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井真成

2016-10-29 16:14:17 | 歴史
 2004年(平成16)10月、日本から入唐して客死した、日本ではそれまで知られていなかった留学生の墓誌が公表され、大きな話題となりました。墓誌はそれ以前に、中国の古都である西安郊外で行われた工事現場で、偶然に発見されていたもので、パワーショベルで乱暴に掘り出され、しかも不法工事であったため、秘密裏にすぐに民間の文物市場に売り出されてしまいました。それを西安市の西北大学の学者が、「国号日本」という文言を含むことの重要性にいち早く気付き、これを買取ったのです。これは実に幸運でした。ただし墓その物は既に破壊されており、掘り出された正確な時期や場所、また埋葬状況や副葬品については全くわかりません。

 墓誌とは、死者の経歴や哀悼の言葉が刻まれた石板で、死者と共に地下に埋葬されます。埋葬するのは、地下の冥界の支配者に死者の経歴を紹介するためと信じられたからで、地上に建立する墓碑とは目的が異なっています。日本でも『古事記』の編者である太安麻侶(安万侶)の銅板製の墓誌が、文字面を伏せた状態で発見されていますね。これも中国の影響を受けたものなのでしょう。

 墓誌の形状は、一辺39.5㎝四方、厚さ10.5㎝、1行16字詰めで12行、計171文字が端正な楷書で陰刻されています。ただ残念なことに各行の1文字目は発掘の際にパワーショベルが接触したためか、欠損してほとんど判読できません。唐代の書体らしく、実に字形の整っています。唐代の書道の名手である欧陽詢が書いた「九成宮醴泉銘」と褚遂良が書いた「雁塔聖教序」を足して2で割ったような印象です。内容に関係なく、書道の面からも、素晴らしいものだと思いました。(

読み下しと解釈については、難解な表現があり、諸説もあって一定していないのですが、一応の通釈を試みました。試みたのはよいとしても、専門の学者でもなく一介の高校の教諭ですから、間違いがあるかもしれないのはお許し下さい。

原文
贈尚衣奉御井公墓誌文并序/ 公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能/□命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶/□朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終/□遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月/□日乃終于官弟春秋卅六  
皇上/□傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官/□卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水/□原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠/□兮頹暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰 /□乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶/歸于故鄕

通釈
「贈 尚衣奉御、井公の墓誌文、ならびに序。公は、姓は井、名は真成、国号は日本。才は天が縦(ゆる)す程に称(かな)
い、故に能(よ)く国命により遠邦まで上国(中国)に馳せ来たった。礼楽を蹈(ふ)み行い、衣冠を襲(かさ)ね束帯して朝(朝廷)に立つならば、与(とも)に儔(なら)ぶことは難しい。豈(あ)に図らんや、学を強(つと)めて倦(う)まず、道を聞くこと(学問)の未だ終わらずして、月日が流れる舟や駆ける駟(馬車)の如く過ぎ去ろうとは。開元二十二年正月□日、官舎で亡くなった。年齢は三十六歳。  皇帝(玄宗)はこれを傷み、追贈の典礼により、詔して尚(しよう)衣奉御(いほうぎよ)の官職を贈り、葬儀は官によって行わせた。そして其の年の二月四日に万年県の川の原に礼により葬った。ああ、
暁に葬礼の車(素車)が引かれ、葬礼の赤い旗(丹旐)は哀しみを表した。遠いことを嗟(なげ)いて、日が暮れて思いは頽(くず)れ、遠く郊外の夜台(墓所)に至れば悲しむ。其の辞に曰く『□は乃ち天の常であるが、哀れにも遠方である。身(形)は既に異国の地に埋められたが、魂の故郷に帰ることを庶(こいねが)う』と。」

 この井真成がいったい誰なのか、大いに興味が湧くところですが、この墓誌銘以外に手掛かりは全くありません。日本には「井」一字の姓はありませんから、唐風の姓であることは確かでしょう。

 改名の方法としてはいくつか考えられます。①小野妹子が「蘇因高(そいんこう)」と称したように、日本語の音を唐風に音訳する方法。②阿倍仲麻呂が「朝臣」の「朝」と「仲」を「均衡」の意味に理解して「朝衡」と称したように、名前の意味を唐風に意訳する方法。③また姓の一字を採り、名は音訳かそのまま用いるという方法も考えられます。④「井」一字の姓は中国では古い起原を持っていて、中国の姓という可能性も捨てきれません。要するにいろいろな可能性があり、軽々しく断定することはできないのです。

 ③の説については、「井」の字を含む渡来系氏族である「葛井(ふじい)」や「井上」という説があります。そして大阪府藤井寺市では、市をあげて井真成の出生地ということになってしまっています。市役所には魅力創生課が設けられ、切手が発売され、漫画チックな石造まで建立され、「真成」を冠した酒や饅頭まで並んでいる有様です。

 まあ気持ちはわかりますが、ここまで来ると、私などはもう哀れをもよおしますね。全国各地にあるさまざまな「発祥地」「ゆかりの地」は、こうして既成事実化し、確実な根拠もないのに、いつの間にか「・・・・と伝えられている」という伝承が作られて行くのでしょう。歴史的には、「説の一つとして考えられる」というレベルで止めておくべきだと思うのですが。

 井真成が入唐したのは、その年齢からして717年(養老元)の遣唐使に随行したものでしょう。もしそうだとすれば、時に19歳で、玄昉や吉備真備、玄宗皇帝に重用された阿倍仲麻呂らと同期です。717年の入唐とすれば、734年に亡くなるまで、18年間いたことになります。

 皇帝から贈られた「尚衣奉御」という官職は、皇帝の衣服を管理する皇族専就の重職で、位階が一品(いつぽん)から九品(くほん)まである唐の位階の中では従五品上(じゆごほんのじよう)に相当します。五品(ごほん)以上が皇帝に拝謁を許される殿上人ですから、外国人留学生としては破格の待遇でした。

 ただし「贈」というからには、生前にその役に就いていたわけではありません。もしそうならば「故」と表記されるはずですから。また官費で葬儀が行われたということも考え合わせれば、余程に玄宗皇帝から重用されたものと思われます。同期の阿倍仲麻呂は入唐5年で難関の科挙に合格し、高級官僚の道を昇りました。しかし仲麻呂が従五品下に昇進したのは、真成が死去した翌年のことです。真成の位階官職は贈位であることを割引いたとしても、真成も仲麻呂と同程度の昇進をしていたことになります。もし異国で夭折することがなかったならば、さぞかし活躍したことでしょう。残念でなりません。

 一方、「国号日本」の表記は、中国における日本の国号を記した中国最古の金石文として注目されました。日本の国号の表記が「倭(やまと)」「大倭(やまと)」から「日本(やまと)」に替わったのは天武朝とされ、大宝律令によって正式に定められたとされています。そして702年の遣唐使によって則天武后時代の唐に伝達されました。

 井真成墓誌の発見は、そのことを実証する中国最古の史料というわけなのです。しかし近年、それより古い713年の「徐州刺史杜嗣先墓誌」に「皇明遠被、日本来庭(日本の使者が来朝した)」という文言があるとの指摘があり、疑義もだされている。このあたりのことになると、もう素人の域を超えていて、私ではとても及びません。

 井真成は日本の文献にその名前を遺しませんでした。幸いにも中国の碑に遺りましたが、名もなく歴史に埋もれた留学生もたくさん居たことでしょう。岩波新書『遣唐使』によれば、遣唐使船の帰還率は約6割であったといいますから、海の藻屑と消えた留学生も相当いたはずです。結局帰国は出来ませんでしたが、阿倍仲麻呂は生きて長安に帰れただけでもよかったのかもしれません。遣唐使について授業で学習する際は、そのような名もない日本人青年にも、思いを馳せたいものです。


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