにするものである」、というのです。一般的にそのような風習が広く行われていたということではなく、縁起を担ぐ人には、その様なことにこだわる人もいるが、そのようなことは「俗諺ノ甚シキ也」であると言っています。これは主に吉原などの遊郭の客の間で言われたことで、8月15日に吉原で遊興した者が、9月13日に登楼しないことが忌むべきものされたことに由来するのですが、要するに遊郭が客寄せのためにそのような仕来りを吹聴しただけのことです。『誹風柳多留』には「片月見ごくごく悪い首尾と見え」、「物いまいたけに月見を二度くらい」という句が収められています。「物いまい」とは縁起をかつぐ人を表す江戸言葉です。吉原では五節句や盆・十五夜・十三夜は「大紋日」と呼ばれる一種の祝日で、揚代が二倍となるのが相場でした。ですからどうしても馴染みの客を取りたいあまりに、このような風習が行われるようになり、縁起を担ぐ裕福な男たちは、二倍の揚代を払ってでも片月見の野暮な人と言われないように見栄を張ったのです。それで懐に自信のない男たちは、うっかり8月15日に他所で宿泊しないようにきを付けた、というわけです。

 この風習が始まったのは、おそらく江戸時代のことと思われます。なぜなら十三夜の文献史料は数え切れない程たくさんあるのですが、それが忌むべきものという理解は、江戸時代より古い史料には全く見当たらないからです。ただネット情報にあるように、一律に「縁起が悪い」とか「忌むべきもの」とされていたことを強調するのは如何なものかと思います。西行や芭蕉が十三夜を愛でた心で、私たちも賞翫した方がよいと思うのですが。両方見ないと縁起が悪いから見るというのでは、風情はどこかに消えてしまいます。まるで脅迫のようですね。「縁起が悪い」とネット上に解説している人に問いたいものです。あなたはその根拠を知った上で書いているのですか、と。どの情報も判で押したように同じ文言であるのはなぜなのでしょうか。きっと先行する情報を切り貼りして書いているのでしょう。



中秋の名月と仲秋の名月

2017-07-11 14:34:21 | その他
 旧暦8月15日の月は、古来「ちゅうしゅうの名月」と称して、賞翫されてきました。「ちゅうしゅう」という言葉には、「中秋」と「仲秋」の表記がありますが、意味は微妙に異なります。中秋は秋の真中という意味で、月切りの季節区分では、旧暦1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬ですから、中秋は秋3カ月の真中である8月15日を意味しています。(立春・立夏・立秋・立冬を基準として季節を分けるやり方は「節切り」と言います)。それに対してそれぞれ3カ月の季節を3等分し、初めの三分の一を「孟」、次の三分の一を「仲」、最後の三分の一を「季」と名付けることがあります。

 少々脱線しますが、孟・仲・季の季節はそれぞれ1カ月の幅がありますから、時候の挨拶には便利な言葉ですね。堅苦しくて苦手にする人もいることでしょうが、旧暦1月ならば、「孟春の候」、2月ならば「仲春の候」、3月ならば「季春の候」と書けばいいのですから、便利な言葉です。

 話をもとに戻しましょう。ですから秋3カ月の内、7月を孟秋、8月を仲秋、9月を季秋と呼ぶわけです。「孟」は人名では「はじめ」と読み、「季」は「すえ」と読むことがありますね。楠木正成の末弟に「正季」(まさすえ)という武将がいて、湊川の戦いで自刃したことはよく知られています。中国語で「季妹」と言えば、末の妹のことです。そういうわけで仲秋は8月全体のことですから、仲秋の名月は8月中の名月、つまり8月の満月という意味になり、仲秋の名月は必ず満月なのです。
 それなら中秋の名月はどうなるのでしょうか。結論から言えば、満月とは限りません。天文学的には、月の地球周回軌道は楕円であり、地球との距離は変化します。地球に近い時は月は速く動き、遠い時は遅く動きます。そのため旧暦15日が必ず満月とは限らないのです。満月は年によって旧暦の14日から17日の範囲で一定していません。実際には月齢で16日くらいのことがかなりあるのです。8月17日が満月になる年の中秋の月、つまり8月15日の月は、よくよく見れば満月ではないことがわかります。
 ただし歴史的には「中秋の名月」という表記が圧倒的に多く、民間では「十五夜」という言い方が定着していますから、「中秋の名月」の方が正しいと思われるのも一理あります。ですから十五夜という言葉にこだわるならば中秋の名月、満月にこだわるならば仲秋の名月と言えば間違いはないわけです。

 ネットには「中秋の名月」が正しく、「仲秋の名月」は誤りであるかのように説明されることが多いのですが、「仲秋の名月」が誤りというわけではありません。間違いと書いている人は、仲秋と中秋の意味を正しく理解していないのでしょう。


近現代のお盆の様子

2017-07-10 21:21:12 | 年中行事・節気・暦
私のブログである「歌ことば歳時記」に『盂蘭盆(お盆)の起原の誤解』という小論を載せておきましたので、まだそちらをお読みになっていない方は、まずはそちらを御覧下さい。

近現代の盂蘭盆(お盆)の行事は、地域により大きな差異がありますので、比較的多くの地域に共通して当てはまることについてお話ししましょう。まずその期間ですが、7月13日から16日までというのが一般的です。もちろん一月遅れのこともあり、その場合は8月13日から16日というわけです。

 江戸時代には 7月12日の夜から 13日の朝にかけて、「草市」と称して供養に必要な物を売る店が立ちました。盆提灯、盆灯籠、籬垣(ませがき)、線香、盆棚用の菰(こも)、迎火・送火用の麻幹(おがら)や焙烙(ほうろく),先祖や精霊の乗物とされる茄子や胡瓜、真菰馬,鬼灯(ほおずき)、供え物を盛る蓮の葉などの他に、各種の一般的な仏具なども売られていました。現在では東京都中央区月島の草市が特によく知られています。京阪方面については、よく知らないので御免なさい。

 盆棚の設えは、仏壇とは別に経机や小机などを置き、真菰を編んだ敷物を敷きます。そして四隅に結界を表す竹を立て、菰縄を結んで囲います。その縄には、鬼灯(ほおずき)をぶら下げます。棚の側面の周囲を杉の葉で覆う場合もあります。棚の上には真菰筵(まこもむしろ)を敷き、中央の奥には位牌を安置します。そしてさまざまな供物や茄子の牛・胡瓜の馬なども供えます。また水の子(茄子や胡瓜を賽の目に刻み、洗った米を混ぜたもの)を供え、法要で水を精霊にふりかけるために用いるみそはぎの花を飾ります。そして盆棚の脇には盆提灯を置きます。素麺を供えることがありますが、これは七夕の行事食ですから、七夕と盂蘭盆が接近していて、一連の行事と考えられていたことを示唆しています。真菰の馬は七夕に飾る地域もあり、これも素麺と同様で、七夕に飾ることもあります。その他細かいことは宗派や地域によってまちまちですから、それぞれの地域のお寺に尋ねたり、ネットで検索してみて下さい。『守貞漫稿』には「四隅ニ青竹ヲ立テ、菰縄繩ヲ張リ、下ニハ真菰筵ヲ敷キ、棚ノ周リニハ、青杉葉ニテ造リタル籬ト云ヲ以テ、棚ノ如クニス、此棚上ニ、常ニハ仏檀ニ置ル位牌ヲ取出シ祭ル、」と記されています。現在の設えは、江戸時代の様式と基本的には同じようです。

 盆棚の設えができたら、祖先の霊、つまり精霊を迎えなければなりません。そのためには13日の夕方に墓に詣で、そこで麻幹・苧殻(おがら、麻の表皮を剥がして残った茎)を燃やし、その火を提灯の蝋燭に移して持ち帰ります。つまり精霊は火に象徴され、火と共に懐かしいかつての我が家に帰るのです。墓が遠い場合はわざわざ行くことができませんので、屋敷の入り口に焙烙(土鍋のような形をした素焼きの器)を置き、そこで苧殻を燃やして精霊を迎えることもあります。その火を灯明や盆灯籠などに移し、盂蘭盆の期間は原則として火を消しません。火は精霊がやって来る目印という理解がありますが、盆棚に火を移して消さないことを考えると、目印というよりは、私は、精霊その物と理解した方がよいと思っています。この辺りのことになると、事実かどうかというよりは、解釈の問題でしょう。地域によって、また宗派・宗教によって、いろいろな解釈があってよいことです。その際に盆棚の茄子や胡瓜の牛馬は、精霊の乗り物ということで、内向きに置きます。盂蘭盆の期間には一族親戚が集まり、祖霊を供養しつつ再会を喜んだり楽しく食事をしたりして、一族の結合を再確認するのです。新盆の場合は僧侶を招いて法要をお願いすることもあります。

 実家に帰って十分に供養された精霊は、15日か16日の夕方にはまた霊界に帰ることになります。その際にはまず茄子や胡瓜の精霊牛馬は、外向きに置きます。そして今度は送り火を焚くのですが、迎え火の逆になるわけで、屋敷の入り口に置いた焙烙の上で苧殻を燃やしたり、火の点いている提灯を墓まで持っていって、そこで火を消したり、火の点いたままの灯籠を川に流したりします。これはいわゆる精霊流しと呼ばれるもので、近年では河川環境の悪化の原因となるので、禁止されることもありますが、やむを得ないことなのでしょう。毎年京都で8月16日に行われる「大文字」「左大文字」「妙・法」「舟形」「鳥居形」の五山送り火は観光化されていますが、本来は盂蘭盆の送り火が大規模に行われていることになります。元治元年(1864年)に出版された『花洛名勝図会』には、8月16日の夜に京の賀茂川原で大文字の送り火を見ながら、それとは別に足元で送り火を燃やす人々で混雑している様子が描かれています。東山の山の端には十六夜の月が姿を見せたばかりですから、およその時刻が察せられます。同図はネットで「花洛名勝図会送り火」の画像を検索すると、すぐに見ることができますから、是非御覧下さい。

 送り火と共に、精霊の乗り物と理解された茄子や胡瓜の牛馬、その他に盆棚に供えたものは川や海に流されました。この風習はひょっとしたら、室町時代まで遡れるかもしれません。『華實年浪草』とう書物に一休宗純の「山城の瓜や茄子をそのまヽに手向となれや賀茂川のみづ」という歌が引用されているのですが、京の市民が茄子や瓜を賀茂川に流したようです。しばしば引用されている『守貞漫稿』にも、そのように記されています。また『翁草』という書物には、以下のような話が記されています。江戸の豪商として知られる河村瑞賢が極貧の生活に絶望していた時、彼は品川の海岸でそれを見て、あることが閃きました。彼は「乞食」たちに銭をやってそれを拾い集めさせ、漬物にして売り出し、大もうけをしたのです。この話は明治30年代には修身の教材ともなり、一昔前まではよく知られていました。

 盂蘭盆の最中には、よく海や川に行くなと言われることがあります。「お盆の最中は、地獄の釜のふたがあくから、川や海で絶対に泳いだらいけない」と言われたことのある人もいることでしょう。その根拠ははっきりとはわかりませんが、貞享五年(1688年)に出版された『日本歳時記』には、「十五日、又今日、世俗山海の漁獵をせず、もろこしにもかヽるにや、唐の百官志に、中元日、供祠ニ非ザレバ魚ヲ採ラズと見えたり」という記述があります。江戸時代の初期には、唐の仕来りに倣って、7月15日には殺生をしないという暗黙の了解があったようです。それが仏事の最中であるから殺生は相応しくないからなのか、あるいは他に理由があるのかはわかりません。海や川に近寄るなという風習と、おそらく何らかの関係があると思います。また後付けの理屈ですが、15日は満月ですから大潮にあたり、潮の満ち干の差が大きく、潮の流れが海水浴に向いていないことは確かでしょう。また台風が接近するため、波が高くなることも多いはずです。予期せぬ事故が起きれば、それ見たことか。お盆に泳いだりするからだということになりがちです。

 なおついでのことですが、最近はお盆でも牡丹餅(お萩)を食べることがあるようです。本来は彼岸の行事食ですから、お盆には食べる風習はありませんでした。最近は仏事の行事食として理解されるようになっているのでしょう。春は牡丹餅、秋はお萩と名前を使い分けるという定説に基づけば、新暦のお盆は夏であり、旧暦のお盆は秋であり、何と言えばよいのでしょうか。まあ月遅れの8月15日ならもう秋ですから、お萩という人が多いのでしょうね。しかし「春は牡丹餅、秋はお萩」ということになっていますが、実はこれが誤りなのです。そんなはずはないという人は、私のブログ「うたことば歳時記 牡丹餅とお萩(流布説の誤り)」に史料的根拠を上げて説明してありますから、そちらを御覧下さい。

盂蘭盆が終わると、いよいよ秋ですね。新暦の7月半ばでは真夏ですが、旧暦ならば8月の中~下旬ですから、残暑は厳しいものの、時折吹く風に秋を感じられることでしょう。「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」



盂蘭盆・お盆の起原(出鱈目な通説)

2017-07-07 15:24:14 | 年中行事・節気・暦
嬉しいことや忙しいことが重なることを喩えて、「盆と正月が一度に来たような」と言うことがあるように、一般に「お盆」と呼ばれる盂蘭盆(うらぼん)、正しくは盂蘭盆会(うらぼんえ)は、祖先を供養する日として日本人の生活に溶け込んでいます。本来ならば旧暦7月7日の七夕の一週間後ですから、七夕とお盆は接近しているはずです。しかし学校の夏休みやサラリーマンの帰省と重なることを意図してか、お盆は新暦の8月15日に行われ、七夕とは離れてしまうことが多いようです。

 さて「盂蘭盆」という表記を見ても、意味はさっぱり見当も付きません。盂蘭盆は古代インド語ともいうべきサンスクリット語で「逆さまに吊るされた」という意味の「ullambana」という言葉に由来すると言われているからです。ところが私はこの「逆さ吊り」を疑問に思っていました。なぜなら盂蘭盆が説かれている『盂蘭盆経』は、西晋(後漢滅亡後に中国を統一した王朝、3~4世紀)の時代にサンスクリット語から漢訳されたとされているものの、サンスクリット語の原典が存在せず、6世紀頃に中国で創作された偽経とされています。それにもかかわらず、一般には「盂蘭盆という言葉はサンスクリット語のullambanaという言葉に由来し、逆さ吊りを意味している」と説かれているからです。サンスクリット語の原典がないのに、なぜサンスクリット語であると言われるのか。また『盂蘭盆経』の内容が「孝」の徳を説くもので、仏教と言うよりは儒教思想に基づくものではと思っていたからです。そこで定説にとらわれることなく、まずは直接読んでみようと思ったわけです。

 問題の『盂蘭盆経』には、次のような話しが記されています。釈尊の弟子である目連(もくれん)は神通力を得たので、既に亡くなっている父母を悟りに導いて恩に報いようとしました。その力によって見わたしたところ、母は餓鬼道に落ち、飲食もできずに苦しんでいることを知りました。そこで彼は母の前に飯を出現させたのですが、食べようとすると燃え上がってしまい、食べることができません。そこで釈尊に訴えると、「汝一人の力ではどうにもならない。しかし十方の僧たちの威力によるならば、母を苦しみから解放することができるであろう」と言われました。そこでその通りにすると、母はその功徳によって餓鬼道の苦しみから救い出されました。そして釈尊は「このように孝行の心をもって7月15日に仏と僧に施しをし、また祖先を供養するならば、7代前の父母に至るまで救いに至るであろう。このようにして父母の恩に報いなさい」と言われた、というのです。原文は漢文で、正確に訳すのは難しいですが、それ程長いものでもないので、だいたいの内容は目で追えば理解できるでしょう。『盂蘭盆経』は、国会図書館デジタルコレクションで容易に読むことができますから、是非御覧下さい。

 丁寧に読んでみたのですが、不思議なことにどこにも「逆さ吊り」のことは書かれていないのです。「盆」「盂蘭盆」という言葉はありますが、いずれも容器としての名称であり、「逆さ吊り」につながるような要素は一切見当たりません。そこで「逆さ吊り」という理解がいつから出現するのか調べてみると、7世紀前半、唐の時代の玄応という僧が、勅命によって撰述した『一切経音義』という書物の中に、「盂蘭盆,この言は訛(なまり)なり。まさに烏藍婆拏(うらんばな)と言う。この訳を倒懸という。」という記述にたどり着きました。「倒懸」という漢語が「「逆さ吊り」」に当たるわけです。

 私は仏教学者ではありませんから、専門的なことはわかりませんが、盂蘭盆をそのように理解するのは、どう考えても無理があります。同経の末尾の結論とも言うべき、最も重要な部分を読んでみましょう。「是の仏子、孝順を修する者は、応(まさ)に念々の中に常に父母乃至(ないし)七世の父母を憶(おも)ひて、年々七月十五日は常に孝慈を以て所生(しょしょう)の父母乃至七世の父母を憶ひ、為に盂蘭盆を作り、仏及び僧に施し、以て父母長養慈愛の恩を報ずべし。」7月15日に、常に孝順の心を以て生んでくれた父母から7代前の父母までを思い、盂蘭盆を作って仏や僧に施し、長く養い育ててくれた父母の慈愛に報いなさい、という意味ですね。ここに言う「盂蘭盆」は明らかに食器としか考えられません。素直に原典を読めば、7月15日には、父母に孝養するために、盂蘭盆を作って仏や僧に施しをして功徳を積みなさい。そうすれば父母も祖先も救いに至るでしょう、と理解することができます。世の中の定説というものも、一度は疑って見直してみるものだと、つくづく思いました。ネット情報に「逆さ吊り」云々と解説している人は、きっと『盂蘭盆経』を読まずに、先行する情報を未確認のまま借用しているとしか思えません。それより私が興味を持ったのは、7月15日という日がはっきりと指定されていたことでした。

 『盂蘭盆経』が中国で作られた偽経であることを傍証するように、盂蘭盆会の風習はインドにはなく、6世紀に梁の武帝が始めたとされています。『日本書紀』によれば、推古天皇十四年(606)七月十五日に斎会を設けたのが始まりとされています。ただし「盂蘭盆」という言葉は見当たりません。斉明天皇五年(657年)7月15日には、「京内の諸寺に盂蘭盆経を勧講せしめて、七世の父母を報ひしむ」と記され、初めて「盂蘭盆」という言葉が現れます。父母への報恩という趣旨も、本来の盂蘭盆にかなうものであり、後世の風習とは異なっていますね。こういう史料は、7月15日という日が限定されていますから、『日本書紀』の年ごとの同月同日の記事を探せば、簡単に見つかるものです。

 7月15日に行われることについては、理由があります。僧が一定の場所に集合して、長期間にわたり集団で修行することを安居というのですが、4月15日から7月15日までの90日間行われる安居は夏安居(げあんご)と称され、特に重視されました。つまり盂蘭盆の行われるのは、夏安居の明ける日に当たります。90日間の厳しい修行に耐えた僧に施しをすることが、亡くなった父母や七代前の祖先の供養につながると理解されたため、この日に行われたのです。『延喜式』という10世紀の法令集の「大膳式」を見ると、夏安居を終えた僧に盂蘭盆会で馳走するための食材がずらりと並んでいます。まるで苦行僧の慰労会のようですね。もちろんそれは方便であって、本当の目的は亡父母を初めとする祖先の供養だったのでしょうが。

 それにしてもネット情報の中には、いい加減なものがたくさんあります。その大半は先行する説を原典史料の確認もなしに切り貼りしているだけなのでしょう。有名寺院や仏具店のホームページでもみな「逆さ吊り」となっているのですから、一般の読者がそれを本当だと思うのは無理もありません。しかし少し詳しく調べてみれば、そりが出鱈目であることがすぐにわかります。歴史的なものの考証については、史料に基づかずに、「・・・・と言われています」とか「・・・・と伝えられています」という書き方をしているネット情報は、まず疑ってかかる必要があると、しみじみ思ったことでした。

追記
チコちゃんを叱るという人気番組でも「逆さ吊り説」がまことしやかに説かれていましたので、それに対する反論を投稿してあります。「うたことば歳時記 チコちゃんを叱る お盆の『盆』ってなーに」と検索して御覧下さい。