うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

橘の文化勲章

2016-10-23 15:21:20 | その他
 そろそろ11月3日の文化の日が近付いてきました。この日は、戦前は明治天皇の誕生日として「明治節」と呼ばれていました。文化の日には文化勲章の授与が行われます。まあ私には縁のない話ですが、それに相応しい活躍をされた方が、天皇陛下から勲章を授与されるのは、大いに結構なことだと思います。文化功労者は文科大臣が決定し、毎年350万円の年金がもらえるのですが、文化勲章には年金が伴いません。勲章というものには、いかなる特権も伴わないことが憲法で定められているからです。それより文化勲章は天皇陛下が親授されるのですから、それだけで破格の栄誉であり、年金など問題ではないのです。もっとも以前は親授ではなかったようですが。

 天皇が授けるわけですから、その意匠もそれに相応しいものでなければなりません。写真で見るだけですが、白い5弁の橘の花の中心には三つの勾玉が、さらにその上部の鈕にも色付いた橘の実と常緑の枝葉があしらわれています。

ついでに一寸脱線しますが、500円硬貨にも橘が描かれていることに気付いていますか?他に桐と竹も描かれていて、お目出度尽くしとなっています。

 勾玉があしらわれている理由は、私にははっきりとはわかりません。それでも三種の神器の一つであり、古来から神聖なものとして見なされていますから、天皇陛下の授けられる勲章には相応しいものでしょう。

 意匠の中心となっているのは橘です。橘は柑橘類であることはよいのですが、現在の何という種類に相当するのかは、いろいろ問題がありそうです。伊豆の戸田(へだ)には自生地があるとして、町が宣伝していますし、京都御所にも左近の桜対になって、右近の橘が植えられています。また園芸店にも売られていていたり、これこそが橘であるという主張があるのですが、本当に古代の橘と同じであるかどうかは、誰にもわからないのでしょう。ただ現在のみかんよりは小形でしょうから、小蜜柑や柑子(こうじ)蜜柑などの、小形の蜜柑と思えばよいと思います。

 文化勲章が定められたのは昭和12年のことです。はじめは桜の花をモチーフに考えられていたのですが、
【長く宮内省記者会に所属した井原頼明は、文化勲章制定の翌年である1938年(昭和13年)に初版の自著で、昭和天皇の意向で意匠が桜花から橘花に変更されたことを伝聞として、なぜ橘花なのかを自説として紹介している。なほ文化勲章の圖案はもと櫻花に配するに曲玉の意匠であつたが、「櫻は昔から武を表はす意味によく用ゐられてゐるから、文の方面の勲績を賞旌するには橘を用ゐたらどうか」との意味の畏き思召を拜し、恐懼した當局では更に案を練って工夫を凝らし、橘花に曲玉を配した意義深い圖案が制定されたと承る。— 井原頼明.増補皇室事典.冨山房,1979年(昭和54年),】とのことです。(【 】内はネット情報の引用です。)

 要するに昭和天皇の御意向により、文化に相応しい橘が選ばれたというのです。それなら橘はなぜ「文」に相応しいとされたのでしょうか。

 今でこそ柑橘類は普通に庭に植えられていますし、蜜柑の産地ならば一面に植えられていて、珍しいものではありません。しかし古代においては、神仙の世界からもたらされた神聖な果実の木と理解されていました。

 『日本書紀』の垂仁天皇紀には、次のように記されています。あるとき垂仁天皇は、田道間守(たじまもり)を常世の国に遣わして、「非時の香菓」(ときじくのかくのこのみ)を求めさせました。これは時を選ばず、いつでも実のなる香しい果実のことです。彼は十年もかかってこれを探し出し持ち帰ったのですが、既に天皇は崩御されて間に合いませんでした。それで彼はそれを陵に捧げ、悲しみのあまりに死んでしまいました。その果実こそ、今言うところの橘である、という話です。つまり橘は、神仙の世界からもたらされた霊果であると考えられていたのです。

 それなら古代には滅多に見られない希少植物であったかと言うと、それがそうでもありません。『万葉集』には橘を詠み込んだ歌が何と68首もあり、また「我が屋戸の花橘」が慣用的に詠まれています。つまり普通に庭に植えて花を楽しむ果樹だったのです。また花や青い実が薬玉を作る材料にされていましたまた。鎌倉時代の末期ではありますが、『徒然草(つれづれぐさ)』には「家にありたき木」として数えられています。

 『万葉集』の橘の歌の中で、橘が神聖視されていたことを示す歌があります。
①橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹(万葉集 1009)
この歌は、天平二年(730)、左大臣葛城王(橘諸兄)が「橘」の姓を賜ったときの、聖武天皇の御製です。橘の永遠性、つまり常葉であることにことよせて、橘氏の繁栄を寿いだわけです。

 このような橘の理解をもとにした歌を、ほかにも読んでみましょう。
②常世ものこの橘のいや照りにわご大皇(おおきみ)は今も見るごと (万葉集 4063)
③大皇は常磐(ときわ)にまさむ橘の殿の橘直(ひた)照りにして(万葉集 4064)
これらの歌はあきらかに天皇賛歌ですね。天皇の栄が、橘が常盤であるよう続くことを寿いでいるわけです。

 実際、柑橘類の花や葉や実を観察してみると、葉は一年中艶やかに茂っています。花には爽やかな香があり、黄金色の実は、翌年の夏まで枝に残っています。夏蜜柑という果物がありますが、春先ではまだ酸味が多く食べられません。しかしそのまま夏まで成らせておくと、酸味が薄らいで食べられるようになる。それで夏蜜柑と呼ばれるわけですが、もちろんその花は前年に咲いているわけです。このように、柑橘類の花の時期には、前年来の実も見られ、途切れることなく栄えていることが目に見えてわかります。橙や譲り葉が正月の飾りとなるのと同じ発想ですね。

 このような橘の理解により、①のように目出度い姓として「橘」が下賜されたわけです。そして橘という姓は、平安時代には「源・平・藤(藤原)・橘」(げん・ぺい・とう・きつ)と称して、由緒ある名族の姓となったのでした。

 以上のようなわけで、橘にはいつまでも途切れることなく栄えるというイメージが伴っていますから、昭和天皇は、潔く散る桜よりも、文化の象徴としては橘が相応しいとお考えになられたのでしょう。、

 それにしても陛下の御意向で急遽デザインが変更されたことは、なかなか興味ある逸話です。昭和12年のことでも、政治的な御発言は極力抑制されたことでしょうが、このような文化的なので、御遠慮されずに漏らされたのでしょう。

秋の夕暮

2016-10-08 14:58:57 | うたことば歳時記
 秋の夕暮の早いことを、「秋の日の釣瓶落とし」と言います。このことについては、先日、私のブログ「うたことば歳時記」に「秋の日の釣瓶落とし」と題して公表しておきましたから、そちらを御覧ください。

 『枕草子』の冒頭部には、「秋は夕暮。夕日はなやかにさして山ぎはいと近くなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ二つなど飛び行くさへあはれなり。・・・・・」と記されていることはよく知られています。高校の古典の教科書にも必ずと言ってよいほどに収録されていますから、日本人ならきっと「秋の夕暮れ」をそれと意識して、しみじみと眺めたことがあると思います。

秋には夕暮れが注目されたわけは、もちろんその美しい情趣に因るのでしょうが、秋の朝も昼も夜も、みなそれぞれに情趣がありますから、それだけでは秋に特に夕暮れが注目された理由にはなりません。秋の夕暮れが注目されたわけは、まずは7世紀に唐から伝来した四神思想の影響ではないかと思っています。

 四神とは、蛇と亀が合体した玄武、青龍、朱雀、白虎などの霊獣のことなのですが、この四神は四季と四方に配されます。つまり青龍は東と春を司り、朱雀は南と夏を、白虎は西と秋を、玄武は北と冬を司るものとされました。そういうわけで、秋には自然と西の方角に思いを馳せることになるのです。

 このような理解を発展させると、これを人生に当てはめて、春は青年期、夏は壮年期、秋は熟年期、冬は老齢期ということになるでしょう。また一日の時間に当てはめれば、太陽の動きに合わせて、朝は日の出の東の方、昼は太陽が南中する南の方、夕は入日の西の方に思いを馳せるのが自然です。すると秋には西が意識され、西と言えば夕日を連想しますから、西を意識する秋には、自然と夕方が注目されることになるのです。

 またもう一つの理由としては、浄土信仰の流行が考えられます。当時の人々は誰もが西方極楽浄土に往生したいと願っていました。まして人生の黄昏時とも言える秋の熟年期ともなれば、その願いも切実なものでした。西に沈む太陽や三日月を見て、この世の無常を嘆き、西方にある極楽浄土に思いを馳せなかった人は皆無だったはずです。以上のように、様々な要因が複合して、古人は秋と言えばすぐに西や夕方を連想したのだと思います。
 
 平安末期から鎌倉初期、浄土信仰が大いに流行していた頃、『方丈記』の著者として知られる鴨長明は、その歌論書である『無名抄』で、次のように述べています。 「秋の夕暮の空の景色は、色もなく、声もなし。いづくにいかなる趣あるべしとも思えねど、すずろに涙のこぼるるがごとし。」と。秋の夕暮れには、美しく鮮やかなものはないけれども、なぜか思わず涙がこぼれるようだというのです。

 ここに室町時代以後の美意識である「幽玄」や「わび・さび」を先取りしたような、枯淡の美しさを感じ取る感性が育っていることを見て取ることができます。これは『古今和歌集』にはあまり見られなかった美意識です。清少納言もそれなりに秋の夕暮れの情趣を感じ取っていますが、この『無名抄』に記されたような情趣とは少し異なっていたのでしょう。平安時代の末から鎌倉時代にかけて、日本人は新しい「美」を発見したと言うことができるのです。現代人は、たとえ歌を詠まない人でも、「秋の夕暮」の感傷的な美しさを知っています。松尾芭蕉の「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」という句の情趣を、私たちは何の説明がなくとも十分に理解できることでしょう。

 古人が秋の夕暮れに特に思いを馳せていたことは、古歌によく表れています。末尾が「秋の夕暮」終わる歌は『古今和歌集』には見当たらないのですが、『後拾遺和歌集』以後にはたくさんあり、特に『新古今和歌集』の次の「三夕の歌」がよく知られています。

 ①寂しさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮(新古今 秋 361)
 ②心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(新古今 秋 362)
 ③見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮 (新古今 秋 363)

 ①の「真木」とは、堂々と真直ぐに聳え立つ姿の立派な樹木のことで、実際には杉や檜を指しているとされています。意味は、「何とも言えないこの寂しさは、特にどの色からということはないのだがなあ。杉や檜の茂る秋の夕暮れは。」とでも訳しておきましょう。おそらく黒々とした印象が勝り、『古今和歌集』以来の秋の定番の美しさであるもみぢは見えなかったのでしょう。

 ②の「心なき」とは、「情趣を理解しない」という意味で、「もののあわれをも理解しないような私でも、鴫の飛び立つ沢辺の夕暮れの情趣はよくわかることだ」「という意味です。謙遜していますが、実はそのような情趣をよくわかる人なのです。なぜなら、この歌の作者は西行なのですから。

 ③は藤原定家の歌で、大変にわかりやすい歌ですね。夕暮れ時の海辺には粗末な苫屋が並んでいるのですが、色鮮やかな花ももみぢも見えません。しかしそこに得も言われぬ情趣を感じ取っているのです。

 『新古今集』には「三夕の歌」が三つ並んでいるのですが、ほかにも「秋の夕暮れ」で終わる歌が13首もあり、常套句であったことがわかります。最後にその中からいくつか拾ってみましょう。

④村雨の露もまた干ぬ真木の葉に霧たちのぼる秋の夕暮 (新古今 秋 491)
⑤別れ路はいつも歎きの絶えせぬにいとどかなしき秋の夕暮 (新古今 離別 874)
⑥ながめても哀れと思へおほかたの空だにかなし秋の夕暮 (新古今 恋 1318)

 ④は①と同じような場面です。⑤別れはいつでも寂しいものですのに、秋の夕暮の寂寥感がそれを増幅しているのでしょう。⑥は恋の歌ですが、何と作者は鴨長明です。若い時の歌なのか、誰かに代わって詠んだものなのかはわかりません。おそらく恋の哀しみを相手に訴えて、もの悲しい空を眺めて私に同情してほしいというのです。

 私も四捨五入で70歳となり、先日、父が亡くなったばかりです。しみじみとした寂寥感をもって、ちょうど今ごろの夕日を眺めています。そこで私も一首詠んでみました。

   椎の実を拾ひつつ有馬皇子を偲びて
○椎の葉に飯盛る人の哀しみを拾ひ集むる秋の夕暮  

藤袴

2016-10-04 18:22:45 | うたことば歳時記
  庭の藤袴が見頃です。万葉の時代には秋の七草に数えられていたというのですから、野生の藤袴は珍しくなかったのでしょうが、今は園芸品種しか見たことがありません。ですから私が見ている藤袴が古代のものと同じであるかどうかもわかりません。同じ仲間のヒヨドリバナなら我が家の周辺にもたくさん咲いています。

 『万葉集』には藤袴を詠んだ歌はたった一首しかありませんが、女郎花と並ぶ代表的な秋草で、『古今和歌集』以後にはたくさん詠まれました。
①なに人か来て脱ぎかけし藤袴来る秋ごとに野辺を匂はす (古今集 秋 239)
②宿りせし人の形見か藤袴忘られがたき香に匂ひつつ  (古今集 秋 240)
③主知らぬ香こそ匂へれ秋の野に誰が脱ぎかけし藤袴ぞも (古今集 秋 241)
①は、香り高い藤袴を誰かが脱ぎ掛けた袴に見立て、②は、宿に泊まった人の残り香に見立てています。③も①と同じ趣向です。①~③はいずれも香を焚きしめた袴に見立てていて、これが藤袴の歌の常套的表現となっていきます。そういう点では、このような藤袴の歌は、歌としてはあまり面白くはありません。香で異性の気をひこうとした平安時代ならではの理解なのでしょう。

 藤袴の花は、「野辺を匂はす」と詠まれるのですが、花そのものはほとんど匂いません。実は匂うのは花ではなく草全体であって、葉を揉んでみると手に香りが移ります。特に刈り取って暫く置いた生乾きの時によく香るので、私は線香の代わりに束にして部屋に下げたり、入浴剤代わりにして楽しんでいます。教室に持って行って生徒に匂いを嗅がせたのですが、臭いと嫌われてしまいました。香水のような匂いをよい香りと感じる嗅覚ならば、そう思うのも無理がないのかもしれません。梅や橘の香りとは異質の、奥床しい香ですね。この香を心地よいものと感じられるようになるには、白檀や沈香の香がわかるような、ある程度年齢を重ねなければならないのかと思います。

 藤袴の花は僅かに藤色をしているのでその名があるのですが、花が咲くと糸状の蕊や花弁が長く延びて、まるで布が綻んでいるように見えるのです。もともと花が咲くことを「綻ぶ」と言いますが、藤袴の場合は、まさに「綻ぶ」という形容がぴったりなのです。まずは花の綻んだ姿をとくと観察してみて下さい。

 そこで次のような歌が詠まれるのです。
④秋風にほころびぬらし藤袴つづりさせてふきりぎりす鳴く (古今集 雑体 1020)
「袴」が縁語となって「綻ぶ」という言葉が意図して選ばれています。花が綻ぶのを、袴が綻ぶことに見立てているわけですが、そのような理解をするのは、花の咲く様子からの連想も手伝っているのではないでしょうか。さらに④では、きりぎりす(現代のコオロギ)が「つづりさせ」と鳴くと詠まれています。「つづりさせ」とは「綻びを綴って直せ」という意味で、これも「綻ぶ」や「袴」の縁語です。コオロギの仲間に、ツヅレサセコオロギという種類がいます。その鳴き声が「肩させ裾させ綴れさせ」と聞き做されるためにその名があるのですが、その聞き做しが『古今和歌集』にまで遡るとは驚きました。このコオロギはごく普通に身近にいますから、秋には注意深く聞いてみて下さい。 

 とにかく、フジバカマを手に入れることがあれば、葉や茎を採って来て、生乾きになったくらいの頃に手で揉んで、その香りを楽しんで見てください。



霜降

2016-10-03 16:53:59 | 年中行事・節気・暦
 霜降と書くと現代っ子ならば牛肉の「しもふり」と読まれそうです。霜降は例年ならば10月23日か24日ごろです。霜降の次の節気は立冬ですから、秋の暮れを感じさせる時期と言うことができるでしょう。

 霜は大気中の水蒸気が冷やされて微細な氷の粒となり、地上に近い物など一面に付着いたものです。一応氷ですから、氷点、つまり0度にならなければできないのですが、気象庁が発表する気温は地上1.5mで観測されたものですから、気温が5~6度であっても、地表面付近が0度になれば霜が発生します。ですから、氷点下ほどの寒さでなくても、霜は見られるわけです。

 その年の最初の霜は初霜と言われます。気象庁のデータによれば、例年では旭川は10月8日、札幌は10月25日、仙台は11月10日、新潟は11月25日、東京は12月20日、名古屋は11月27日、京都は11月18日、大阪は12月5日、広島は12月14日、福岡は12月12日頃ということです。節気の降霜とは随分とずれていますが、そもそも霜降の時期は中国から持ち込まれた暦によるものですから、それよりずれているかどうかという議論に何の意義もありません。近年は温暖化の影響で遅くなっていますし、内陸と沿海では全く異なります。南北に長い日本で、初霜の基準を定めること自体がもう不可能なことなのです。

 節気では「霜降」と言うように、霜が発生することを「降る」とか「降りる」と言います。しかし歴史的には霜は「置く」と表現されました。「霜降」は中国伝来の漢語で、それを和らげて「降る」とか「降りる」と言うのでしょうが、大和言葉では「霜が置く」とか「結ぶ」と言います。手許にある八代集データでは、「降る」は見当たりません。「降る」「降りる」でも「置く」でもどちらでもよいのでしょうが、古風な和歌に詠むのなら、「置く」、現代短歌に詠むのなら「降る」「降りる」なのかもしれませんね。

 霜降の期間の初候は「霜始降」で、「しもはじめてふる」と読んでおきましょう。先程もお話ししましたように、これには全く意味がありません。次候は「霎時施」で、「こさめときどきふる」と読むのだそうです。日常的には使わない漢字ですから、受け売りになってしまい申し訳ありません。小雨がしとしと降るという意味だそうですが、これも意味をなさないものですね。小雨なんてその日その時その場所の気象条件で異なるのですから、そもそも七十二候に上げるべきものとしては全く相応しくありません。いつものことですが、こんな七十二候が続くと、七十二候などなくてもよいのではと思ってしまいます。

 末候は「楓蔦黄」で、「かえでつたきばむ」と読みましょう。「楓」は「もみじ」と読まれることがありますが、「もみじ」とは秋に木の葉が色付くことを意味する「もみづ」の名詞形ですから、「もみじ」とは赤や黄色に色付いた木の葉のことです。ですから古文では「紅葉」と書いても「黄葉」と書いても「もみじ」(歴史的仮名遣いでは「もみぢ」)と読みました。「楓」はカエデのことですから、「楓」を「もみじ」と読むのは正しくはありません。また屁理屈になりますが、黄色だけではなく赤色にも色付きますから、「かえでつたきばむ」ではおかしいということになるのですが、ここは大目に見て、楓や蔦が色付くということなのでしょう。

 霜降の時期に木の葉が色付くということには、それなりの意味がありそうです。古来、木の葉を色付かせるのは、霜に当たったり時雨に染められるからと理解されていたからです。そしてそのような古歌はそれこそ枚挙に暇がないほどに伝えられています。時雨とは、晩秋から初冬にかけて降る冷たい通り雨のことですから、次候を時雨と理解することは可能でしょう。この時期、もみぢ狩りに出かけることがきっとあることでしょう。木の葉が色付いているのは、霜が置いたり時雨に染められたからとおもって観賞してみて下さい。

お詫び

はじめ公表した時に霜降が降霜になってしまっていて混乱していました。単なる変換ミスなのですが、ご迷惑をおかけしました。


秋の日の釣瓶落とし

2016-10-01 12:30:42 | その他
 最近は日の出が遅れ、日の入りが早まってきたことを実感します。特に秋の夕暮の早いことを、「秋の日の釣瓶(つるべ)落とし」と言います。釣瓶井戸を見たことがない人にとっては、何のことかわからなくなってしまい、もう一世代たったら、これも死語になってしまうのでしょう。もっとも釣瓶落としという妖怪の名前は死語にはなりそうもないので、勘違いされて理解されるかもしれません。

 秋は太陽の沈むスピードが、他の季節より速くなるというわけではありません。しかし日没の時刻が日に日にずれてゆくその変化が、四季の中で一番大きい。つまり日没時間が急速に早まるのです。気象庁の公表している2017年の東京の日没時間で比べてみましょう。

1月1日の日没は16時39分、1月31日では17時7分ですから、1カ月で28分日没が遅れます。同様にして、2月には27分、3月には26分、4月には24分、5月にも24分、夏至のある6月には僅かに10分遅れます。ところが7月になると既に夏至を過ぎていますから、15分早まり、8月には一気に35分、9月には何と1カ月で42分も早まります。10月にも37分、11月には急に減って18分、冬至のある12月には、一転して10分遅くなります。この現象は緯度が高くなるほどはっきりと現れるますから、北海道はもっとよくわかるでしょう。

 また、日が沈んでからもしばらくは日常生活に支障のない程度の時間帯を常用薄明と言うのですが、この継続する時間は季節により変化します。夏至や冬至の頃は薄明の継続時間はやく30分間と長いのに対して、春分・秋分の頃は最短く、約25分間しかありません。秋は太陽が真っ直ぐに落ちていくように沈むため、西の空が明るい薄明の時間が短く、みるみるうちに暗くなるります。「秋の日の釣瓶落とし」は主観的印象ではなく、客観的事実なのです。

 『枕草子』の冒頭に「・・・・秋は夕暮れ・・・・」と記され、秋の夕暮は情趣の深いものとされています。秋に夕暮れが注目されるのにはいくつか理由があるのですが、その一つは急に日が落ちて暗くなることに拠っているのでしょう。その他の理由については、また後日書くつもりです。