近々、私の主催する生涯学習の会の行事として、川越歴史散歩に行くことになっています。そこで大変に困ったことが一つあるのです。それは旧川越城の一画に三芳野神社という神社があり、童謡『とおりゃんせ』の発祥の地と言われていることなのです。神社には発祥の地を示す大きな石碑があり、全ての川越観光案内書にそう書かれており、観光客は「へえ、そうだったのか」と感心して帰ります。しかし私にはどうしても信じられないのです。どうのように説明したものかと、頭を悩ませているのです。
御存知とは思いますが、まずは歌詞を御紹介しましょう。
通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細道じゃ 天神さまの 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
ネット情報では、「江戸時代に歌詞が成立したと見られるわらべうた。作詞者不明、本居長世編・作曲、あるいは、野口雨情作とも伝えられる(1920年頃収録レコード[要説明]に作者として記載されている)。」と記されていました。私にはこれを確認する方法がないので、取り敢えず、ネット情報の引用であると断ってそのまま載せておきます。
歌詞の意味するところは、表面的には理解できるのですが、なぜ「こわい」のか、それについて、一般に以下のように説明されています。わかったかのように書くのは嫌なので、これもネット情報のそのままの引用です。
「一説によれば、『とおりゃんせ』の舞台は、埼玉県川越市の三芳野神社(みよしのじんじゃ)とされている。三芳野神社では菅原道真が祭られている。三芳野神社は昔、川越城の城郭内に移されたため、「お城の天神さま」と呼ばれていたそうだ。お城の中なので、一般庶民は気軽に参拝できなくなり、時間も限られ、見張りの兵士も付けられた。特に、他国の密偵(スパイ)が城内に紛れ込むことを防ぐため、帰っていく参拝客に対して見張りの兵士が厳しく監視をしたという。これが「行きはよいよい 帰りはこわい」の由来となっているとのことだ。」
中には間引きの子殺しの歌であるとして、まことしやかに恐ろしげな解説をしているものもありました。
しかし実際、本当のことなのでしょうか。もし事実であると言うならば、それを証明する文献などの史料がなければなりません。ところがその様なものは皆無なのです。そう言うと必ず「そういう伝承がある」と反論されるのですが、伝承にせよ、伝承があったという史料もないのです。伝承などと言うものは、誰かが言い始め、世代が変われば伝承として流布し、さも以前からあったように語り伝えられ、既成事実化してしまうものです。事実、既に観光案内レベルでは既成事実化しているではありませんか。
それならなぜこのような伝承が出来てしまったのでしょうか。それは歌の内容の設定に符合する場所探しが行われ、川越城内にあった天神社ならば矛盾なく説明できるため、誰かが発祥の地ではないかと言い始めたことによると思われます。しかしこれも「思われます」というのであって、確証があるわけではありません。伝承というものは、所詮その程度のものなのです。もし史料があれば、これ幸いと、「○○という書物にによれば、・・・・」と大手を振って書かれることでしょう。しかし実際にはそのようなものはなく、「・・・・と言われています」以上のことは書けないのです。
そもそも「○○発祥の地」というものは、眉唾物が多いものです。何とか観光の目玉にしようとして、確実な根拠もないのに、既成事実化してしまいます。これは特に有名な唱歌や童謡のゆかりの地に関して、顕著に見られます。ここが歌に歌われている場所であるとして記念碑を立て、さも事実化のようにして宣伝し、土産物まで出来てしまう。ですから一つの歌のゆかりの地が、全国各地に複数出来てしまうことさえあるのです。
とにかくそういうわけで、歴史学的には三芳野神社が「とおりゃんせ」ゆかりの地であるという確実な証拠は皆無であることを確認しておきます。川越城跡にある歴史博物館も、学術的には何の根拠もないことを正直に認めています。歴史学的には根拠がなければ絶対に認められません。その辺りのことを博物館の学芸員の方に率直にうかがったところ、苦笑しながら歴史的には認められないということでした。がっかりさせてすみません。
もし百歩、否、万歩譲って川越城内の天神社であったとしても、三芳野神社の本殿は無理でしょう。何しろ三芳野神社の本殿は、本丸の中にあったのですから。大手門を潜り、いくつもの曲輪を通り抜け、ようやく本丸に到達します。いくらなんでも庶民が参拝だけの理由で本丸まで入らせてもらえるはずがありません。考えられるのは、最も外側に位置していた田曲輪に設けられていた遙拝所となっていた外宮でしょうか。田曲輪には天神社の外宮がありましから、特例中の特例として庶民が入れるとしても、せいぜいこのあたりまでのはずです。
そんなことより、この天神社の外宮にはもっと重要な歴史的意味があります。もともとは寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたのですが、明暦2 年(1856)川越城内三芳野神社の外宮として江戸城から移築され、さらに明治5年(1872)川越城廃城により、川越氷川神社に移築され、八坂神社と称されています。江戸城内にあった東照宮が残っているのですから、ぜひともこちらを見学していただきたいものです。
御存知とは思いますが、まずは歌詞を御紹介しましょう。
通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細道じゃ 天神さまの 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
ネット情報では、「江戸時代に歌詞が成立したと見られるわらべうた。作詞者不明、本居長世編・作曲、あるいは、野口雨情作とも伝えられる(1920年頃収録レコード[要説明]に作者として記載されている)。」と記されていました。私にはこれを確認する方法がないので、取り敢えず、ネット情報の引用であると断ってそのまま載せておきます。
歌詞の意味するところは、表面的には理解できるのですが、なぜ「こわい」のか、それについて、一般に以下のように説明されています。わかったかのように書くのは嫌なので、これもネット情報のそのままの引用です。
「一説によれば、『とおりゃんせ』の舞台は、埼玉県川越市の三芳野神社(みよしのじんじゃ)とされている。三芳野神社では菅原道真が祭られている。三芳野神社は昔、川越城の城郭内に移されたため、「お城の天神さま」と呼ばれていたそうだ。お城の中なので、一般庶民は気軽に参拝できなくなり、時間も限られ、見張りの兵士も付けられた。特に、他国の密偵(スパイ)が城内に紛れ込むことを防ぐため、帰っていく参拝客に対して見張りの兵士が厳しく監視をしたという。これが「行きはよいよい 帰りはこわい」の由来となっているとのことだ。」
中には間引きの子殺しの歌であるとして、まことしやかに恐ろしげな解説をしているものもありました。
しかし実際、本当のことなのでしょうか。もし事実であると言うならば、それを証明する文献などの史料がなければなりません。ところがその様なものは皆無なのです。そう言うと必ず「そういう伝承がある」と反論されるのですが、伝承にせよ、伝承があったという史料もないのです。伝承などと言うものは、誰かが言い始め、世代が変われば伝承として流布し、さも以前からあったように語り伝えられ、既成事実化してしまうものです。事実、既に観光案内レベルでは既成事実化しているではありませんか。
それならなぜこのような伝承が出来てしまったのでしょうか。それは歌の内容の設定に符合する場所探しが行われ、川越城内にあった天神社ならば矛盾なく説明できるため、誰かが発祥の地ではないかと言い始めたことによると思われます。しかしこれも「思われます」というのであって、確証があるわけではありません。伝承というものは、所詮その程度のものなのです。もし史料があれば、これ幸いと、「○○という書物にによれば、・・・・」と大手を振って書かれることでしょう。しかし実際にはそのようなものはなく、「・・・・と言われています」以上のことは書けないのです。
そもそも「○○発祥の地」というものは、眉唾物が多いものです。何とか観光の目玉にしようとして、確実な根拠もないのに、既成事実化してしまいます。これは特に有名な唱歌や童謡のゆかりの地に関して、顕著に見られます。ここが歌に歌われている場所であるとして記念碑を立て、さも事実化のようにして宣伝し、土産物まで出来てしまう。ですから一つの歌のゆかりの地が、全国各地に複数出来てしまうことさえあるのです。
とにかくそういうわけで、歴史学的には三芳野神社が「とおりゃんせ」ゆかりの地であるという確実な証拠は皆無であることを確認しておきます。川越城跡にある歴史博物館も、学術的には何の根拠もないことを正直に認めています。歴史学的には根拠がなければ絶対に認められません。その辺りのことを博物館の学芸員の方に率直にうかがったところ、苦笑しながら歴史的には認められないということでした。がっかりさせてすみません。
もし百歩、否、万歩譲って川越城内の天神社であったとしても、三芳野神社の本殿は無理でしょう。何しろ三芳野神社の本殿は、本丸の中にあったのですから。大手門を潜り、いくつもの曲輪を通り抜け、ようやく本丸に到達します。いくらなんでも庶民が参拝だけの理由で本丸まで入らせてもらえるはずがありません。考えられるのは、最も外側に位置していた田曲輪に設けられていた遙拝所となっていた外宮でしょうか。田曲輪には天神社の外宮がありましから、特例中の特例として庶民が入れるとしても、せいぜいこのあたりまでのはずです。
そんなことより、この天神社の外宮にはもっと重要な歴史的意味があります。もともとは寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたのですが、明暦2 年(1856)川越城内三芳野神社の外宮として江戸城から移築され、さらに明治5年(1872)川越城廃城により、川越氷川神社に移築され、八坂神社と称されています。江戸城内にあった東照宮が残っているのですから、ぜひともこちらを見学していただきたいものです。