ネット上には月見の由来や起原について、さまざまな解説が見られます。最も多いのが収穫を月の神に感謝することに始まるというものです。里芋の収穫を感謝して里芋を供え、稲の収穫を感謝して稲穂に見立てたすすきを供えるというのです。このような発想は、江戸時代のお月見には、すすきと里芋を供えていたということから思い付いたのでしょうが、由来や起原というからには、古代の月見まで遡らなければなりません。中には、収穫作業が夜になっても、月明かりが助けになるので感謝をするとか、縄文時代から行われていたというものもありました。しかしいずれの説も史料的根拠を示しているものは一つもありません。そして「・・・・と言われています」「・・・・と伝えられています」という表現を多用するのです。そのようなことをいったい誰がいつから言っているのか、伝えているのか。それには全く触れられていません。ネット情報とはつくづくいい加減なものが多いと思います。「月明かり云々」についてはただただその発想が滑稽であり、「縄文時代云々」についてはあまりにもお粗末で、哀れさえもよおします。近現代にそのような風習が行われていたとしても、それが起原に関わることにはなりません。
月を愛でることは『万葉集』にたくさん詠まれているのですから、月が稲や里芋栽培の農業神であったことを示す根拠が、記紀や『万葉集』になければなりません。しかしそのようなことの痕跡すらみつかりません。もし根拠があるなら、大手を振って「『・・・・』によれば」と書くのでしょうが、その様なものがないので、「・・・・と言われています」としか書きようがないのでしょう。わからなければわからないと、素直に認めればよいのです。せいぜい許されるのは、「・・・・だと思います」と、推定の責任を自ら負うものまででしょう。
それなら月見の起原は、どこまで遡ることができるのでしょうか。観月の宴ではなく、ただ単に月をしみじみと眺めるというのであれば、『万葉集』に約200首もある月の歌から探し出すことはできます。その中からいくつか読んでみましょう。
①去年(こぞ)見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年離(さか)る(211)
②我が背子がかざしの萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし(2225)
③心なき秋の月夜の物思ふと寐の寝らえぬに照りつつもとな(2226)
④白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも(2229)
①は柿本人麻呂が妻の死を哀しんで詠んだ歌で、「相見し」というのですから、去年には二人で眺めたのです。②は男女二人で月を眺めている場面で、女の髪には萩の花が挿してあり、萩の枝の露に月明かりが映っているというのです。③は独り寝の床で月を見ると、わけもなく物思いをして眠れない、という意味です。④は秋も終わりにちかい有明月を、飽きることなく眺めている場面です。「長月の有明月」は、その後長く慣用的に詠まれるようになります。
『万葉集』にある月を詠んだ歌には、面白いことに季節がはっきりとわかるものはそれ程多くはありません。また月見の宴があったことを推定できる歌は大変少なく、恋に関わって月を詠んだ歌が大変多いことに特徴があります。『万葉集』の時代には、中秋の名月を殊更に賞翫する「お月見」の風習はまだ始まっていなかったと見てよいでしょう。しかしそれは当時の人が月の美しさに無関心であったわけではありません。なにしろ月を詠んだ歌が約200首もあるのですから。
平安時代になると、『竹取物語』に「在る人の『月の顔見るは忌むこと』と制しけれども」という記述があるように、月を見ることは敢えてしないという風習があったようです。『源氏物語』の宿木巻にも、「今は、入らせたまひね。月見るは忌みはべるものを。」と記されています。それならなぜ月を眺めるのが忌むべきものと理解されたのでしょうか。それは在原業平の次の歌に鍵がありそうです。「おほかたは月をもめでじこれぞこの積もれば人の老いとなるもの」(古今和歌集 879)。一般的な気持ちでは、月を愛でることはするまい。この月というものは、積もり積もれば人の老いとなるものだから、という意味です。今一つ理解しきれないところがあるのですが、業平の歌は意味がわかりにくいことで有名でした。暦では月の満ち欠けによって月数を数え、それがさらに重なって年を数えることになるのですから、人は月を見ながら老いてゆくことになるからでしょうか。とにかく忌む理由は老につながるからというわけです。
月を見ると寿命が短くなるという理解は、唐の詩人白楽天の詩にも見当たります。『白氏文集』第十四「贈内」には、「月明に対して 往事を思ふことなかれ 君が顔色を損じて 君が年を減ぜん」という一節があります。意味は「月明かりに向かって、過ぎた昔を懐かしんではいけない。あなたの容色を損ない、寿命を縮めてしまうから。」ということでしょう。『白氏文集』は当時の文化人なら暗記をしている程の基礎教養でしたから、月を見ると寿命が縮まるという理解は、共有されていたとみてよいでしょう。しかし一方では、月には若返りの変若水があるという俗信があったことが『万葉集』に見られ、『竹取物語』では、月は不老長寿の世界として描かれていますから、この矛盾をどのように理解すればよいのか、正直なところ私には説明できません。
一方で忌むべきものという理解がありましたが、他方では月を愛でる心はそれに勝るものがありました。そのことは『古今和歌集』以来の古代・中世の和歌集に、夥しい月を詠んだ歌が収められていることでも明かです。また平安時代になると、唐の観月の宴に倣って、宮廷の行事として観月の宴が開かれるようになりました。
月の宴の文献上の初見は、菅原道真の師であり、その妻の父でもあった島田忠臣の『田氏家集』に収められた、「八月十五夜宴月」「八月十五夜惜月」という題の漢詩ということになっていますが、年まではわかりません。彼は文徳・清和朝に活躍しますから、一般には文徳天皇の頃から宮廷行事としての観月の宴が行われるようになったと説明されるのです。しかし文献史料が残っていないだけであって、私は、大の唐贔屓であった嵯峨天皇あたりから行われたのではないかと思っています。もちろん根拠はありません。桓武天皇の御代、御所のすぐ南に隣接する程近くに神泉苑が造営されました。嵯峨天皇は『日本後紀』の弘仁三年(812年)に記されているように、神泉苑で「花宴の節」を催したくらいですから、「観月の節」があってもおかしくはないというだけのことです。(根拠が曖昧な場合は推定の責任は私にありますので、「・・・・と思います」と表記します)
宮廷行事としての観月の宴の記録は、『日本紀略』の延喜九年(909)閏八月十五日に、「夜、太上法皇(宇多法皇)文人ヲ亭子院ニ召シ、月影浮秋池ノ詩ヲ賦セシム。」と記されているのが初見だと思います。もしそれよりも早い記事があれば、私の見落としです。宇多法皇は9月13日にも観月の宴を設け、「本朝無双の明月為す」とした程の風流人でしたから、お月見の由来に大きな役割を果たしているわけです。ただし毎年恒例の節会となるようなことはありませんでした。宮中の行事として行われたことは、そのまま貴族の私邸でも模倣されたことでしょうし、さらに広く行われるようになったことは想像に難くありません。私が全巻を読んで探し出したわけではありませんが、先行する研究によれば、『源氏物語』には中秋の名月の場面は7回あるそうです。
現代人は月を眺めてどのようなことを思うでしょうか。その美しさに心を奪われ、素直に感動するでしょうが、それ以上でもなくそれ以下でもない場合が多いことでしょう。もちろん人それぞれでよいのですが、古の人たちの月の理解は、実に豊かなものでした。和歌集には秋の月を詠んだ歌が数え切れない程伝えられています。そんな歌をいくつか読んでみましょう。
⑤すみのぼる心や空を払ふらん雲の塵ゐぬ秋の夜の月 (金葉和歌集 188)
この歌には、「八月十五夜明月の心をよめる」という詞書きが添えられています。月は澄みきってそらに棲んでいるので、見る人の心も澄んでくると理解しているのです。
⑥西へゆく心は我もあるものをひとりな入りそ秋の夜の月 (金葉和歌集 580)
この歌は、月が西に沈むことから、西方極楽浄土へ往生することを連想し、自分も月のように憧れている西の方に往きたいという心を詠んでいます。また月を釈尊に見立てることもありました。このように信仰的視点から月を見ることは、現代人はもうできないことでしょうね
⑦ありしにもあらずなりゆく世の中に変はらぬものは秋の夜の月 (詞花和歌集 98)
この歌は、世の中が移り変わっても、月は昔のまま変わることがないと、月と比較して世の無常を嘆いている歌です。月を見て老を嘆くとも言えるでしょう。月を見ることを忌むという発想は、このような理解と関係があるのかもしれません。
⑧いつとてもかはらぬ秋の月見ればただいにしへの空ぞこひしき (後拾遺和歌集 853)
この歌は、⑦のように月はいつまでも変わらないものであるがゆえに、昔のことを思い出させる懐旧の月
詠んでいます。
⑨水の面に照る月浪をかぞふれば今宵ぞ秋の最中なりける (拾遺和歌集 171)
この歌は、水面に映る月を詠んだもので、古来月の名所と言われた所は、大沢池・広沢池・嵐山・明石の浦・琵琶湖など、水に縁のある所が多いものです。松尾芭蕉も「名月や池を巡りて夜もすがら」と詠んでいますね。現代人は水面の月をしみじみと眺めることをしなくなってしまいましたが、これならすぐに回復することができるでしょう。
⑩さらぬだに玉にまがひて置く露をいとどみがける秋の夜の月 (金葉和歌集 209)
この歌は月の光を映して光る露を詠んでいます。中には露に月が宿るという表現も好まれました。なかなか繊細な感覚ですね。
あまりに多いのでこの程度にしておきますが、その他には廃屋の月、鏡に見立てられる月、舟に見立てられる月、清流の水底にすむ月、望郷の月、雁と月、萩と月、木の間から漏れる月影、物思いを誘う月など、実に豊かな秋の月が詠まれています。ここでは触れませんでしたが、秋以外の季節の月も歌に詠まれています。俳句の世界では月は秋の季語になってしまっていますが、古の人たちは四季折々の美しさを知っていました。またそしてネット情報で月見の起原や由来として説明される「豊作祈願や感謝」という視点は、古代・中世の月の歌には微塵も見られないことを確認しておきましょう。
ここに上げた歌は、決して特殊な歌ではありません。同じような視点の歌は夥しくあり、このような月の理解は、平安時代から室町時代までは共有されていたことを示しているのです。ただし月を翫んで歌を詠む程の人は、ある程度以上の教養のある階級でしたから、江戸時代の庶民感覚とはずれることがあるでしょう。近世のいわゆる「お月見」とは、別に考える必要がありそうです。
江戸時代の月見の風習については、当時の歳時記類が史料になります。このことはまた別にお話しするつもりですが、それは月見の起原ではありません。あくまでも江戸時代の月見の風習なのです。
月を愛でることは『万葉集』にたくさん詠まれているのですから、月が稲や里芋栽培の農業神であったことを示す根拠が、記紀や『万葉集』になければなりません。しかしそのようなことの痕跡すらみつかりません。もし根拠があるなら、大手を振って「『・・・・』によれば」と書くのでしょうが、その様なものがないので、「・・・・と言われています」としか書きようがないのでしょう。わからなければわからないと、素直に認めればよいのです。せいぜい許されるのは、「・・・・だと思います」と、推定の責任を自ら負うものまででしょう。
それなら月見の起原は、どこまで遡ることができるのでしょうか。観月の宴ではなく、ただ単に月をしみじみと眺めるというのであれば、『万葉集』に約200首もある月の歌から探し出すことはできます。その中からいくつか読んでみましょう。
①去年(こぞ)見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年離(さか)る(211)
②我が背子がかざしの萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし(2225)
③心なき秋の月夜の物思ふと寐の寝らえぬに照りつつもとな(2226)
④白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも(2229)
①は柿本人麻呂が妻の死を哀しんで詠んだ歌で、「相見し」というのですから、去年には二人で眺めたのです。②は男女二人で月を眺めている場面で、女の髪には萩の花が挿してあり、萩の枝の露に月明かりが映っているというのです。③は独り寝の床で月を見ると、わけもなく物思いをして眠れない、という意味です。④は秋も終わりにちかい有明月を、飽きることなく眺めている場面です。「長月の有明月」は、その後長く慣用的に詠まれるようになります。
『万葉集』にある月を詠んだ歌には、面白いことに季節がはっきりとわかるものはそれ程多くはありません。また月見の宴があったことを推定できる歌は大変少なく、恋に関わって月を詠んだ歌が大変多いことに特徴があります。『万葉集』の時代には、中秋の名月を殊更に賞翫する「お月見」の風習はまだ始まっていなかったと見てよいでしょう。しかしそれは当時の人が月の美しさに無関心であったわけではありません。なにしろ月を詠んだ歌が約200首もあるのですから。
平安時代になると、『竹取物語』に「在る人の『月の顔見るは忌むこと』と制しけれども」という記述があるように、月を見ることは敢えてしないという風習があったようです。『源氏物語』の宿木巻にも、「今は、入らせたまひね。月見るは忌みはべるものを。」と記されています。それならなぜ月を眺めるのが忌むべきものと理解されたのでしょうか。それは在原業平の次の歌に鍵がありそうです。「おほかたは月をもめでじこれぞこの積もれば人の老いとなるもの」(古今和歌集 879)。一般的な気持ちでは、月を愛でることはするまい。この月というものは、積もり積もれば人の老いとなるものだから、という意味です。今一つ理解しきれないところがあるのですが、業平の歌は意味がわかりにくいことで有名でした。暦では月の満ち欠けによって月数を数え、それがさらに重なって年を数えることになるのですから、人は月を見ながら老いてゆくことになるからでしょうか。とにかく忌む理由は老につながるからというわけです。
月を見ると寿命が短くなるという理解は、唐の詩人白楽天の詩にも見当たります。『白氏文集』第十四「贈内」には、「月明に対して 往事を思ふことなかれ 君が顔色を損じて 君が年を減ぜん」という一節があります。意味は「月明かりに向かって、過ぎた昔を懐かしんではいけない。あなたの容色を損ない、寿命を縮めてしまうから。」ということでしょう。『白氏文集』は当時の文化人なら暗記をしている程の基礎教養でしたから、月を見ると寿命が縮まるという理解は、共有されていたとみてよいでしょう。しかし一方では、月には若返りの変若水があるという俗信があったことが『万葉集』に見られ、『竹取物語』では、月は不老長寿の世界として描かれていますから、この矛盾をどのように理解すればよいのか、正直なところ私には説明できません。
一方で忌むべきものという理解がありましたが、他方では月を愛でる心はそれに勝るものがありました。そのことは『古今和歌集』以来の古代・中世の和歌集に、夥しい月を詠んだ歌が収められていることでも明かです。また平安時代になると、唐の観月の宴に倣って、宮廷の行事として観月の宴が開かれるようになりました。
月の宴の文献上の初見は、菅原道真の師であり、その妻の父でもあった島田忠臣の『田氏家集』に収められた、「八月十五夜宴月」「八月十五夜惜月」という題の漢詩ということになっていますが、年まではわかりません。彼は文徳・清和朝に活躍しますから、一般には文徳天皇の頃から宮廷行事としての観月の宴が行われるようになったと説明されるのです。しかし文献史料が残っていないだけであって、私は、大の唐贔屓であった嵯峨天皇あたりから行われたのではないかと思っています。もちろん根拠はありません。桓武天皇の御代、御所のすぐ南に隣接する程近くに神泉苑が造営されました。嵯峨天皇は『日本後紀』の弘仁三年(812年)に記されているように、神泉苑で「花宴の節」を催したくらいですから、「観月の節」があってもおかしくはないというだけのことです。(根拠が曖昧な場合は推定の責任は私にありますので、「・・・・と思います」と表記します)
宮廷行事としての観月の宴の記録は、『日本紀略』の延喜九年(909)閏八月十五日に、「夜、太上法皇(宇多法皇)文人ヲ亭子院ニ召シ、月影浮秋池ノ詩ヲ賦セシム。」と記されているのが初見だと思います。もしそれよりも早い記事があれば、私の見落としです。宇多法皇は9月13日にも観月の宴を設け、「本朝無双の明月為す」とした程の風流人でしたから、お月見の由来に大きな役割を果たしているわけです。ただし毎年恒例の節会となるようなことはありませんでした。宮中の行事として行われたことは、そのまま貴族の私邸でも模倣されたことでしょうし、さらに広く行われるようになったことは想像に難くありません。私が全巻を読んで探し出したわけではありませんが、先行する研究によれば、『源氏物語』には中秋の名月の場面は7回あるそうです。
現代人は月を眺めてどのようなことを思うでしょうか。その美しさに心を奪われ、素直に感動するでしょうが、それ以上でもなくそれ以下でもない場合が多いことでしょう。もちろん人それぞれでよいのですが、古の人たちの月の理解は、実に豊かなものでした。和歌集には秋の月を詠んだ歌が数え切れない程伝えられています。そんな歌をいくつか読んでみましょう。
⑤すみのぼる心や空を払ふらん雲の塵ゐぬ秋の夜の月 (金葉和歌集 188)
この歌には、「八月十五夜明月の心をよめる」という詞書きが添えられています。月は澄みきってそらに棲んでいるので、見る人の心も澄んでくると理解しているのです。
⑥西へゆく心は我もあるものをひとりな入りそ秋の夜の月 (金葉和歌集 580)
この歌は、月が西に沈むことから、西方極楽浄土へ往生することを連想し、自分も月のように憧れている西の方に往きたいという心を詠んでいます。また月を釈尊に見立てることもありました。このように信仰的視点から月を見ることは、現代人はもうできないことでしょうね
⑦ありしにもあらずなりゆく世の中に変はらぬものは秋の夜の月 (詞花和歌集 98)
この歌は、世の中が移り変わっても、月は昔のまま変わることがないと、月と比較して世の無常を嘆いている歌です。月を見て老を嘆くとも言えるでしょう。月を見ることを忌むという発想は、このような理解と関係があるのかもしれません。
⑧いつとてもかはらぬ秋の月見ればただいにしへの空ぞこひしき (後拾遺和歌集 853)
この歌は、⑦のように月はいつまでも変わらないものであるがゆえに、昔のことを思い出させる懐旧の月
詠んでいます。
⑨水の面に照る月浪をかぞふれば今宵ぞ秋の最中なりける (拾遺和歌集 171)
この歌は、水面に映る月を詠んだもので、古来月の名所と言われた所は、大沢池・広沢池・嵐山・明石の浦・琵琶湖など、水に縁のある所が多いものです。松尾芭蕉も「名月や池を巡りて夜もすがら」と詠んでいますね。現代人は水面の月をしみじみと眺めることをしなくなってしまいましたが、これならすぐに回復することができるでしょう。
⑩さらぬだに玉にまがひて置く露をいとどみがける秋の夜の月 (金葉和歌集 209)
この歌は月の光を映して光る露を詠んでいます。中には露に月が宿るという表現も好まれました。なかなか繊細な感覚ですね。
あまりに多いのでこの程度にしておきますが、その他には廃屋の月、鏡に見立てられる月、舟に見立てられる月、清流の水底にすむ月、望郷の月、雁と月、萩と月、木の間から漏れる月影、物思いを誘う月など、実に豊かな秋の月が詠まれています。ここでは触れませんでしたが、秋以外の季節の月も歌に詠まれています。俳句の世界では月は秋の季語になってしまっていますが、古の人たちは四季折々の美しさを知っていました。またそしてネット情報で月見の起原や由来として説明される「豊作祈願や感謝」という視点は、古代・中世の月の歌には微塵も見られないことを確認しておきましょう。
ここに上げた歌は、決して特殊な歌ではありません。同じような視点の歌は夥しくあり、このような月の理解は、平安時代から室町時代までは共有されていたことを示しているのです。ただし月を翫んで歌を詠む程の人は、ある程度以上の教養のある階級でしたから、江戸時代の庶民感覚とはずれることがあるでしょう。近世のいわゆる「お月見」とは、別に考える必要がありそうです。
江戸時代の月見の風習については、当時の歳時記類が史料になります。このことはまた別にお話しするつもりですが、それは月見の起原ではありません。あくまでも江戸時代の月見の風習なのです。