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女子校最後の日本史の授業

2024-02-03 09:58:48 | 私の授業
以下の長い話は、私が非常勤講師をしている某女子高校における、三年生最後の日本史の授業です。ただし一部省略しています。

 とうとうこの時がやって来てしまいました。卒業式でまたお会いしますが、授業で皆さんとお会いするのはこれが最後です。それは同時に半世紀を高校の日本史の授業に懸けてきた私の、教職人生最後の授業かもしれません。

 昨年の最初の授業で、歴史がいかに大切なものであるか、歴史の積み重ねなしに我々は文化的な生活をすることはできないこと。また現代の生活の中に、歴史の痕跡が沢山隠れていることをお話しました。たとえば漢字に音読みと訓読みがあることは、古墳時代の大陸文化受容の名残なのです。漢字を学んだ大和人達は、次に漢字の音や訓を活用して、漢字だけで日本語を書くようになりました。万葉仮名ですね。女の子の名前には、今も万葉仮名的な可愛い名前がたくさんあります。ところが仮名とはいえ漢字は画数が多いので、速記には不向きです。そこで万葉仮名を省略したり簡略化して表音文字を発明しました。こうして平安時代には片仮名と平仮名が普通に用いられるようになったのです。桜の花の散るのを惜しんだり、暑さの厳しい時に吹く涼風に秋の近いことを予感したり、弱りゆく虫の声に往く秋を惜しんだりする自然理解は、古今和歌集以来のものです。富山県のおにぎりにととろ昆布が巻いてあるのは、北前船が蝦夷地の海産物を運んだ名残です。バウムクーヘンというドイツの菓子は、第一次世界大戦の青島攻防戦で捕虜となったドイツ人菓子職人ユーハイムに、捕虜慰安のために作らせたことが起原でした。バウムクーヘンとは「木の菓子」という意味で、年輪を重ねることから、現在では結婚式の引き出物として喜ばれています。スバル自動車という会社は、戦前は一式戦闘機(通称「隼」)を作っていた中島飛行機という大きな会社でしたが、GHQが大企業が軍国主義の温床となったと考え、過度経済力集中排除法により分割されました。しかし朝鮮戦争で共産主義勢力が釜山まで迫ると、アメリカは日本を共産主義の防波堤とするため、企業分割が緩和されました。そのため一度は分割された五つの会社が合併して一つの大きな会社となり、スバル自動車ができました。だからそのエンブレムには小さな五つの星と合併後の大きな会社である大きな星が一つデザインされているのです。しかもスバルとは外来語ではなく、一つにまとめることを意味する「統る」(すばる)という言葉に由来します。これが他動詞ならば統べる「すべる」となり、一つにまとめるという意味ですから、統一という意味になるわけですね。

 このように現代に残る歴史の痕跡の古今の例を上げてみました。私達は現代という地表に生きていますが、実は現代というものは分厚い歴史という大地の上の薄皮に過ぎないのであって、大地に支えられなかったら、現代というものは存在さえできないのです。いかがですか。歴史の積み重ねがなかったら、現代人は一日たりとも文化的生活をすることができないのです。歴史がどれ程重要なものかがわかったことでしょう。ですから現代人は祖先に対して敬意を払い、その先祖が残してくれた業績のよき継承者となって、次の世代に引き継いで行かなければならないのです。私は常にこのことを意識しながら授業で語ってきました。

 さて、長かった受験勉強も間もなく終わります。せっかく覚えた学習内容も、もう忘れてしまったかもしれません。確かに律令制で農民の口分田の面積は、男は二段、女はその三分の二などということは、忘れてしまっても、社会人として何の問題もなく、恥ずかしいことではありません。しかしそれならあの辛い受験勉強は何のためだったのでしょうか。何か役に立ったのでしょうか。ましてや日本史を受験科目にしなかった人にとっては、何の価値があったのでしょう。そう思うのも無理はありません。しかし単に受験のための一時の方便に過ぎないのなら、私の仕事は何と空しいではありませんか。予備校の先生ならいざ知らず、私は予備校講師ではありません。しかし私は大きな意義があったと思っています。それは次のようなわけです。一時的に覚えたことは忘れてしまっても、辛い勉強をやり抜いた経験そのものは消えてしまうわけではありません。目標に向かってそれぞれに努力したというその経験自体が重要なのです。この経験は言わば意志の力・心の力を鍛えるトレーニングのようなもので、知らず知らずのうちに心の筋肉は増殖しているのです。筋肉は負荷を懸けるトレーニングを継続的に行わなければ増殖しません。そして筋トレの効果はすぐに現れるものではありませんから、皆さん自身も自分の変化に気付かないでしょうが、三年間のトレーニングの成果は、確実に身に付いています。そして社会に出てから家庭や職場で困難な課題に直面する時に、その力が発揮されるのです。私は日本史学習という負荷を懸けることにより、皆さんの人間力を鍛えるトレーナーだったのです。皆さんは日本史を学習したのではなく、日本史で人生そのものを学習したのであり、私はその学習環境を用意しただけなのです。もちろん歴史的思考力や教養が身に付き、知的生活を豊かにすることはあるでしょう。また皆さんの希望する大学に入学する学力を身に着けるのに役立つことはあったでしょう。しかしそれは最終目的ではありません。

 また科目の学習以外でも、あなた達は様々なトレーニングをしていました。例えば文化祭。皆さんにとっては高校生活の楽しい思い出の一コマに過ぎないかもしれません。もちろんそれで良いのです。しかし私の見方は少々異なります。クラスで一つの目標を決めて、それぞれが役割を分担し、より良いものを創造するために協力していました。その過程であなた達は計画性・協調性や責任感や積極性を身に着けていったのです。その経験が社会人になって役に立つのです。例えば家族で楽しいピクニックに行く。会社で何かイベントを行う。参加者はそれぞれの置かれた立場で参加し、皆と協力しつつ成功するよう努力するではありませんか。その際、文化祭での経験が無意識に役に立っているのです。そうです。無意識になのです。部活動も委員会活動も、体育祭も修学旅行もみな同じことです。

 先生に厳しく叱られることがあったかもしれませんが、それも実はあなたの心を鍛えるトレーニングでした。ある部活の部長が顧問に厳しく叱られている場面を見ましたが、私はその生徒が良い人生経験をしていると思って見ていました。皆さんは自分に責任がないのに叱られると、不満に思うでしょう。しかし社会人になるとそのような場面はいくらでもあります。取引相手からのクレームに対して、私のせいではないと言おうものなら、商談は潰れてしまいます。じっと堪えてやり過ごさなければならないことはいくらでもあります。その様な時に厳しく叱られた経験の無い人は、挫折したり恨みに思ったりする可能性が大きいのです。叱られ馴れというと聞こえが悪いですが、叱られる経験すら無駄ではありません。

 この学校には極端なブラック校則はありませんが、納得できない指導もあったことでしょう。しかし社会の共同体で、独自のルールのない共同体など一つもありません。その一員になったなら、たとえ納得できなくても、遵守しなければなりません。もちろんどうしても納得できなければ、手順を踏んで異議を申し立てたり改善を提案すればよい。その勇気は大いに評価されなければなりませんし、共同体が常に健全であるためには必要なことですから、何でも黙って従えというわけではありません。私は規律については喧しくは言いませんでした。例えばダンスの練習で昼休みがつぶれてしまい、お弁当を食べ損なった生徒が、五時間目に食べながら勉強することを認めていました。授業中の私語や座席の移動やスマホの使用は全く自由でした。それは皆さんはいざという時には、やるべきこととやってはいけないことを、その場の状況に応じて判断する力を持っていると思っていたからです。実際、授業が混乱して成立しないことなど、一度もありませんでした。札幌農学校のクラーク大佐は、校則は唯一つ「Be Gentleman」だけでよいと言ったという話を授業でしましたね。

 またいじめられたり、誰かの言葉に傷ついた経験のある人もいるでしょう。もちろんあってはいけないことですが、現実にはどこでも起こりうることです。しかしそこからも学ぶことがあります。そういう辛い経験をした人は、人の心というものはどうしたら傷つくのか、どの様にしたら慰められ、勇気づけられるのか、自分の経験として学びます。いいですか、よくお聞きなさい。あなたは優しい心の持ち主になれるのです。今度はいじめられて泣いている人を励ます人になれるのです。体験に裏付けされたあなたの言葉には、優しさに裏付けされた力があるからです。もし「自分は弱い人間だ」と落ち込んでいるとしたら、私はあなたのためにお話したい。強くなれる方法があるのです。女性蔑視のつもりではありませんが、「女は弱し、されど母は強し」という言葉があります。母というものは何故強いのか。それは愛するものがあるからです。愛するものがある時、人は強くなれる。その「もの」とは人でもあり物でもあります。どうぞあなたの愛するものを見つけて、力強く生きて下さい。

 話せばきりがないのですが、とにかく学校生活では、授業も部活も学校行事も友達付き合いも全て、あなたが社会で生きて行くのに必要な力を養うトレーニングになっていたのです。無駄なことなどありません。ただし社会人免許皆伝ではありません。あくまでも初級免許です。しかし社会で困難な課題と直面する時に、高校で身に着けた心の筋肉、つまり頑張る意志の力と、社会性・協調性・責任感・計画性などが相俟って、社会で生きる力がさらに強化され、逞しく立派に自立していくことでしょう。そしてさらに上級のスキルを身に着けて、上級免許を取得してゆくことになるでしょう。

 次に皆さんの進路についてお話します。まずはこれから決まる人も含めて進学先が決まった人へ。入学することは今までは目標だったのでしょうが、入学する途端に、それは目標ではなく、スタートラインに替わってしまいます。今後あなたが問われるのは、何を学ぶかということです。私が大学に籍を置いている間に学んだこと、特に体験的に学んだことは、授業だけでなくサークル活動やアルバイトや海外生活も含めて、私の教員生活に大きく役立ちました。私の授業では、話の幅が広く、色々な材料や経験を駆使して、日本史の授業をしていたことに気が付いたことと思います。多少の寄り道も失敗も、長い目で見れば無駄ではありませんでした。どうぞ色々幅広く経験して下さい。しかし目的の方向だけはしっかり見据えておきなさい。第一志望ではない人へ。そのこと自体は悔しい経験でしょうが、いくつ合格したとしても、入学するのは一校だけ。決まった以上は開き直って切り替えましょう。その経験は、あなたの人格形成に、必ずや良き感化を及ぼします。私も早稲田大学には不合格で、第二志望の大学に入学しました。しかし今となっては、それで何の問題もありませんでした。恥ずかしいことでもありませんでした。その頃は知りませんでしたが、一流の先生達に親しく学んでいました。

 浪人するかもしれない人へ。あなたの努力が足りないわけではありません。目標が高いのです。悔しいと思うことでしょうが、あなたは貴重な人生経験をすることになります。合格することはそれはそれで良いことではありますが、挫折を経験することによって練られるあなたの心の力は、あなたの生涯を通してあなたを励ましてくれることになるでしょう。成功した喜びよりも、失敗から立ち上がった勇気の方が人生のエネルギー源になるということを、今のあなたはすぐには理解できないでしょうが、いずれじわじわとわかる時が来ます。私も教員採用試験に合格したのは二八歳の時でした。私は日本史の先生として、ある意味で大きな自信を持っています。もちろん自慢ではありません。辛かった時期に幅広い経験したことが、授業で語る私の言葉の力となっていることがはっきりとわかるからです。失敗から立ち上がったからこそ、同じような体験をしつつある生徒を力づけることができるからです。人生は敗者復活戦です。

 進学しない人へ。多くの級友が進学する中にあって、あなたの存在を決して忘れません。そのような進路を決めたあなたの選択をrespectします。何か考えることがあるのか、事情があるのでしょう。ただ生涯をかけて何をしたいのか、今すぐに決める必要はありませんが、そのことは常に頭の隅に置きながら、まずは当面の目標に向かって頑張って下さい。私には、皆が右を向くと、一人逆らって左を向く傾向があります。人と異なる選択をすることを卑下することなく、かといって自慢することもなく、あなたにしか出来ないことを追求して下さい。将来が楽しみです。

 どの様な進路に進もうと、人生の中では選択を迫られる場面がたくさんあります。その時どの様にしたら良いか。まずはあなたが心から信頼する多くの人の意見を聞きなさい。友人や親はもちろんのこと、先輩・先生・上司・専門家など、色々な立場の人から幅広く意見を求めましょう。そして謙虚になってそれらの意見を参考にして考えましょう。決して独断をしてはいけません。しかし最後の最後はそれらの意見を参考にしつつ、経済的なこと・健康状態・年齢・自分の能力や適性や希望など、自分の条件も考え合わせ、自分で決断しましょう。あなたの人生です。最終決断を自分以外に委ねてはなりません。それは、思い通りにならない時、人に最終決断を委ねた場合は、うまく行かないことの責任をその人に押しつけてしまいがちだからです。それに対して自分で最終決断をしたならば自己責任であり、自分で頑張るしかないと考えて胆が坐ります。また方向転換を図るにせよ、自己責任なら早く切り替えられます。どちらが困難な中でエネルギー源となるかは明白です。もちろん以上の話は、私の七三(あと少しで七四)年の人生で私が学んだことであり、万人共通の模範解答ではありません。私の話はあくまでも参考であって、あなたはあなたで決断すれば良いのです。将来就職するに当たっては、やはりやり甲斐のある仕事でなければなりません。みなそれぞれに夢と適性がありますから、具体的なことは言えませんが、唯一つ共通して言えることがあります。それは誰かのために役立てる仕事、公共の福祉に貢献できる仕事を選びなさいということです。もちろん生きていくために利益を追求することは間違いではありません。しかし己の個人的欲望を満たすためだけの仕事は空しいものです。誰かが喜んでくれると思えばこそ、頑張れるものです。そこに仕事への誇りと責任が生まれます。

 先日、将来教職に就きたい人はと尋ねると、思いのほか多かったのでとても嬉しくなりました。それでその心得をお話しておきましょう。これはその人の為だけではなく、全員に役立ちます。なぜなら教職に就かなくても、ほとんどの人が自分の子供の先生となるからです。幼い時はまずは豊かな心と言いましょうか、感性を育てることを大切にしましょう。幼い頃、経済的に苦しかったのでしょう。母は枯れたコスモスの枝で飯を炊きながら、「コスモスで炊くご飯だから、コスモスの匂いがするよ」と語りかけてくれたものです。一緒に入り日を眺めながら、「お日様、バイバイ、また明日」と手を振ったことも鮮やかに覚えています。そして年齢が増すにつれて、「なぜ?」という疑問を持つようになります。親や先生は、子供や生徒が「どうしてそうなるのか?」と考えるように導き、さらに「ああ、なる程」と納得できるようにヒントや答えを用意してやるのです。そこから知的関心が芽生え、探求することの面白さを理解するようになるのです。例えば幼い頃には「からすのお母さんは、赤ちゃんからすがかわいい、かわいいって鳴いているんだよ。ほら、カワイイ、カワイイって聞こえるでしょ」と語りかけます。そして少し成長すると、子供は「七つの子っていうけど、七匹なのかなあ、七歳なのかなあ?」と考えたりします。そこから子供なりの探求が始まります。答えはどちらでもよいのですが、学ぶということは年齢に関係なく、「なぜ?」と思うことから始まるのです。先生や親はその様な疑問に対して、子供が納得できる答えやヒントを用意しなければなりません。要するに豊かな感性と、幅広い関心や経験を持つ事が大切なのです。そしてそれ以上に大切なことは、生徒を、子供達を大切にする優しい心です。

 最後に蛇足を一つ。理想の伴侶を見つける方法をお話しましょう。色のますます美しくなるお年頃、素敵な出逢いもあるでしょう。しかし早まってはなりません。一番大切なのは「優しさ」です。図書委員会のアンケートで、理想の男性像の第一位は「優しさ」でした。私はその結果を見てホッとしました。イケメンも悪くはありませんが、絶対条件ではありません。将来、あなたが仕事から疲れて帰宅した時、「俺のメシは?」と言われるより、「お疲れ様、晩ご飯は作っておいたよ」と言われる方が嬉しいに決まっています。イケメンの芸能人が、下らぬ週刊誌ネタで醜態をさらしている例を、いくつも見聞きしているはずです。それより「人としての優しさ」は絶対条件です。「男としての優しさ」ではありませんよ。基本的に男という生物は、女にはみな優しいものなのですから、あなたに優しくしてくれるというのは、優しさを判断する決め手にはなりません。あなたに優しくしてくれるからと、有頂天になってはなりません。自分の方に振り向かせたいと思っている女に、優しくしない男はいないのです。かつての私もそうでした。その男性が本当に人として優しいかどうかは、よくよく観察していればわかります。見極める基準は、自分に利害関係のない立場の弱い人に対して優しいかどうかで判定できます。衆目の集まる中でそのような人にさりげなく優しく接することは、常に勇気に裏付けされなければできません。誰からも助けてもらえずに困っている人、悲しんでいる人、つらい思いをしている人、いじめられている人に対して、真心と勇気をもって優しく接してあげているか。もしそれができない男なら、どれ程他の条件が良くても、将来の伴侶として選んではなりません。あなたを女性として優しく対等に尊重してくれる男性を選びなさい。もう一つ、本当に優しい男性かどうかを見極めるポイントは、自分の失敗を素直に認めて謝ったり、他人の失敗を許せるかどうかです。意地を張って自分の非を素直に認めなかったり、いつまでも怒り続けて人を許せないのはいけません。他人の失敗をいつまでも許せない男は、妻であるあなたの失敗をも許せないことでしょう。お互い失敗しながら、迷惑をかけ合いながらも、互いに許し合える関係がなければ長続きしません。いつも他人の失敗を許している人自身が失敗をした時、人はその失敗を快く許してくれるものです。普段から他人の失敗を厳しく咎める人が失敗したとき、人はそれを許してくれないものです。「白馬の王子様」のように、一緒にいると胸がときめき、この人と一緒になれば幸せになれそうだという人より、この人と一緒ならば、どんな困難も共に乗り越えて行けそうだという人を選びなさい。もちろんその人にときめきを感じるなら最高ですが。日本人の平均初婚年齢は、女性の場合は二八~二九歳です。あなたにはまだ十年の猶予があり、それでもまだ平均です。お年頃ですからいろいろお付き合いもするでしょう。その過程で失敗もするでしょう。しかしそれによって見極める力が付くならば、失敗も良い経験です。そして最も大切なことは、いいですか、ここが最も大切なことですよ。男性にあれこれ要求するのではなく、あなた自身がそのような優しく、勇気があり、智恵のある素敵な女性になることです。とにかく皆さんに幸せになってほしいのです。

 長くなりましたが、最後の最後に、私が詠んだ和歌を贈ります。私には趣味らしい趣味もないのですが、古風な和歌を詠んだり、和歌集を読むことが好きで、この一年間でいくつか皆さんの和歌を詠みました。それらはいずれ卒業式にはお伝えしたいと思っています。その中の一首です。「さくら花 髪にかざして 色よりも 香にこそ匂へ ○○の乙女子」。美しい桜を髪に飾れば、ただでさえ美しい年頃の皆さんは、もっと美しく輝くことでしょう。「色」とはこの場合は女性の美しさを意味しています。それは目に見える表面的な美しさであり、今が一番美しいのですが、いずれ年齢を重ねるほどに色褪せてゆきます。「香」とは目には見えない内面的な美しさのことで、品格とか心の美しさとでも言いましょうか。これは年齢を重ねるとともに衰えるものではありませんが、磨かなければ香ることもありません。「○○」は学校名を万葉仮名で表現したものですが、いつまでも久しく真(まこと)の存在であってほしいという願いを込めています。表面の色が褪せることは避けられません。しかし内なる香りは磨くほどに匂います。皆さんが年齢を重ねる程に内から馥郁とした香りが溢れ、それが周囲の人によき感化を及ぼし、疲れた人を癒やし、力づける存在となる様にと願ってお贈りします。そして私の半世紀に及ぶ教職人生の最後を美しく飾って下さいましたことを、心より感謝いたします。私は授業開始と終了の礼を、考えるところがあって一切しませんでしたから、今日は最初で最後の起立と礼をしましょう。だれか号令をかけて下さい。


1 コメント

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Unknown (響鼓)
2024-04-28 19:42:25
初めて先生のプラグを拝見いたしました。私も教壇に立つ身であり、このような言葉をかけていきたいと思います。日々勉強です。教え子の未来に幸あれと願ってやみません。
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