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『山家学生式』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-01-25 15:49:12 | 私の授業
山家学生式


原文
 国宝とは何物ぞ。宝とは道心也。道心有る人を名づけて国宝と為(な)す。故に古人言はく、「径寸十枚、是(これ)国宝に非ず。一隅千を照らす、此(これ)則ち国宝」と。古哲又云はく、「能(よ)く言ひて行ふこと能(あた)はざるは国の師也。能く行ひて言ふこと能はざるは国の用也。能く行ひ能く言ふは(最澄の直筆では「能く言ひて行ひ能く言ふは」となっている)国の宝也。三品(さんぽん)の内、唯(ただ)言ふこと能はず、行ふこと能はざるを国の賊と為(な)す」と。
 乃(すなわ)ち道心有る仏子を、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己(おのれ)に向け、好事を他に与(あた)へ、己(おのれ)を忘れて他を利するは、慈悲の極(きわみ)。
 釈教(しやつきよう)の中、出家に二類あり。一は小乗の類、二は大乗の類。道心の仏子は即ち此の類。斯(ここ)に今我が東州、但(ただ)小像有りて、未だ大類あらず。大道未だ弘(ひろ)まらざれば、大人(だいにん)興(おこ)り難し。誠に願はくは、 先帝の御願(ぎよがん)、天台の年分、永く大類と為(な)し、菩薩僧と為さんことを。

現代語訳
 国宝とは如何なるものか。宝とは仏の道を求める心である。この心(道心)のある人を、名づけて国宝とする。故に古(いにしえ)の人が言うには、「直径一寸の十個の玉(ぎよく)が国宝ではない。片隅にいても千里を照らす者、これこそが国宝である」と。また古の哲人が言うには、「(仏の悟りを)よく説くことができるならば、(土木や福祉などの菩薩行を)よく実践できなくても、国師(国を導く人)である。(その反対に)それをよく実践できるならば、よく説くことができなくても、国用(国の役に立つ人)である。よく実践するだけでなく、よく説くことができるならば、国宝である。これら三種類の人がいるが、説くこともできず、実践もできなければ国賊である」と。
 すなわち道を求める心のある仏弟子を、西方のインドでは菩薩と称し、東方の中国では君子と呼ぶ。悪い事は自己に向け、好い事は他の人に与え、自己を忘れて人のために働くのは、究極の慈悲である。
 釈迦の教えでは、出家者には二種類がある。一つは小乗の教えの出家者、二つは大乗の教えの出家者である。道を求める仏弟子はこの大乗の出家者である。今、我が国では、ただ小乗のみがあり、いまだ大乗の出家者はいない。大乗の道はまだ弘(ひろ)められていないので、大乗の修行者はなかなか現れないのである。誠に願うところは、先帝(桓武天皇)の勅願により定められた、天台宗の年ごとの出家者(年分度者)を、今後は永く大乗の僧とし、その修行僧とすることである。                            
解説
 『山家学生式(さんげがくしようしき)』は、弘仁九年(818)から翌年にかけて、最澄(767~822)が、奈良の寺院とは別に、比叡山で独自に僧を養成するため、その制度の確立許可を三回にわたり嵯峨天皇に奏請した文書の総称で、六条式・八条式・四条式の三つから成っています。そして「学生式」とは、正式な僧侶を目指す「学生」の守るべき生活・修行の規律のことですから、「山家」とは、この場合は天台宗や延暦寺を意味すると理解できます。
 最澄の非願は、大乗戒壇の設立でした。得度(とくど)(正式に僧となること)するためには、受戒(授戒)が必須でしたが、十人の高僧の前で二五〇戒に及ぶ具足戒(ぐそくかい)を守ることを、誠実に誓約しなければなりませんでした。それに対して大乗仏典の『梵網経(ぼんもうきよう)』に基づく戒は、在家と出家の区別なく、五八戒が説かれていました。これを大乗戒(菩薩戒)と言います。
 延暦二十五年(806)、最澄の奏請に応えて、桓武天皇の勅により、毎年得度する僧の人数が南都六宗と同様に、天台宗にも二名が割り当てられました。これを「年分度者(ねんぶんどしや)」といいます。これは天台宗が宗派として公認されたことであり、最澄にとっては大きな成果でした。しかし期待に反し、東大寺で受戒する弟子の多くが延暦寺に戻らず、南都六宗へ移ってしまったのです。ですから比叡山に独自に大乗戒を授ける戒壇を設立し、自らの手で僧を養成したいと最澄が考えたのは、自然なことでした。ただし六条式の第二条に、「大戒を受け已(おわ)らば、叡山に住せしめ、一十二年、山門を出(いで)ず、両業(りようごう)(天台の諸経典を修学する止観(しかん)業と、密教を修学する遮那(しやな)業)を修学せしめん」と記されているように、大乗戒を受けた後、比叡山で十二年間の厳しい修行を定めていますから、戒の数が少ないからといって、決して安易なものではありません。
 しかし南都寺院が猛烈に反対し、朝廷の許可は得られません。それに対して弘仁十一年(820)、最澄は南都仏教の批判に反論する、『顕戒論(けんかいろん)』を著して朝廷に奏上したのですが、結局、弘仁十三年(822)、最澄は五六歳で亡くなってしまいます。しかしその七日後、嵯峨天皇の勅により大乗戒壇の設立が認められました。そして延暦寺に戒壇院が設立されたのは、天長四年(827)のことでした。最澄、以て瞑すべし。
 ここに載せたのは、『山家学生式』の六条式の前書きの部分です。「国師」とは、仏法の奥義をよく語れる僧のことです。また六条式の第六条には「国用」の任務などについて、「池を修し、溝(用水路)を修し、荒れたるを耕し、崩れたるを埋め、橋を造り、船を造り、樹を殖(う)ゑ、苧(からむし)(麻の一種)を植ゑ、麻を蒔(ま)き、草を蒔き、井を穿(うが)ち水を引き、国を利し人を利する」ことと説明されています。要するに奈良時代の行基のように、社会福祉的菩薩行をする実践的な僧のことです。そして「国宝」とは、国師と国用のどちらにも優れた僧というわけです。ですから六条式の第五条に、「能く行ひ能く云ふは、常に山中に住して衆の首となし、国宝となす」と記されているように、「国宝」とは、「衆」(延暦寺の諸僧)の首長となれる程の、傑出した僧のことなのです。そして最澄は国家のための「国師」と「国用」となる僧、さらには「国宝」とも言うべき特に秀でた大乗僧を養成したいと考えていました。『山家学生式』は、あくまでも延暦寺における大乗僧養成に関する文書であり、断じて一般庶民を対象としたものではありません。
 ところが「国宝」の解釈について、原文では「照千一隅、此則国宝」となっている句を、「照于一隅」と理解して「一隅を照らす」と読み(「于」は場所を示す語)、「求道心を持ち、社会の片隅にいながら、社会を照らす人こそが国の宝である」という解釈が、広く行われています。しかし「天台法華宗年分縁起」とインターネットで検索すれば、最澄の直筆を見られますが、それには「照千一隅」と書かれていて、「千」を「于」と読むことは、一目瞭然、絶対に不可能です。つまり「一隅千を照らす」が本来の読み方であり、「一隅にあっても遠く千里まで照らす有為な人材こそ国宝である」という意味なのです。
 この句は本来は、『史記』の故事に拠っていています。「魏の恵王が斉(せい)の威王に、『我は馬車十二乗を照らす玉(ぎよく)の宝を十個も持っているが、威王はどの様な宝を持っているか』と尋ねた。すると威王は『玉の宝はないが、優れた家臣がいて、この者が千里を照らす宝である』と答えると、恵王は恥じて立ち去った」というのです。また原文の「古哲又云はく」の部分の出典『摩訶止観(まかしかん)輔行伝弘決(ぶぎようでんぐけつ)』には、斉の威王の故事も引用されていて、最澄は直接『史記』から引用したのではなく、ここからほぼそのまま孫引きしています。そしてそこにははっきりと、「守一隅・・・・照千里」と記されているのです。
 社会の「一隅を照らす」こと自体は結構なことです。しかし最澄の筆跡、「国師」と「国用」を兼ねた「国宝」となる傑出した僧を養成したいという六条式全体の趣旨、斉の威王の故事、『摩訶止観輔行伝弘決』の記述などを総合すれば、最澄の言う「国宝」とは、千里を照らす人物であることは明白なのです。宗門の説くことより、宗門とは関係の無い者が説くことの方が、宗祖の言葉をよく理解できるとは、何という皮肉ではありませんか。比叡山関係者の反論を聞いてみたいものです。


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