鳥は一年中周辺で見られますから、鳴き声はいつでも聞けるのですが、春になると盛んに囀るようになるので、これからが一番楽しめる時期です。動物の鳴き声を人の言葉に置き換えたものを「聞き成し」と言いますが、鳴き声を音そのままに聞くよりも、人の言葉に置き換えて聞く方が、楽しみも増すものです。これまでも私のブログに何種類かの鳥の聞き成しについて書いていますから、重複する内容もありますが、初めてお読み下さる方もいらっしゃるでしょうから、その点は御容赦下さい。
私の住む比企丘陵では、毎年必ず2月の下旬からウグイスが囀り始めます。「ホーホケキョウ」という鳴き声を知らない人はいないでしょうが、これは「法 法華経」というわけで、お経を読む有り難い鳥と理解されていました。「経読み鳥」という異称もあるくらいです。出雲風土記には「法吉鳥」と記されていますから、そのような理解は奈良時代からあったのかもしれません。
古歌には鶯が自分の名前を呼んでいる歌がありますから、「ウーグイス」と聞いていたことになります。『夫木抄』310には、「いかなれば春来るからに鶯のおのれが名をば人に告ぐらん」という歌があります。
また現代人が「ケキョケキョ」と聞いている部分は、「ヒトクヒトク」と聞き成されていました。これは漢字では「人来人来」となり、「人がやって来る」という意味です。『古今集』の1011には「梅の花見にこそ来つれ鶯の人来ひとくと厭ひしもおる」という歌があります。「私は梅の花を見に来ただけなのに、鶯が人が来る人が来ると嫌がって鳴いているよ」という意味なのですが、この歌は俳諧歌の部に収められていますから、作者も最初から言葉遊びのつもりで詠んでいる歌です。それでもその様な共通理解があったからこそそのように詠まれているわけです。
今朝の散歩道では、ホオジロの鳴き声も聞こえました。よく電線や背の高い草木のてっぺんで鳴いていますから、縄張りの宣言なのでしょうか。強いて音そのままに表せば、「ピッピチュピーチュー」てな感じなのですが、ウグイスよりは複雑な鳴き方です。これを聞き成しでは「一筆啓上仕候」(イッピツケイジョウツカマツリソウロウ)とか、「源平つつじ白つつじ」と聞こえるとされています。そう思って聞けば、確かに「一筆啓上」くらいまでは納得できますが、「仕候」はかなり無理がありますね。「源平つつじ」には聞こえません。
最近では「サッポロラーメン味噌ラーメン」というのもあるそうですが、これもこじつけすぎで、そうは聞こえません。ただし「一筆啓上」がいつ頃からなのか、全く知りません。言葉の表現からは古そうですが、江戸時代まで遡るものかどうか、私は全く材料を持ち合わせていないので、どなたか御存知でしたら教えて下さい。
そろそろヒバリも鳴き始めます。ヒバリは囀りながら上昇しますから、広範囲にその声が聞こえます。私が子供の頃に聞いたことですが、ヒバリはお日様に銭を貸しているので、利子を取り立てるために空高く上っていくのだそうです。一般には音そのままに表せば「ピーチクピーチク」に近い音に聞こえるのですが、聞き成しでは「日一分日一分利とる利とる」とか「日一分日一分月二朱」ということになっています。古い単位を使っていますから、あるいは江戸時代以来のことかも知りません。
4月になるとツバメがやって来ますが、人家の軒に巣を作って子育てをするので、その鳴き声を近くで聞くことができます。よく観察していると、いわゆる囀りの他にも何通りかの鳴き方があるようです。囀りは
「チュピチュピチュピジー」というように聞こえますが、聞き成しでは「土食って虫喰ってしぶーい」と表現されます。これは田んぼで土を掬ってきては巣を作ったり、飛びながら虫を捕らえて食べている生態によるものです。最後の「しぶーい」の部分は、くちばしをカスタネットのように上下で叩いて音を出しているので、鳴声ではなさそうです。
キジは3月から盛んに鳴いています。わざわざ人目に付く小高いところで鳴きますから、鳴き声の方をさがすとすぐに見つかります。キジの鳴き声は昔から「ケンケン ホロホロ」と決まっていて、平安時代以来の文献にもたくさん記録されています。ただし「ホロホロ」の部分は翼を力強く胴体に打ち付ける時の羽ばたきの音ですから、厳密な意味での鳴き声ではありません。これをほろ打ちというのですが、「ほろほろと泣く」に通じるため、恋の和歌にたくさん詠まれるわけです。古くは「きぎす」とも呼ばれています。「ス」はカケス・カラス・ホトトギス・ウグイスなどのように鳥を表す接尾語であるという説がありますから、「きぎ」と聞いていたのかも知れません
鳥の聞き成しについては、「鳥の聞きなし - BIGLOBE」という素晴らしい研究成果をネットで見られますので御紹介します。私は鳥については特に勉強したわけでもないので、目新しい情報を提供することはできません。人の受け売りばかりですが、野外を歩く際の楽しみのきっかけになればと思って、身近な春の鳥の聞き成しを御紹介しました。
私の住む比企丘陵では、毎年必ず2月の下旬からウグイスが囀り始めます。「ホーホケキョウ」という鳴き声を知らない人はいないでしょうが、これは「法 法華経」というわけで、お経を読む有り難い鳥と理解されていました。「経読み鳥」という異称もあるくらいです。出雲風土記には「法吉鳥」と記されていますから、そのような理解は奈良時代からあったのかもしれません。
古歌には鶯が自分の名前を呼んでいる歌がありますから、「ウーグイス」と聞いていたことになります。『夫木抄』310には、「いかなれば春来るからに鶯のおのれが名をば人に告ぐらん」という歌があります。
また現代人が「ケキョケキョ」と聞いている部分は、「ヒトクヒトク」と聞き成されていました。これは漢字では「人来人来」となり、「人がやって来る」という意味です。『古今集』の1011には「梅の花見にこそ来つれ鶯の人来ひとくと厭ひしもおる」という歌があります。「私は梅の花を見に来ただけなのに、鶯が人が来る人が来ると嫌がって鳴いているよ」という意味なのですが、この歌は俳諧歌の部に収められていますから、作者も最初から言葉遊びのつもりで詠んでいる歌です。それでもその様な共通理解があったからこそそのように詠まれているわけです。
今朝の散歩道では、ホオジロの鳴き声も聞こえました。よく電線や背の高い草木のてっぺんで鳴いていますから、縄張りの宣言なのでしょうか。強いて音そのままに表せば、「ピッピチュピーチュー」てな感じなのですが、ウグイスよりは複雑な鳴き方です。これを聞き成しでは「一筆啓上仕候」(イッピツケイジョウツカマツリソウロウ)とか、「源平つつじ白つつじ」と聞こえるとされています。そう思って聞けば、確かに「一筆啓上」くらいまでは納得できますが、「仕候」はかなり無理がありますね。「源平つつじ」には聞こえません。
最近では「サッポロラーメン味噌ラーメン」というのもあるそうですが、これもこじつけすぎで、そうは聞こえません。ただし「一筆啓上」がいつ頃からなのか、全く知りません。言葉の表現からは古そうですが、江戸時代まで遡るものかどうか、私は全く材料を持ち合わせていないので、どなたか御存知でしたら教えて下さい。
そろそろヒバリも鳴き始めます。ヒバリは囀りながら上昇しますから、広範囲にその声が聞こえます。私が子供の頃に聞いたことですが、ヒバリはお日様に銭を貸しているので、利子を取り立てるために空高く上っていくのだそうです。一般には音そのままに表せば「ピーチクピーチク」に近い音に聞こえるのですが、聞き成しでは「日一分日一分利とる利とる」とか「日一分日一分月二朱」ということになっています。古い単位を使っていますから、あるいは江戸時代以来のことかも知りません。
4月になるとツバメがやって来ますが、人家の軒に巣を作って子育てをするので、その鳴き声を近くで聞くことができます。よく観察していると、いわゆる囀りの他にも何通りかの鳴き方があるようです。囀りは
「チュピチュピチュピジー」というように聞こえますが、聞き成しでは「土食って虫喰ってしぶーい」と表現されます。これは田んぼで土を掬ってきては巣を作ったり、飛びながら虫を捕らえて食べている生態によるものです。最後の「しぶーい」の部分は、くちばしをカスタネットのように上下で叩いて音を出しているので、鳴声ではなさそうです。
キジは3月から盛んに鳴いています。わざわざ人目に付く小高いところで鳴きますから、鳴き声の方をさがすとすぐに見つかります。キジの鳴き声は昔から「ケンケン ホロホロ」と決まっていて、平安時代以来の文献にもたくさん記録されています。ただし「ホロホロ」の部分は翼を力強く胴体に打ち付ける時の羽ばたきの音ですから、厳密な意味での鳴き声ではありません。これをほろ打ちというのですが、「ほろほろと泣く」に通じるため、恋の和歌にたくさん詠まれるわけです。古くは「きぎす」とも呼ばれています。「ス」はカケス・カラス・ホトトギス・ウグイスなどのように鳥を表す接尾語であるという説がありますから、「きぎ」と聞いていたのかも知れません
鳥の聞き成しについては、「鳥の聞きなし - BIGLOBE」という素晴らしい研究成果をネットで見られますので御紹介します。私は鳥については特に勉強したわけでもないので、目新しい情報を提供することはできません。人の受け売りばかりですが、野外を歩く際の楽しみのきっかけになればと思って、身近な春の鳥の聞き成しを御紹介しました。
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