うたことば歳時記

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七夕の素麺

2017-07-01 20:56:05 | 年中行事・節気・暦
 今日、私の住んでいる地区の行事として、子供を対象とした流し素麺が行われました。それで七夕の素麺について、常々考えていたことをまとめてみました。また考証が不十分で間違っていることがあるかもしれませんが、ネット情報の誤りも気になり、不十分は承知の上で公開します。もし間違いがあれば御指摘下さい。 



七夕の行事食は素麺ということになっています。そして素麺の起原は、奈良時代に唐から伝えられた索餅(さくべい)という菓子の一種であること。またそれが日本では「麦縄」(むぎなわ)と呼ばれ、鎌倉時代には現在の「素麺」に変化したとされています。確かに東大寺正倉院に伝えられた膨大な古文書には、索餅や麦縄の名前がしばしば登場しています。さらに定説では索餅とは、小麦粉と米粉をこねて縄状にしたものを、油で揚げた菓子の一種ということになっています。ネットで索餅を検索すると、太い二本の縄に撚りをかけたような形の揚げた菓子が、七夕の行事食としてたくさんアップされています。それを見ると、確か中国の菓子にも、同じような紐状で油で揚げた菓子がありました。

 しかし私はかねてからこの定説に疑問を持っていました。なぜなら油で揚げた紐状の菓子と素麺では、あまりにも違いが大きすぎ、発展的変化の結果というには無理があると思っていたからです。また私は大学生のころに10世紀初頭に編纂された法令集である『延喜式』について研究していたのですが、『延喜式』の巻三十三大膳式下には「索餅料」として、索餅を作るための材料や道具が詳細にあげられています。小麦粉・米粉・塩・篩(ふるい)・臼・杵・調理台・刀子・竹・乾索餅籠・土鍋・薪などが見えるのですが、作り方は記されていません。しかしこれらの材料や道具から推測されることは、索餅とは、材料をこねて薄くのばし、包丁(刀子)で糸状に切り、それを竹に掛けて乾燥させたものと思われます。そして「藁」が単位となっていますから、藁で束に縛ってまとめ、籠に保存するものであったらしいのです。揚げる油がなく、揚げるための道具も見当たらないことから、揚げた菓子ではないことが明白であると思い、この点からも定説に疑問を持っていたのです。

 室町時代の初期、祇園社(今日の京都八坂神社)の社家の記録である『祇園執行日記』康永二年(1343)七月七日の条には、同一の麺類の呼称として索餅・索麺・素麺と三通りの記述があるそうです。まだ原典で直接確認はできていないのですが、それが事実だとすれば、室町時代にはこれらの呼称が混同されていたことになります。そしてこれが「素麺」の文献上の初見とされているそうです。もしそうだとすると、これらの三者は混同されるほどに似ていたのではないか。この点からも、索餅という菓子から素麺という麺類に変化したという定説に疑問を持っていました。

 ところが長年の疑問を一気に解決してくれる素晴らしい論文に出会いました。それは江戸ソバリエ・ルシックという江戸蕎麦の通人たちの団体(?)の小林向人氏による「不可解な『索餅』の生いたち」という論文です。素麺の起原についての通説の誤りを綿密な史料考証により指摘し、素麺や索餅について述べたもので、その詳細な考証には感心させられました。以下の私の文章は、主に同氏の論文に基づいていますので、ここに敬意を表して御紹介いたします。

 『御湯殿上日記』(おゆどののうえのにっき)という面白い文献史料があります。文明九年(1477)から貞享四年(1687)の約210年に渡り、女官が天皇の日常生活について記した貴重な記録です。直接読んでみたい場合は、『続群書類従』補遺の第3として全11冊にまとめられています。大きな図書館で閲覧できますが、ただし膨大な量ですので、念のため。その延宝四年(1676)七月七日の条には、「・・・・夕かた御さかつき三こんまいる。そろ、さくへいも出る。・・・・女中にもそろ出る」と記されているのです。「そろ」とは当時の女房詞で、いわゆる現在の麺類を指しています。要するに天皇が七夕の夕食に、酒の肴として素麺と索餅を召し上がっているのです。ここでは素麺と索餅が並列していて、別のものとして扱われています。また中御門天皇(在位1709~1735)の頃の宮中の年中行事を記した『当今年中行事』には、私は原典では未確認ですが、七夕の日に「索麺七節、索餅二ツ」を盆の上に供えたことが記されているそうです。ここでも明らかに別物とされていて、索餅は「二ツ」と数えられていますから、菓子のような物であると考えられます。こうなってくると、索餅から素麺に変化発展したという定説に疑問符が付くことになります。

 同氏の考証はさらに続きます。『多門院日記』の文明十年(1478)の記録には、索餅が麦縄と呼ばれていたこと、また麦縄とは素麺のようなものであると記されていることが確認できるそうです。また鎌倉末期の公家の食事について記した『厨事類記』に列記された菓子のなかに、索餅はあげられていないこと。また同書のほうとうの作り方を述べた記述に、「・・・・サクヘイノヤウニホソクキリテ、ユヲワカシ、ユデテトリアゲテ・・・・」と記されていることを指摘して、索餅がツルツルした麺類であったことの決定的証拠をあげているのです。綿密な考証はさらに続くのですが、ここでは省略することにしましょう。結論としては、室町時代までの索餅は現在の素麺に近い麺類であったものが、桃山時代以後には素麺とは全く異なる菓子の一種になってしまっているということです。

 さて江戸時代の宮中では、七夕に素麺と菓子の索餅を食べていたことが確認できたのですが、七夕に素麺、あるいは索餅を食べる風習は、どこまで遡ることができるのでしょうか。建保二年(1214年)以降に成立した有職故実書である『年中行事抄』には、次のような中国の故事が記されています。(この故事が載っている出典を探しています。『史記』あたりかと見当をつけてみましたが、わかりませんでした。どなたか御存知でしたら教えて下さい。出典を確認もせずに、さもわかっているかのようにしては書きたくありませんので・・・・。)昔、高辛氏(こうしんし、古代中国の伝説上の五聖君の一人)の子供が7月7日に死んだ。その霊魂は鬼となって人に祟り、瘧病(おこり、熱病)を患わせた。その子はいつも索餅を好んで食べていたので、(その命日である)7月7日に索餅を供えて慰霊すれば、その病を除くことができるというのです。この説話は室町時代の『公事根源』には「七月七日御節供、内膳司より是を調進す、けふさくべいを用事、ゆへある事にや、」と記したのに続いてこの説話を引用し、七夕に索餅を食べる理由を説明しています。もちろんこの場合の索餅は、素麺のようなもので、揚げた菓子の索餅ではありません。

 とにかく七夕に索餅(素麺)を食べる風習は、伝説上では中国の神話時代まで遡るということになっています。また索餅(素麺)を食べるそもそもの理由は、おこりなどの熱病の禍を払うためであったとされているのです。七夕に索餅(素麺)を食べる風習は、日本でもそのまま採り入れられられました。日本において七夕に索餅(素麺)を食べる風習は、史料の上ではどこまで遡ることができるでしょうか。鎌倉時代の年中行事解説書『年中行事秘抄』引用される『寛平御記』(『宇多天皇御記』)には、宇多天皇が正月十五日の七種粥、三月三日の桃花餅、五月五日の五色粽、七月七日の索麪(索麺)、十月初亥の餅など、民間で行われている節句を宮中の歳時とすることを定めたことが記されていますから、9世紀までは確認することができます。なお同様のことが、鎌倉時代の有職故実書である『師光年中行事』にも記されています。そうしてみると、七夕に素麺を食べる風習は、かなり古いものであると言うことができますね。

 七夕の素麺は、古代中国では熱病などにかからないようにするためでしたが、日本ではその他にも理由があるのではと思っています。もともと七夕には、裁縫や音曲の上達を願って糸を供える風習がありましたが、白く長い素麺はこの糸を連想させるからです。それを直接証明する史料は未確認ですが、自然な発想だと思います。『御湯殿上日記』天文八年(1539)七月七日には、天皇が梶の葉に七夕の歌を筆で書き、それに素麺(索餅)を載せて小御所の屋上に上げたことが記されていますが、糸を供えるだけでなく素麺まで供えたというなら、十分ありうることではないでしょうか。