そろそろ11月3日の文化の日が近付いてきました。この日は、戦前は明治天皇の誕生日として「明治節」と呼ばれていました。文化の日には文化勲章の授与が行われます。まあ私には縁のない話ですが、それに相応しい活躍をされた方が、天皇陛下から勲章を授与されるのは、大いに結構なことだと思います。文化功労者は文科大臣が決定し、毎年350万円の年金がもらえるのですが、文化勲章には年金が伴いません。勲章というものには、いかなる特権も伴わないことが憲法で定められているからです。それより文化勲章は天皇陛下が親授されるのですから、それだけで破格の栄誉であり、年金など問題ではないのです。もっとも以前は親授ではなかったようですが。
天皇が授けるわけですから、その意匠もそれに相応しいものでなければなりません。写真で見るだけですが、白い5弁の橘の花の中心には三つの勾玉が、さらにその上部の鈕にも色付いた橘の実と常緑の枝葉があしらわれています。
ついでに一寸脱線しますが、500円硬貨にも橘が描かれていることに気付いていますか?他に桐と竹も描かれていて、お目出度尽くしとなっています。
勾玉があしらわれている理由は、私にははっきりとはわかりません。それでも三種の神器の一つであり、古来から神聖なものとして見なされていますから、天皇陛下の授けられる勲章には相応しいものでしょう。
意匠の中心となっているのは橘です。橘は柑橘類であることはよいのですが、現在の何という種類に相当するのかは、いろいろ問題がありそうです。伊豆の戸田(へだ)には自生地があるとして、町が宣伝していますし、京都御所にも左近の桜対になって、右近の橘が植えられています。また園芸店にも売られていていたり、これこそが橘であるという主張があるのですが、本当に古代の橘と同じであるかどうかは、誰にもわからないのでしょう。ただ現在のみかんよりは小形でしょうから、小蜜柑や柑子(こうじ)蜜柑などの、小形の蜜柑と思えばよいと思います。
文化勲章が定められたのは昭和12年のことです。はじめは桜の花をモチーフに考えられていたのですが、
【長く宮内省記者会に所属した井原頼明は、文化勲章制定の翌年である1938年(昭和13年)に初版の自著で、昭和天皇の意向で意匠が桜花から橘花に変更されたことを伝聞として、なぜ橘花なのかを自説として紹介している。なほ文化勲章の圖案はもと櫻花に配するに曲玉の意匠であつたが、「櫻は昔から武を表はす意味によく用ゐられてゐるから、文の方面の勲績を賞旌するには橘を用ゐたらどうか」との意味の畏き思召を拜し、恐懼した當局では更に案を練って工夫を凝らし、橘花に曲玉を配した意義深い圖案が制定されたと承る。— 井原頼明.増補皇室事典.冨山房,1979年(昭和54年),】とのことです。(【 】内はネット情報の引用です。)
要するに昭和天皇の御意向により、文化に相応しい橘が選ばれたというのです。それなら橘はなぜ「文」に相応しいとされたのでしょうか。
今でこそ柑橘類は普通に庭に植えられていますし、蜜柑の産地ならば一面に植えられていて、珍しいものではありません。しかし古代においては、神仙の世界からもたらされた神聖な果実の木と理解されていました。
『日本書紀』の垂仁天皇紀には、次のように記されています。あるとき垂仁天皇は、田道間守(たじまもり)を常世の国に遣わして、「非時の香菓」(ときじくのかくのこのみ)を求めさせました。これは時を選ばず、いつでも実のなる香しい果実のことです。彼は十年もかかってこれを探し出し持ち帰ったのですが、既に天皇は崩御されて間に合いませんでした。それで彼はそれを陵に捧げ、悲しみのあまりに死んでしまいました。その果実こそ、今言うところの橘である、という話です。つまり橘は、神仙の世界からもたらされた霊果であると考えられていたのです。
それなら古代には滅多に見られない希少植物であったかと言うと、それがそうでもありません。『万葉集』には橘を詠み込んだ歌が何と68首もあり、また「我が屋戸の花橘」が慣用的に詠まれています。つまり普通に庭に植えて花を楽しむ果樹だったのです。また花や青い実が薬玉を作る材料にされていましたまた。鎌倉時代の末期ではありますが、『徒然草(つれづれぐさ)』には「家にありたき木」として数えられています。
『万葉集』の橘の歌の中で、橘が神聖視されていたことを示す歌があります。
①橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹(万葉集 1009)
この歌は、天平二年(730)、左大臣葛城王(橘諸兄)が「橘」の姓を賜ったときの、聖武天皇の御製です。橘の永遠性、つまり常葉であることにことよせて、橘氏の繁栄を寿いだわけです。
このような橘の理解をもとにした歌を、ほかにも読んでみましょう。
②常世ものこの橘のいや照りにわご大皇(おおきみ)は今も見るごと (万葉集 4063)
③大皇は常磐(ときわ)にまさむ橘の殿の橘直(ひた)照りにして(万葉集 4064)
これらの歌はあきらかに天皇賛歌ですね。天皇の栄が、橘が常盤であるよう続くことを寿いでいるわけです。
実際、柑橘類の花や葉や実を観察してみると、葉は一年中艶やかに茂っています。花には爽やかな香があり、黄金色の実は、翌年の夏まで枝に残っています。夏蜜柑という果物がありますが、春先ではまだ酸味が多く食べられません。しかしそのまま夏まで成らせておくと、酸味が薄らいで食べられるようになる。それで夏蜜柑と呼ばれるわけですが、もちろんその花は前年に咲いているわけです。このように、柑橘類の花の時期には、前年来の実も見られ、途切れることなく栄えていることが目に見えてわかります。橙や譲り葉が正月の飾りとなるのと同じ発想ですね。
このような橘の理解により、①のように目出度い姓として「橘」が下賜されたわけです。そして橘という姓は、平安時代には「源・平・藤(藤原)・橘」(げん・ぺい・とう・きつ)と称して、由緒ある名族の姓となったのでした。
以上のようなわけで、橘にはいつまでも途切れることなく栄えるというイメージが伴っていますから、昭和天皇は、潔く散る桜よりも、文化の象徴としては橘が相応しいとお考えになられたのでしょう。、
それにしても陛下の御意向で急遽デザインが変更されたことは、なかなか興味ある逸話です。昭和12年のことでも、政治的な御発言は極力抑制されたことでしょうが、このような文化的なので、御遠慮されずに漏らされたのでしょう。
天皇が授けるわけですから、その意匠もそれに相応しいものでなければなりません。写真で見るだけですが、白い5弁の橘の花の中心には三つの勾玉が、さらにその上部の鈕にも色付いた橘の実と常緑の枝葉があしらわれています。
ついでに一寸脱線しますが、500円硬貨にも橘が描かれていることに気付いていますか?他に桐と竹も描かれていて、お目出度尽くしとなっています。
勾玉があしらわれている理由は、私にははっきりとはわかりません。それでも三種の神器の一つであり、古来から神聖なものとして見なされていますから、天皇陛下の授けられる勲章には相応しいものでしょう。
意匠の中心となっているのは橘です。橘は柑橘類であることはよいのですが、現在の何という種類に相当するのかは、いろいろ問題がありそうです。伊豆の戸田(へだ)には自生地があるとして、町が宣伝していますし、京都御所にも左近の桜対になって、右近の橘が植えられています。また園芸店にも売られていていたり、これこそが橘であるという主張があるのですが、本当に古代の橘と同じであるかどうかは、誰にもわからないのでしょう。ただ現在のみかんよりは小形でしょうから、小蜜柑や柑子(こうじ)蜜柑などの、小形の蜜柑と思えばよいと思います。
文化勲章が定められたのは昭和12年のことです。はじめは桜の花をモチーフに考えられていたのですが、
【長く宮内省記者会に所属した井原頼明は、文化勲章制定の翌年である1938年(昭和13年)に初版の自著で、昭和天皇の意向で意匠が桜花から橘花に変更されたことを伝聞として、なぜ橘花なのかを自説として紹介している。なほ文化勲章の圖案はもと櫻花に配するに曲玉の意匠であつたが、「櫻は昔から武を表はす意味によく用ゐられてゐるから、文の方面の勲績を賞旌するには橘を用ゐたらどうか」との意味の畏き思召を拜し、恐懼した當局では更に案を練って工夫を凝らし、橘花に曲玉を配した意義深い圖案が制定されたと承る。— 井原頼明.増補皇室事典.冨山房,1979年(昭和54年),】とのことです。(【 】内はネット情報の引用です。)
要するに昭和天皇の御意向により、文化に相応しい橘が選ばれたというのです。それなら橘はなぜ「文」に相応しいとされたのでしょうか。
今でこそ柑橘類は普通に庭に植えられていますし、蜜柑の産地ならば一面に植えられていて、珍しいものではありません。しかし古代においては、神仙の世界からもたらされた神聖な果実の木と理解されていました。
『日本書紀』の垂仁天皇紀には、次のように記されています。あるとき垂仁天皇は、田道間守(たじまもり)を常世の国に遣わして、「非時の香菓」(ときじくのかくのこのみ)を求めさせました。これは時を選ばず、いつでも実のなる香しい果実のことです。彼は十年もかかってこれを探し出し持ち帰ったのですが、既に天皇は崩御されて間に合いませんでした。それで彼はそれを陵に捧げ、悲しみのあまりに死んでしまいました。その果実こそ、今言うところの橘である、という話です。つまり橘は、神仙の世界からもたらされた霊果であると考えられていたのです。
それなら古代には滅多に見られない希少植物であったかと言うと、それがそうでもありません。『万葉集』には橘を詠み込んだ歌が何と68首もあり、また「我が屋戸の花橘」が慣用的に詠まれています。つまり普通に庭に植えて花を楽しむ果樹だったのです。また花や青い実が薬玉を作る材料にされていましたまた。鎌倉時代の末期ではありますが、『徒然草(つれづれぐさ)』には「家にありたき木」として数えられています。
『万葉集』の橘の歌の中で、橘が神聖視されていたことを示す歌があります。
①橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹(万葉集 1009)
この歌は、天平二年(730)、左大臣葛城王(橘諸兄)が「橘」の姓を賜ったときの、聖武天皇の御製です。橘の永遠性、つまり常葉であることにことよせて、橘氏の繁栄を寿いだわけです。
このような橘の理解をもとにした歌を、ほかにも読んでみましょう。
②常世ものこの橘のいや照りにわご大皇(おおきみ)は今も見るごと (万葉集 4063)
③大皇は常磐(ときわ)にまさむ橘の殿の橘直(ひた)照りにして(万葉集 4064)
これらの歌はあきらかに天皇賛歌ですね。天皇の栄が、橘が常盤であるよう続くことを寿いでいるわけです。
実際、柑橘類の花や葉や実を観察してみると、葉は一年中艶やかに茂っています。花には爽やかな香があり、黄金色の実は、翌年の夏まで枝に残っています。夏蜜柑という果物がありますが、春先ではまだ酸味が多く食べられません。しかしそのまま夏まで成らせておくと、酸味が薄らいで食べられるようになる。それで夏蜜柑と呼ばれるわけですが、もちろんその花は前年に咲いているわけです。このように、柑橘類の花の時期には、前年来の実も見られ、途切れることなく栄えていることが目に見えてわかります。橙や譲り葉が正月の飾りとなるのと同じ発想ですね。
このような橘の理解により、①のように目出度い姓として「橘」が下賜されたわけです。そして橘という姓は、平安時代には「源・平・藤(藤原)・橘」(げん・ぺい・とう・きつ)と称して、由緒ある名族の姓となったのでした。
以上のようなわけで、橘にはいつまでも途切れることなく栄えるというイメージが伴っていますから、昭和天皇は、潔く散る桜よりも、文化の象徴としては橘が相応しいとお考えになられたのでしょう。、
それにしても陛下の御意向で急遽デザインが変更されたことは、なかなか興味ある逸話です。昭和12年のことでも、政治的な御発言は極力抑制されたことでしょうが、このような文化的なので、御遠慮されずに漏らされたのでしょう。