狭い我が家の庭には、野菊の花が満開です。キク科のシオン属であることは確かなのですが、名前はわかりません。それでも「しおん」(紫苑)の仲間ですから、私は大切にして楽しんでいます。なぜなら、紫苑は親の恩を忘れない花という理解が平安時代から共有されていたからです。先日、父が亡くなったばかりでもあり、名前のわからないシオン属の野菊を眺めながら、父を思い出しています。平安時代以来の紫苑の理解については、私のブログ「うたことば歳時記」に「紫苑(しおん)」と題して既に公開してありますから、御存知ない方は是非御覧下さい。「うたことば歳時記 紫苑」と検索するとすぐに見つかるはずです。
辞書や歳時記で「残菊」と検索すると、九月九日の重陽の節句(菊の節句)より後の菊のことであるという説明が多いのです。私はこのことに予てから疑問を持っていました。いわゆる野菊は早くも8月末から咲いていますが、旧暦の九月九日は新暦ならば今年は10月9日でしたから、菊はまだまだ咲いていませんでした。それなのに、それ以後の菊を残菊というと解説されているのには、どうしても納得できなかったのです。
辞書には晩秋から初冬にかけて咲き残っている菊という説明もありました。これなら多くの日本人が納得できるものだと思います。我が家の庭の菊の花は、今日(10月24日)の時点ではまだ咲いていません。散歩道の途中では咲き始めているものも見かけますから、品種によって多少前後があるのでしょうが、10月10日以後は「残菊」というというのでは、あまりにも早すぎます。
九月九日に菊を愛でることは中国伝来の風習で、唐代の漢詩を漁ってみると、九月九日の菊を詠んだ詩がたくさんあります。ですから、中国では咲いていたのかもしれません。あるいは観念的にそう決めて掛かっていたのかもしれません。もっとも日本より広大な国土ですから、あくまでも長安周辺でのことなのでしょう。そして九月十日過ぎにの菊を「残菊」と詠む漢詩もこれまたいくつもあるのです。どうも九月九日よりも後の菊という理解は、日本人的発想ではなさそうです。
たった1日の違いで片方は長寿の花として愛でられ、翌日には「残菊」と呼ばれてしまう。花の美しさ自体は全く同じなのですから、残菊の「残」はあくまでも観念的なことであり、日本人が思い描くような庭に咲き残る菊とは全く異なります。「六日の菖蒲、十日の菊」という諺は、時宜に合わずに役に立たないものの喩えですが、漢詩における「残菊」は、この諺のようにあまりよい印象を持たれていないように感じてしまうのです。
ところが同じ残菊の漢詩でも、菅原道真が詠んだ詩を調べてみると、九月九日にこだわらず、九月末から初冬にかけて詠まれた漢詩がいくつもあり、九月九日にあまりこだわってはいません。道真は唐文化に特別に造詣の深い学者でしたが、その美的感覚は日本的であることを示しています。
また宮中で行われた菊の宴や菊合わせが行われた日付を確認してみると、ほとんどが十月となっています。つまり日本で行われた菊の宴は、九月九日という日にこだわるのではなく、実際に菊の花を飾りながら行われていることがわかります。それもそのはず、菊合わせは菊の花を互いに見せ合って優劣を競うのですから、菊の盛りに行われるものです。
また古歌の中にも、霜に当たって薄紫に色変わりした菊が多く詠まれています。しかもそれを風情あるものとして詠んでいて、九月九日にこだわっていません。このあたりに、古代中国と日本とでは、残菊の理解の相違があったと考えられるのです。
ただ勅撰和歌集に収められた菊の歌は、ほとんどが秋の歌となっています。霜と共に詠まれていて初冬の歌と思われる場合は、秋の部ではなく雑の部に入れられているものもあります。そうすると、唐の菊の理解に引きずられて、菊は秋の花という観念的理解が先行していため、どうしても秋の歌に入れられない歌は、冬ではなく、雑の部に入れざるを得なかったのかもしれません。実際には立冬後に詠まれていても、編集の過程で、菊の歌であるからと秋の部に入れられたのではないかと思っています。
残菊は「ざんぎく」と読みます。菊には訓読みはなく、「きく」は音読みです。中国渡来の花ですから、音読みしかなかったわけです。しかし私としては「ざん」という音がどうにも耳障りで、できることなら「のこんのきく」と読みたいのです。
周囲の花が枯れてしまっても庭に残る白菊、つまり残んの白菊を歌った『庭の千草』という唱歌があります。ネット情報で検索すると、秋の歌となっていることが多いものです。菊は秋と決めてかかっているのでしょう。しかし11月上旬には立冬になるのですから、内容からして初冬の歌であると思います。
唐代の残菊の美意識なら、このような菊に情趣を感じ取ることはなかったかもしれません。独り咲き残る白菊に「あはれ」を感じ取るのは、極めて日本的な感覚なのでしょう。
唱歌『庭の千草』については、私のブログに「『庭の千草』の秘密」と題して、拙文をネット上に公表済みです。数ある拙文の中でもずば抜けて閲覧数が多く、もしまだ御覧になっていなければ、是非とも御覧下さい。きっと「目から鱗」の驚きを体験できることと思います。
長々と書いてしまい、とりとめもない内容になってしまいました。文章を推敲する元気はとてもありません。最後に、残んの菊の歌を一つ御紹介します。
○おく霜にうつろはんとや朝な朝な色かはり行くしら菊の花(新続古今集 563)
なおこの拙文については、高兵兵氏の「菅原道真の詩文における『残菊』をめぐって」という論文に拠るところが多く、あらためて感謝いたします。コピペをしたくないので、可能な限り原典に当たって確認しましたが、どうしても閲覧できなかった史料や論文があったことについては、高氏にお詫びいたします。
辞書や歳時記で「残菊」と検索すると、九月九日の重陽の節句(菊の節句)より後の菊のことであるという説明が多いのです。私はこのことに予てから疑問を持っていました。いわゆる野菊は早くも8月末から咲いていますが、旧暦の九月九日は新暦ならば今年は10月9日でしたから、菊はまだまだ咲いていませんでした。それなのに、それ以後の菊を残菊というと解説されているのには、どうしても納得できなかったのです。
辞書には晩秋から初冬にかけて咲き残っている菊という説明もありました。これなら多くの日本人が納得できるものだと思います。我が家の庭の菊の花は、今日(10月24日)の時点ではまだ咲いていません。散歩道の途中では咲き始めているものも見かけますから、品種によって多少前後があるのでしょうが、10月10日以後は「残菊」というというのでは、あまりにも早すぎます。
九月九日に菊を愛でることは中国伝来の風習で、唐代の漢詩を漁ってみると、九月九日の菊を詠んだ詩がたくさんあります。ですから、中国では咲いていたのかもしれません。あるいは観念的にそう決めて掛かっていたのかもしれません。もっとも日本より広大な国土ですから、あくまでも長安周辺でのことなのでしょう。そして九月十日過ぎにの菊を「残菊」と詠む漢詩もこれまたいくつもあるのです。どうも九月九日よりも後の菊という理解は、日本人的発想ではなさそうです。
たった1日の違いで片方は長寿の花として愛でられ、翌日には「残菊」と呼ばれてしまう。花の美しさ自体は全く同じなのですから、残菊の「残」はあくまでも観念的なことであり、日本人が思い描くような庭に咲き残る菊とは全く異なります。「六日の菖蒲、十日の菊」という諺は、時宜に合わずに役に立たないものの喩えですが、漢詩における「残菊」は、この諺のようにあまりよい印象を持たれていないように感じてしまうのです。
ところが同じ残菊の漢詩でも、菅原道真が詠んだ詩を調べてみると、九月九日にこだわらず、九月末から初冬にかけて詠まれた漢詩がいくつもあり、九月九日にあまりこだわってはいません。道真は唐文化に特別に造詣の深い学者でしたが、その美的感覚は日本的であることを示しています。
また宮中で行われた菊の宴や菊合わせが行われた日付を確認してみると、ほとんどが十月となっています。つまり日本で行われた菊の宴は、九月九日という日にこだわるのではなく、実際に菊の花を飾りながら行われていることがわかります。それもそのはず、菊合わせは菊の花を互いに見せ合って優劣を競うのですから、菊の盛りに行われるものです。
また古歌の中にも、霜に当たって薄紫に色変わりした菊が多く詠まれています。しかもそれを風情あるものとして詠んでいて、九月九日にこだわっていません。このあたりに、古代中国と日本とでは、残菊の理解の相違があったと考えられるのです。
ただ勅撰和歌集に収められた菊の歌は、ほとんどが秋の歌となっています。霜と共に詠まれていて初冬の歌と思われる場合は、秋の部ではなく雑の部に入れられているものもあります。そうすると、唐の菊の理解に引きずられて、菊は秋の花という観念的理解が先行していため、どうしても秋の歌に入れられない歌は、冬ではなく、雑の部に入れざるを得なかったのかもしれません。実際には立冬後に詠まれていても、編集の過程で、菊の歌であるからと秋の部に入れられたのではないかと思っています。
残菊は「ざんぎく」と読みます。菊には訓読みはなく、「きく」は音読みです。中国渡来の花ですから、音読みしかなかったわけです。しかし私としては「ざん」という音がどうにも耳障りで、できることなら「のこんのきく」と読みたいのです。
周囲の花が枯れてしまっても庭に残る白菊、つまり残んの白菊を歌った『庭の千草』という唱歌があります。ネット情報で検索すると、秋の歌となっていることが多いものです。菊は秋と決めてかかっているのでしょう。しかし11月上旬には立冬になるのですから、内容からして初冬の歌であると思います。
唐代の残菊の美意識なら、このような菊に情趣を感じ取ることはなかったかもしれません。独り咲き残る白菊に「あはれ」を感じ取るのは、極めて日本的な感覚なのでしょう。
唱歌『庭の千草』については、私のブログに「『庭の千草』の秘密」と題して、拙文をネット上に公表済みです。数ある拙文の中でもずば抜けて閲覧数が多く、もしまだ御覧になっていなければ、是非とも御覧下さい。きっと「目から鱗」の驚きを体験できることと思います。
長々と書いてしまい、とりとめもない内容になってしまいました。文章を推敲する元気はとてもありません。最後に、残んの菊の歌を一つ御紹介します。
○おく霜にうつろはんとや朝な朝な色かはり行くしら菊の花(新続古今集 563)
なおこの拙文については、高兵兵氏の「菅原道真の詩文における『残菊』をめぐって」という論文に拠るところが多く、あらためて感謝いたします。コピペをしたくないので、可能な限り原典に当たって確認しましたが、どうしても閲覧できなかった史料や論文があったことについては、高氏にお詫びいたします。